【美化委員の仕事②】

 翌日の朝。玄関で靴を履いていると、「ん。お兄ちゃん、もうがっこういくの」と後ろから声が聞こえてくる。

 立ち上がって顔を向けると、妹の佐奈さなが立っていた。肩の上で髪を切りそろえ、ピンク色のパジャマ姿でクマのぬいぐるみを片手に提げている。起きだしてきたばかりなのか、眠そうに瞼を擦っていた。 


「うん、そう。佐奈ももう起きたんだ。早起き、エラいね」


 ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた妹の頭を撫でる。「あ、そうだ」と僕は、ポケットからイチゴ味の飴を取り出した。昨日徹からもらった物で、流石に学校には持っていけない。


「これ、食べる?」

「わあ、ありがとう」


 甘い砂糖菓子でも舐めたように、にへらと口元に笑みが咲く。表情が上手く認識できないので、笑ったように見える、と言った方が正しいかもだけど。

 佐奈は、来年でようやく五歳。僕の視点で見ると、最後まで顔を見わけられていた女性の一人だ。


「あら、今日は随分と早いのね。翔がこんな朝早くから喜び勇んで学校に向かうなんて、いったいどういう風の吹き回しかしら?」


 エプロンを腰に巻いたまま、リビングからでてきたのは僕の母親。


「喜び勇んでって……僕、そんな顔してる?」


 なんとも表現しづらい恥ずかしさに襲われて、反射的に頬のあたりに手を触れた。

 佐奈の肩に手を置いて「してるわよぉ」と明るい声をだした母親を見て思う。母親の顔がわからなくなったのは、妹と同じで今年の春ごろだ。家族の顔ですらも――残酷な現実が心の中に陰を落として、小さく溜め息がもれた。


「別に、そんなことないから」


 誤魔化すように会話を切り、詮索の目を向けてくる母親から逃げるように玄関を飛び出した。髪は酷い寝癖がついているし、スニーカーの踵も潰されている。この慌てようじゃ、不思議に思われるのも当然かな。

 学校に向かう途中の曲がり角で、ランドセルを背負った女の子とすれ違う。出会いがしらで肩がぶつかりそうになって、お互いに会釈して道を譲り合う。

 たぶん同じくらいの歳なのに、知らない顔だ。こんなに朝早く家を出ているということは、私立の生徒だろうか、と朝焼けの中シルエットになった背中を見送った。

 女の子は、こちらを気にもしていないようだった。声をかけたところで、きっと不審そうに睨まれるだけだろう。そんなことを考えたとき、女の子の姿が不意に妹とダブった。


 佐奈は、僕が七歳の時に、母親が結婚したことで生まれた子ども。つまり、母親の連れ子だった僕との間に、血の繋がりは半分しかない。

 もっと幼くて、女の子と呼ぶに相応しい妹の姿を思い描き、次第に息が乱れ始めた。

 僕と佐奈は、歳は離れているが仲は良い。父さんの仕事が忙しくてあまり家にいないせいか、僕によく懐いてくれた。

 そんな妹も、来年小学生になる。

 今はまだ小さい背中も、いつかあの女の子みたいに大きくなるだろう。にこやかに僕の手を引いて歩くこともなくなるだろうし、飴玉を渡しても、きっと喜んでくれなくなる。血縁のことなどまだよく理解できていない妹も、僕との繋がりが特殊で希薄なものだと気づいたその日、さっきの女の子みたいに素知らぬ顔で僕を切り捨てるかもしれない。

 そうなったとき、家の中に僕の居場所はあるだろうか。

 佐奈は両親から望まれて生を受けた子ども。ならば僕は? 幸せな一家から僕だけが弾き出されてしまうイメージが胸中で形となって、高揚感が瞬く間に失われていく。


 またいつもの悪い癖。

 頭を左右に振って、よくない妄想を追い払う。乱れた息を抑え込み、校舎の姿が見えてきたあたりで歩調を緩めた。

 今の時刻は、六時五十分くらいだろうか。

 いつもより三十分ほど早く家を出た理由は、もちろん、昨日決まった美化委員の仕事で花壇の水遣りをするためだった。

 そっか……やっぱり早起きが原因で、みんな美化委員を嫌がるのかな、と酸欠気味の頭で腑に落ちる。

 眩しい朝日に目をすがめ、一度深呼吸をしてから校門の陰からそっと顔を覗かせてみた。


 はたしてそこに、水瀬茉莉はいた。

 昇降口の少し手前。花壇の脇にしゃがみ込んでいる彼女の服装は、胸元にフリルのついた可愛らしいデザインのワンピース。

 緩やかに波打った長い髪に、朝日が複雑に反射していた。雪のように白くてきめ細やかな肌。頬のあたりがちょっとだけ上がっている。

 笑っているのかな?

 それに、凄く綺麗だ。教室で見る水瀬と、なんとなく雰囲気が違う。

 輝いている、とでもいうんだろうか。

 女の子に対して初めて抱く感想に、心の中の一部分を指でつままれたような息苦しさを感じる。

 ダメだ。まだ酸素が足りない、と深呼吸をしながらなおも覗き見ていると、彼女は今日も、枯れかけの花を摘んでいるようだった。

 ──っと、こうしている場合じゃないや。

 我に返ると、『たった今到着しました』という雰囲気を意識しながら、昇降口の方に向けて歩き始める。気配を感じ取ったのか、ぱっと水瀬が顔を上げた。


「おはよう水瀬。随分と早いんだね、驚いた」


 水瀬は慌てた素振りで立ち上がると、僕に向かってぺこりと頭を下げる。どこかぎこちない仕草。こちらに向いた水瀬の顔は、何時もと同じ、緊張したような面持ちに変わってた。

 もう少し肩の力を抜いてほしい、なんて思ってから、またまた女の子に対して抱く未体験の感情に、自分でも軽くうろたえた。

 なんだろう、これ?

 本当に僕は、どうしてしまったというのか。それもこれも、水瀬の顔が見えることが原因なんだ。


「とりあえず、何をしたら良いかな?」


 なんとなく気恥ずかしくて顔を背けて尋ねると、水瀬はびくっと肩を震わせたのち、蚊の鳴くような声で囁いた。


「花に、水をあげてほしいかな」


 それもそうだな、と仕事の趣旨を忘れていた自分に苦笑い。「わかった」とだけ簡潔に答えた。


 用具置き場から如雨露じょうろを持ってきて水を汲むと、花壇の端にある花から順番に水やりを始める。水瀬は枯れてしまった葉を剪定せんていし、また、何箇所か株を植え替えしていた。こうして注意深く観察してみると、花はまったく等間隔で植えられていない。春先の僕たちが、如何にいい加減な花植えを行ったのか見て取れる。


「この花ってさ、マリーゴールドっていうんだっけ。名前」


 僕はさり気無く、ほんとさり気無く水瀬の傍らに寄ると、中空に目をやったまま話しかけてみる。


「うん、そうだよ。知ってるんだ?」


 瞬間、ぱっと笑顔の花が咲く。普段の彼女からは想像もつかない向日葵ひまわりのような微笑みに、僕の心臓が大きくはねた。


「あ、うん。まあ」


 思いもよらぬ水瀬の反応に、準備していた台詞の全てが吹っ飛んだ。


「マリーゴールドというのはね、キク科コウオウソウ属のうち、草花として栽培される植物の総称なの。よく栽培されているのは、フレンチ・マリーゴールドとアフリカン・マリーゴールドの二つ。この花壇に植えられているのは、草丈が低いからフレンチ・マリーゴールドの方ね」

「へ、へえ」


 僕の相槌を確認すると、立て板に水とばかりに彼女が捲くし立てる。口調も明るく、さっきまでとは雲泥の差だ。


「花の色や形がよく似ているキンセンカ、別名ポットマリーゴールドのことを指していうこともあるけれど、厳密にいうと、キンセンカはまったく別属の植物なのよ」

「べ、べつぞく」


 水瀬が何を言っているのか、もはや半分ほどしか理解できない。


「根に線虫の防除効果があるから、コンパニオンプランツとして作物の間などに植えられることもあるのよ。えーと、コンパニオンプランツというのはね、成長によい影響を与える植物のこと。……正直、この花壇の手入れは良くないほうだったけれど、マリーゴールドがそもそも乾燥に強い植物だったから、こうしてまだ花を咲かせてくれているのかもね。終わった花を摘むと次が咲き易いから、水やりが終わったら早坂君も──あ」


 ──あ?


 水瀬がもらした間の抜けた声に意識を目の前に集中させると、如雨露の水は完全に花から逸れ、花壇の土の上に水溜りを形成していた。


「わわっ、ごめん。全然的外れなところに」

 そして、水が途切れる。

「なくなった……」


 あはは、と水瀬はおかしくて堪らない、という様子で口元を覆って笑い始めた。


「……早坂君、なんかおかしい。ごめんね、なんだかあたし一人でペラペラ喋っちゃって」


 鈴を転がすような、澄んだ声音。……水瀬の声って、こんな感じだったんだな。予想よりトーンが高くて甘い響きに、益々胸が高鳴った。本当に、なんなのこれ。


「いや、なんていうか。水瀬が喋ったとこあんまり見たことなかったから、すごく新鮮でよかった。本当に、花が好きなんだね」

「うん、花は好きだよ……。花ってさ、手入れをしたら、ちゃんと綺麗な姿を見せてくれるから」


 ちょっとだけ、声のトーンが沈む。花だけ特別なのか? と思えるそのフレーズに、違和感の雲が心中にちょっとずつ広がる。


「早坂君も、花が好きなの?」

 葉を剪定する作業に戻りつつ、水瀬が尋ねてきた。

「う、うーん。まあ、普通かな」

 予期せず質問が返ってきたことに驚き、しどろもどろに答えた。自分でも、つまらない返しだと思った。

「そっか。そう──だよね」


 次の瞬間、彼女の笑顔は剥がれ落ち、唇は真一文字に結ばれた。視線も、何処か遠くを見るようなものに変わる。剪定を続ける手元を見ているようでもあり、もっと遠くに存在している何かを見ているようでもあり。

 嫌でも気づかされた。

 水瀬はおそらく僕に、「花が好きだよ」という返答を期待していたんだろうと。


「あの、もう一回、水汲んでくるね」


 気まずさから逃れるようにそう言うと、水瀬は首を横に振った。


「マリーゴールドは乾燥に強いから、もう大丈夫だよ。それよりも、枯れかけている花探して摘んでくれる?」

「わかった」


 如雨露を足元に置くと、彼女の向かい側に移動して枯れている花を探し始める。手を動かしながら、彼女の顔をちらりと見た。

 先ほどまでの笑みが消失したその顔は、瞳の色もなんだか濁って目に映る。いや、流石にそれは目の錯覚か。でも、僕が間違った答えを返したことは、紛れもない真実なんだ。

 再び機会が与えられるとしたら、今度こそ、

「花が好きだ」と答えよう。

 額を伝う汗を手の甲で拭いながら、僕は、そっと胸の内で誓いを立てた。


◇◇◇


 次の日も、また次の日も。僕は三十分早く家を出た。時間帯が合わなくなってしまったことで、通学路で徹や稔と会う機会もなくなったが、そんな事はどうでも良かった。

 花と向き合っている時の水瀬は、やはり穏やかな表情を浮かべていた。たとえ言葉を発していなくても、彼女の柔和な瞳は、花に語りかけているようだった。

 彼女の情熱が届いたのか、献身的な世話のお陰か、花壇の状況は確実に改善されていた。所々枯れていた葉は青々と繁り、咲く花の数も見違えて増えた。花壇になど興味も感心も持っていなかったであろう稔や徹、クラスメイトのがさつな男子連中ですら、時折足を止めるくらいには。

 自分と水瀬の共同作業がもたらした結果に、僕は鼻高々だった。

 朝限定ではあるものの、水瀬はやはりよく喋った。

 花の種類。手入れの仕方。前日に準備しておいた話題を振ってみると、教室で物憂げな視線を投げている彼女からは及びも付かないほど、饒舌に語った。それはもう、熱を帯びたように。


 やがて、僕は気がつき始める。

 水瀬は普段心を閉ざしてこそいるものの、本当は明るい女の子なんじゃないのかと。彼女に花の話題を振れば、むしろ饒舌になることからも可能性は高い。僕は、彼女の趣味や関心ごとを、もっと知りたいと願うようになった。

 けれど、こっちから上手く話題を提供できなければ、水瀬が無口であるのは変わらない訳で。思い切って「花の他に好きなものある?」と直球で尋ねたら、答えは「別に」だったけどね。

 そうやって幾度か失敗を繰り返し、何か探る方法はないかと思案した挙句、僕はとんでもない行動にでる。


 それは──下校していく水瀬を尾行すること。

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