【KAC20225】奔流怒涛に立つ

石束

北条幻庵 覚え書き

「自分が生まれた時のことを、おぼえているか」


 小太郎が薄暗い書庫で明り取りの窓から差し込む光を頼りに、古書の表紙のすり減った文字を追っていた時、ふとそんな声が聞こえた。

 作業に集中しすぎたせいかもしれぬが、聞き逃してしまった。

 そして、ややあって、それが奥の燈明の側で書きものをしている主の問いであると気づいた。


「あっ」と思わず息をのみ、その場に平伏する。

「失礼をいたしました。もうしわけありません宗哲さま」

 主の側に控え、同じ部屋で仕事を手伝っていたのだ。その主からの問いを聞き流すなど、主を軽んじるも同然。父に知られたら「せっかん」ものだ。


 とはいえ。ええと、ええと、と頭の中を必死で探るが、答えに挟んだ栞はない。


「もうしわけありません……何も覚えておりません」


「これこれ。別に責めておるのではないぞ。そんなもの、拙僧も覚えておらぬ故」

「はあ……」

 何と答えてよいかわからず、小太郎が生返事をする。主たる人、北条一門の長老、幻庵宗哲は別に気にした風もなく書き物を続けていた。

「拙僧の生年の前年、明応二年は京の幕府において将軍継嗣についての問題が起こった年であった」


 室町幕府の崩壊の切っ掛けになった大乱『応仁の乱』。

 十一年に及んだ長い長い戦乱のために、京の都は灰燼に帰した。幕府の屋台骨もたいがいに揺らいだが、何とか持ちこたえた。

 この戦乱が、西軍の解体という形で収束した後、幕府を主導していたのは将軍でも管領でもなく、将軍の妻であり将軍の生母でもあった日野富子だった。陰然たる支配などというものではなく、朝廷への報告も彼女が行ったというのであるから、実質的な代表者である。まずもって一代の女傑というべきだろう。

 だがその彼女のがんばりをもってしても、及ばなかった。いわゆる「明応の政変」を契機として、室町将軍は支配者ではなく支配者の旗印として都合よく乱立する存在となる。

 世は下剋上の乱世へと突入したのだ。


「わが北条がもとは伊勢氏と申し幕府の官僚の流れであったことはそなたも聞き及んでおろう。わが父、伊勢宗瑞は駿河守護今川氏親公の後ろ盾をえて伊豆にはいり、一代で二か国を切り従えて大名となったが、そもそもは乱れ切った京にいても先がなかったという事情があったのだ」


 そこで筆をおいて、宗哲はようやく頭を上げ書庫に積みあがった「それ」を眺めやった。


「己が知りようもない出来事を耳目をそばだてて聞き集め纏め整理して積み上げる。それを冷静にひも解く。それを飽かず続けることで、この箱根にいても諸国の事情を詳らかにすることすら可能」


 それは冊子に綴じる前の膨大な報告書だった。一枚限りの反故同然の紙切れから、書簡、巻紙、はては巻子まで山のようにうずたかく積みあがっている。

 

「この一冊、一枚に関東の情勢、甲斐の動向、越後の風聞、駿河の、かつまたその先の『今』記されておる」


 宗哲は体を起こし、ひとつため息をついてつづけた。


「すべては、ぬしら風魔党が血肉を賭して集めた情報。これあるからこそ、今の北条の繁栄がある」


 故に


「あくびなどして勉強を怠ると、そなたの父が怒るであろうから、頑張って学ぶのだぞ、三代目風魔小太郎よ」


◇◆◇


 まるでうわさに聞く唐土(もろこし)の仙人のような方だ。


 ――と、小太郎は父や兄から聞いていた。


 天正八年の今年は、数えで八十八歳になろうというご老体だが、小太郎が見るところ、今も矍鑠(かくしゃく)として、腰も曲がっていない。曲がりそうな気配さえない。

 何しろこれで、一つ年下が美濃の斎藤道三と甲斐の武田信虎だったというのだから、気が遠くなる。


 物腰柔らからで、物知りで、何かと器用で趣味人で、何より読書好きで古典籍の収集家というと、なんだかあの一代の英傑、初代様――早雲庵伊勢宗瑞様の子息とも思えないが、そこは幼いころに出家して箱根権現に入り、また三井寺で修業し、箱根権現では別当の役職を務められた、という経験によるのだろう。

(この宗哲も北条の一門であるから、鎧具足に身を固め先陣切って戦った時は「箱根殿」と呼ばれた)


 だが、いまだ未熟な小太郎であっても知っている。

 

 この一族の長老が北条一門において負う責務は実はそこではない。

 頼朝公と先の北条氏の頃から関東武士の聖域であった箱根権現を掌握し、幼くして畿内三井寺に遊学して見分を広げ、一門であるとはいえ、家臣の内で最大規模の領地を預かったのも、すべては外連にして詭道。


 自らの広大な領地の奥深くに隠れ田を営むことを許して、一切の痕跡を残さぬよう一族丸ごと抱え込んだ風魔党なる透破者を手足として、後北条家における諜報の一切を担当するのがこの老人の真の役割だった。


◇◆◇


「そうか。石山が信長に下ったか」

「は」


 火鉢を囲んで額をつけるようにしながら、茶室の中での会話である。

 話題は、先ごろ十年に及んだ石山合戦が織田信長の勝利で終わったことについてであった。


「毛利とは一層拗れような」

「そろそろ、毛利軍本隊とぶつかりまする」

「織田方は……」

「羽柴筑前にて」

 ああ、と宗哲は笑った。

「あの木下藤吉郎がのう。えろうなったものじゃ」


 その微笑は一瞬。幻庵宗哲はまなざしを鋭くした。


「信長が西に敵を抱えて居る時こそ、好機。誼(よしみ)を結ぶのは今しかあるまい」

「小田原様がご承知なさいましょうか」

「氏政には否とは言わせぬ」


 その目の光は、果たして火鉢の炎が映ったものか。


「この程度、武田上杉とやりおた頃の苦難とさして変わらぬ」


 その雄敵も今はもう存在しない。


「この山場を越えれば、北条はまた百年持ちこたえようぞ」


 北条一門の長老、幻庵宗哲。

 齢八十八にて、なおも現役。


 戦国大名の嚆矢、北条早雲の血統はまだ枯れていない。



 


 


 


 

 





 

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