【水瀬家の事情②】
視界の先に広がる空が次第に橙色に染まり始めるころ。僕と木下の眼前に、鉄筋の細長い建造物が見えてきた。規則正しく三棟並んだその建物は、水瀬茉莉の自宅がある公営住宅だ。雨垂れ跡目立つ薄汚れた外壁が、築年数を雄弁に物語る。
公営住宅の側面には、十枚ほどの扉が均等に備えられていた。昼の熱気が
「なあ、木下。水瀬の家って何号室?」
「
「いや、しかし」
女の子と接すること自体得意でもないのに下の名前で呼ぶなんて。そんな逡巡を覚え押し黙っていると、「うーん」と唸りながら木下が空を見上げた。見上げた彼女の横顔が、ほんのりと朱に染まる。
「でも、やっぱダメだわ」
「ん、どうして?」
あっさりと手のひらを返した木下の顔を、不審に思い覗きこんだ。
「茉莉が嫉妬する」
「はあ? なんで水瀬が嫉妬するんだよ。そもそも誰に」
まったくもって、意味がわからん。
「鈍感」
と言って木下が愉快そうに笑う。
「本気で意味がわからん」
「303号室」
話の腰を折るように、木下が言った。
「303」と僕は反芻した。「じゃあ、三号棟かな」
そう呟くと、夕陽が当たり壁が茜色に染まっている一番西側の建物に足を向ける。
額に滲む汗を拭い、目的地である303号室が視界に入った丁度その時、303号室の扉が勢いよく開かれた。
バタンと大きな音が立つほどの荒々しい開き方。跳ね上がるほどに驚いた僕と木下は、咄嗟に道路わきの草地に身をひそめた。
「なんで隠れたんだろ」と木下が舌をだす。「別に疚しいことしてないじゃん」
「だよな」と僕が同意すると、二人顔を見合わせて思わず苦笑い。
ところが僕たち二人が張りつけた笑みは、即座に剥がれ落ちることになる。扉から出てきた人物が、あまりにも想定外だったことで。
それは、濃い目の金髪に無精ひげを生やした三十代と
「なあ、木下……。水瀬の家って確か、彼女と母親の二人暮らしだったよな?」
バイクの姿が完全に見えなくなってから、僕は口を開いた。お世辞にも人がいい人物には見えない。それがどことなく、母親を襲った事件の犯人を連想させていた。
「……ええ、そのはずだけど」
どこか諦めたような響きの木下の声。嘆きと失望の中に、微かな苛立ちが含まれているようだった。
303号室の扉をじっと睨み、木下はそのまま口を噤んでしまう。
前に木下が言っていた水瀬の過去って、今の男となんか関係があるんだろうか。次々と湧き上がってくる嫌な予感を押し留めて、僕は木下と水瀬家の玄関口に立つ。
呼び鈴を押すと「ピンポーン」という、張り詰めた空気とは裏腹に間の抜けた音が響いた。続けて聞こえてくる、はーい、という女性の高い声。ややあって姿を現したのは、髪の長い中年女性だった。
背中まで伸ばされた長い髪。百六十を越えていそうな身長。きめ細やかな肌は色白で、整った輪郭線。女性の顔をうまく認知きない僕でも、水瀬の母親だろうと一目でわかった。
「誰? もしかして、茉莉の同級生の子?」
透明感ある声音の裏に、手短に用件を済ませたいという素っ気無さが垣間見える。
「はい。茉莉さんと同じクラスの木下といいます。茉莉さんはご在宅でしょうか?」
上手く話を切り出せず沈黙する僕に、隣の木下が助け船をだした。用件を簡潔に伝えた。
「あら」と母親が思案げに首を傾げる。「まだあの子、学校から戻ってきてませんけど」
水瀬が在宅していない、という事実に不安が強くなる。
いや、そんなことよりも。木下の顔を知らないとでも言いたげな母親の対応が気に掛かる。水瀬と木下の交流状況について最近どうとかは勿論知らないが、それでも顔くらい知っていてもいいんじゃないのか? 転校前の小学校でも木下は娘の同級生だっただろう? どういうことだ?
「
木下の声が瞬間的に熱量を下げる。慌てて僕は二人の会話に割り込んだ。
「あ、いいえ。なんでもないです、すみません。実は茉莉さん、三日前から学校を休んでいるんです。それでやって来たんですが、本当に家にいないんですか?」
「あら……そうなの? 今朝だって普段通りに家を出たのにおかしいわねぇ。あの子ったら学校にも行かずに何処でサボっているのかしら。帰ったら、少しきつく言っておきますね」
もう一度首を傾げて、嘆息混じりの声で母親が言う。中空に向けた眼差しに険しさが混じる。
木下がごくりと喉を鳴らした。
「いえ、あまり強く叱らないでください」
漂い始めた緊張感を和ませる目的で、努めて明るい声をだした。
「たぶんですけど、学校でなにか嫌なことでもあったんでしょう。それで休んでるんだと思います。僕たちも心当たりを捜してみます。元々、たいした用事があった訳じゃありませんので。では、これで失礼します」
「あらそう?」
うっすらと安堵が滲んだ母親の目を見ながら、会話を切り上げた。玄関の扉が閉まった瞬間に、思わず溜め息が漏れた。
木下の苛立ちが伝わってきたのもそうなんだけど、これ以上話を続けても埒が明かないと判断した。
視線は、確かに合っているはずなのに、母親の瞳はこちらに向いていない。そんな感じの、微細な違和感がずっとあった。
同級生だった木下の顔を憶えておらず。娘の動向も、心情の変化も、まったく把握できていない。これら情報の羅列から、一つの推論が導き出されていた。
──水瀬茉莉は、母親に愛されていない?
考え過ぎだろうか? だとしたら良いのだが。公営住宅に背を向け、木下と歩き始める。
踏み出した一歩目に力が入りすぎたのか、ざり──と砂利を踏みしめる音が大袈裟に響いた。
「家に居ないとなると、困ったわね……茉莉……どこに行っちゃったのよ」
独白するような、木下の声。一方で僕の頭の中には、とある場所の光景が鮮明に浮かんでいた。無論、確証なんてないが、おそらく水瀬はあの場所にいる。
歩きながら財布を取り出すと、現在の所持金額を確認した。
なんとか、間に合うだろうか。
「なあ、木下」
「ん、なに?」
行く当てもなく、歩いていたであろう木下が、秒で反応した。
「いや、水瀬の居場所なんだけど、ちょいとばかり心当たりがある」
「それは──本当なの?」
「ああ。悪いんだけど、もう少しだけ僕に付き合ってくれるか?」
憤慨したように腰に手を当て、木下が立ち止まる。
「当たり前でしょ、そんなの。私が茉莉を放っておいたまま帰るとでも思ってたのかしら」
見損なわないで、と強い口調で木下が吐き捨てた。
「すまん。あ、それからさ」
「ん、今度は何?」
「木下。学校祭のパンフレット、持ってないか?」
「学校祭のパンフレット? あ~……確か一枚だけ手持ちがあるけど──なんで?」
「それ、譲ってくれないか? ちょいとばかり考えがあるんだ」
「別に構わないよ。誰かに渡す予定もないし」
そう言って木下は自分の鞄の中を探ると、ほら、とパンフレットを差し出して来る。
「サンキュ、恩に着るぜ
「何よそれ」という不満そうな言葉とは裏腹に、それは清々しい響きの声だった。
そうして僕たちは歩き始める。一ヶ月前に水瀬と待ち合わせをしていた、辺鄙な駅を目指して。
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