第四章:水瀬茉莉のトラウマ
【水瀬家の事情①】
次の日も、そのまた次の日も、水瀬茉莉は学校を休んだ。きっと風邪か何かだろう、と軽く考えていた僕たちの間にも、次第に焦りの色が広がり始める。
金曜日、放課後。
昨日までと同じように、クラスアート実行委員の作業が続いていた。しかし、水瀬の欠席が三日続いたことにより、美術室の中には重苦しい空気が満ち満ちていた。
「どうするんだ」
と首だけをこちらに向けて稔が悪態をつく。
「弱音を吐くのは正直
手を動かしつつも、腰掛けた椅子の下で貧乏揺すりを続ける足。稔はもはや、苛立ちを隠そうともしていなかった。
「やっぱりさあ。悪口を言われていたことが、休んでいるのと関係してんのかな? デリカシーに欠ける俺ですら、心無い言葉だと思うもん。水瀬は繊細だから……ショック受けちゃったんだろうね」
稔の顔色をうかがいながら、徹が勤めて明るい声をだす。彼なりに場を和ませようとしているのは明白だった。
明らかに人手が足りなくなったことで、徹も空間のベタ塗りなど簡単な作業に従事していた。しかし彼は稔ほど器用ではないので、発言と同時に手が止まってしまう。
「それは無いと思う。学校を休む前日も特に妙なところはなかったと思うし、そんな程度で休むような子じゃないよ茉莉は。……だいたい、悪口くらいでいちいち休んでいたら、きりが無いわよ……」
次第に語尾を濁しつつも、木下が徹の発言に首を振る。
僕も彼女の意見に賛成だった。水瀬と出会ってから僅か二年ほどの記憶ではあるが──彼女が体調不良以外の理由で学校を休んだことはなかったように思う。
それだけに、不安は強くなるばかりだった。
学習態度はマジメな水瀬が三日も無断欠席──そう、無断欠席なのである──を続けている今の状況を思うと、想像以上によくないことが起こっているんじゃないかと。だが、こんな時こそ地に足を着け、先ずは今やるべきことを。そう頭を切り替えて僕も筆を握るが、気もそぞろでキャンバスの上を視線が滑る。
──ダメだ。
途切れた集中力の中、筆を洗う片手間で美術室の壁に貼ってあるカレンダーに目を向けた。
学校祭まで残された時間は一週間と少し。このまま、水瀬を欠いた状態で作業が進むと仮定したとして、文化祭当日の完成度は、いい所八割が精々か?
もう一度キャンバスに目を向ける。
このまま、八割程度の完成度で作品として公開することだってもちろん可能だ。可能なのだけれど、ここまで皆で頑張ってきたんだから、絶対に最後まで完成させたい。
しばらく悩んだ末に、僕はこう結論を出した。
「やはり水瀬がいないと間に合わないと思う」
三人の視線が、一斉に僕の方に流れてきた。
「だから僕が、水瀬の様子を見に行ってこようと思う。もし、可能であるならば、木下も一緒に来て欲しい」
「正気か?」と稔の顔が険しいものに変わる。「ただでさえ人手が足りないというのに、この上木下まで欠いたらいよいよ間に合わなくなるぞ」
「それは、承知の上だ」
稔が懸念を示すのも、もっともな話。彼の意見を汲み取った上で、僕はさらにこう続けた。
「けど、頼む……。今現在、水瀬が置かれている状況にもよるが、おそらく水瀬の親友である木下の助けが必要になる。水瀬が学校に来て作業に合流できなければ、クラスアートはどのみち学校祭まで間に合わない。違うか? 完成させたいだろう? 稔だって」
しっかり目を合わせて自分の意思を伝える。少し卑怯な提案をしている、という自覚はあった。だが同時に、木下の力が必要になるだろう、という予感もあった。──意識したとたん、腹の底で成長を始めた不安とともに。
「まったく……」
呆れたように呟きを落とし、後頭部をかきむしる稔。だがやがて、観念したようにこう続けた。
「しょうがないな。僕の力が及ばぬ事実を認めるようで甚だ不本意ではあるが、確かに翔の言う通りだ。現実問題、水瀬を欠いたままでクラスアートの完成は有り得ないだろう。アイツの筆の速さと堅実さは、はっきり言って化け物レベルだからな。それに」
再びキャンバスに向き合うと、手を動かし始める。
「水瀬の様子を誰が見に行くか、と考えた場合、翔と木下だろうと僕も思っていた」その代わり、と今度は肩越しにこっちを見た。「水瀬がつまらない理由で家の中に引きこもっているようなら、どんな手段をつかってでも引っ張り出せ。来週から学校に来るよう説得しろ。それまでこちらは、僕がなんとかしておくから」
「ああ、任せろ」
木下が帰り支度を始める様子を横目で見ながら、稔に向かって親指を立てた。
「それから、徹?」
と稔が言った。
「な、なんだい?」
ここまで傍観していた徹の背筋が軽く伸びる。
「人手が今以上に足りなくなるから、お前の仕事量を増やすぞ……覚悟しておけ」
「マジかよ~! 俺が頭脳労働に向いてないの、知ってるだろ~が!」
「乗りかかった船だ、諦めろ」
「人使いの荒い船長だ!」
二人の遣り取りを見て、木下が忍び笑いを漏らす。じゃあ、行こうか、と彼女を促して二人で美術室をでる。
廊下に出て、足早に昇降口を目指す道すがら、木下が声をひそめて言った。
「彼、案外といい人なのね」
「稔が?」
彼女の口から似合わない発言がでてきた事に驚き、思わず尋ね返した。
「ええ」と木下が頷いた。「なんていうのかなあ、もっと偏屈な人だと思ってた」
「いや、それで合ってる。偏屈だよ、稔は」
木下の発言を笑い飛ばした後で、小声で付け加える。
「ま、でも、変わったと思うよ。アイツ」
なんて、『変わったのは、お前もな』先を急ぐ木下の背中を見ながら、そっと心の中で舌をだした。
当初、様々な理由からぎくしゃくしていた僕たちだったが、次第にいいチームになり始めている。そんな実感が、確かにあった。
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