【美化委員の仕事①】
「起立。きをつけ、──礼」
委員長の号令が教室中に響いて、午後のホームルームが始まった。
全員の着席を確認したのち、先生は黒板の方に体を向けると、チョークで文字を書き並べていった。
生活委員。保健委員。体育委員。文化委員……エトセトラ、エトセトラ。
それを見て、生徒の口から上がり始める不満の声。
「うわ~」
「役員決めかぁ、嫌だな……」
「はい! 先生~。いつになったら結婚するんですか~?」
どさくさに紛れて関係ない質問を飛ばしているのは、案の定、お調子者の徹だ。
「それでは、二学期も始まって早速ではありますが、後期クラス委員の選出を行いたいと思います。それから徹君。先生はまだ、結婚の予定はありません。君が一人前の大人になるまで、心労が絶えなさそうですしね」
いっさい動じることなく先生が皮肉で返すと、徹が照れ隠しで頭をかいた。漂い始めていた緊張感が、瞬間、すっと溶け出して空気が和んだ。こういった、さり気無く場を弛緩させる技は、さすが徹といったところ。
それでも、僕の陰鬱な心は晴れそうにない。
役員決めのとき漂う、殺伐とした空気がどうにも苦手だ。もっとも、得意だ、なんて言う奴がクラスの中にもし居るのであれば、一度じっくり話を聞いてみたいものだが。
どうせ今回も、同じ流れになる。
人気のある役員や、負担が軽めの役員は早々に立候補で埋まっていくのに、不人気なものが残されたとたん、みな一様に口を閉ざして会話の流れが止まってしまう。沈黙が続くなか自然と押し付けあう空気が生まれ、余計に雰囲気が悪くなるという悪循環。
なら、さっさと立候補でもしちまえよ、と言われそうなもんだが、人数的に全員が役員に当たるわけでもないのだから、できればやりたくない、というのが本音。
こんな風に、受け身的な考えになってしまう根本的原因が、女の子の顔がわからないという僕の病にある。
だってさあ、全ての役員が、男女一人ずつのペアで決まるんだぜ? 見分けがつかないことで女の子と上手く打ち解けられない僕にとって、これは苦痛以外の何物でもない。
「はい先生! 俺、体育委員やります」
「僕は、図書委員でもやりましょうか」
体育委員にはスポーツが得意な徹が。図書委員には、理屈屋の稔が立候補した。まあ、彼らには適任だろうね、と僕も思う。
他の役員も順番にどんどん決まっていって、今回の残り物は、どうやら『美化委員』になったらしい。
主な仕事といえば、花壇の世話と花瓶の水換えだろうか? 内容は簡単なのに、意外と人気がない役員だ。朝の水遣りという早朝作業を含んでいるのが、不人気の理由なんだろうか。
でも、と隣の水瀬に目を向けた。
美化委員こそ、水瀬に向いているんじゃないのかな? 朝学校に着いたとき、今日も、花壇の脇にしゃがんで作業をしていた彼女の姿をそっと思い出す。
今朝は、枯れ始めた花を摘んでいた。せっかく咲いた花を摘み取ってしまうなんて勿体無い、とみんな思うだろうけど、そうした方が花全体に栄養が行き届くんだ、と母親に教わった記憶がある。
水瀬はきっと、花について色々と博識なんだろう。
ところがそんな彼女の視線は、相変わらず興味なさげに窓の外。
「水瀬さんがいいと思います。だって、お花が友達みたいだし」
漂い始めた沈黙を破ったのは、一人の女子生徒の声だ。ただし、語尾に余計な一言を添えて。
なんてことを言うんだ、と頭を抱えてしまうなか、くすくす、という笑い声がどこからともなく上がる。皮肉混じりの推薦文句に、みんなが気がついたんだろう。弱ったように、先生も肩をすくめて見せた。
こっそり隣の顔を横目で見るが、しかし、水瀬は別段気に留めた様子もない。……聞こえなかったのかな? 流石にそれはないか。
その後も水瀬は無言を貫き続ける。より一層深まっていく気まずい空気に耐えられなくなったのか、先生の方から話の水を向けた。
「どうかしら、水瀬さん。美化委員やれそうですか?」
うかがいをたてるような声。ようやく顔を正面に戻して先生と目を合わせると、水瀬は表情を変えることもなく、「やります」とだけ簡潔に答えた。
「あ、あらそう? 良かったわ」
水瀬があっさり肯定したのが意外だったのか、先生が少々上擦った声をあげる。
さっき推薦した女子はというと、どこか不満そうにふい、とそっぽを向いた。
「それじゃ、女子の方は水瀬さんにお願いするわね。男子からも一人選びたいんだけど……誰か立候補する人いないかしら?」
救いを求めるように、先生が教室中を見渡すが、もちろん誰も手を上げようとしない。美化委員の一人が爪弾きされている水瀬に決まったのだから、尚更といったところかも。
誰か手、あげんの? と言わんばかりに女子たちが冷やかな視線を走らせる中、誰も動かないのを確認してから、そっと僕は手をあげた。
「お、やるな~翔。ひゅ~ひゅ~」
即座に冷やかしの声を上げたのは徹。
同時に上がり始めていた、『なに立候補してんのよ』『キモ』といった女子たちの揶揄する声が、次の瞬間なりをひそめた。
正直、僕は女の子の間であまり評判が良くない。そんな僕が立候補することで、空気が悪くなることまでを見越して徹は声を上げてくれたらしい。『サンキュ』という意思をこめて視線を送ると、彼は素知らぬ顔で親指を立てた。
早坂翔。
水瀬茉莉。
ふたつの名前が、黒板に並んだ。
「それでは、美化委員は水瀬さんと早坂君にお願いします。明日の朝から早速仕事があるので大変ですが、宜しくお願いしますね」
ぱちぱちぱち、と気の無い拍手がまばらに上がるなか、ホームルームの時間は終わった。
それにしても、立候補なんて自分でも思いきったことをしたものだ。
もちろん、美化委員なんて面倒だしやりたくない。でも、唯一顔を判別できる女の子となら、やれるんじゃないかと思った。自分を変える足掛かりになるんじゃないかと思った。あと、それから。
世の中のあらゆることに興味がなさそうな水瀬の無表情が、どうやったら変化するのか知りたかった。彼女に花の話題を振ったら表情を変えるのか。関心を示してくれる話題が、他にもあるのか。
そして、女性の顔を認識できないはずの僕が、どうして水瀬の顔だけは見えるのか。それはあくまでも一時的なものでしかないのか。知りたいことは、探せば山ほどあったのだ。
まあ、色々高望みしすぎだとは思うけど。
その時突然、チクリと痛む胸。
なんだこれ、と戸惑いつつ隣の水瀬を見ると、彼女もこちらを向いていたため、意図せず視線がぶつかった。
直後、彼女は少し驚いたように、顔を黒板の方に戻した。
いや、これはほんとに、なんなんだよ。
熱を帯び始めた頬を、そっと指で擦った。
ジワジワと暑苦しい蝉の鳴き声が、大きく耳に響いた。
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