88歳の僕たち
蕃茉莉
88歳の僕たち
「早く帰って来てね」
君がそういって送り出してくれる日は、きっと何かの記念日。
僕は日付を覚えるのが苦手だから、君がそう言った日はいつも、地下鉄の駅に向かって石畳を歩きながら、何の日だっけ、と考える。
誰かの誕生日、記念日。ほんのちいさな、でも家族にとっては嬉しいこと。
君は、そういう細やかなことを、とてもよく覚えている。
細やかなことの中には、
「結婚して初めて喧嘩のあと仲直りした日」
なんていうびっくりするような日もあって、僕は、君のその言葉を聞くと、なぞなぞをひっかけられたような気持ちにさせられる。
その言葉はいつだって、僕の心に幸せの種を運んでくれる魔法の言葉だった。
「早く帰ってきてね」
君は泣いていた。
泣きながらその言葉を言ったのは、初めてかもしれないね。
僕たちは国境のフェンスの前で抱き合い、キスをした。
それから、僕は子供たちを抱いて、愛してるよと伝えた。
君は何度も振り返りながら、子供たちと一緒にフェンスの向こうへ向かい、僕はその姿が僕らの生まれ育った国のむこうに歩いていくのを見送った。
いつもは見送る君を、いつもは見送られる僕が見送る。
こんな日が、僕らの人生にやって来るなんて。
「早く帰って来てね」
遮光シートの下で送られてきたメッセージを見ながら、僕は今日が君の誕生日だったことを思い出した。
誕生日おめでとう、と送ると、
「ありがとう。わたしたち、八十八歳になったわよ」
とメッセージが返ってきた。また、なぞなぞだ。
「なんのこと?」
「いまだけ、私たち八十八歳なのよ」
そうだった。君はよく、僕らや子供たちの歳を足しては、なぞなぞを仕掛けてくる。
生まれた年は違うけど、君と僕の誕生日は二日違い。僕は四十五歳、君は今日四十三歳になった。この二日間だけ、僕らは一歳近くなる。
「この二日だけは、少しだけわたしの背が伸びるように思うのよ」
いつか、君がそう言ったことがあったっけ。
「八十八は半端だね」
「でも、同じ数字が並ぶのは、なんだか楽しいわ」
「ほんとだね」
他愛ないメッセージのやり取りが、心に入りきらないくらい貴い。
「明後日には
メッセージを打っていると、ひゅう、とテントの上で、悪魔が息を吸い込むような音。
次の瞬間、衝撃が僕の身体を突き抜けていった。
きっと、僕は、永遠に四十五歳のままになる。
来年の君の誕生日まで、僕らは八十八のままだ。
8と8は、なんだか人が並んでるみたいだね。
僕の時間が止まっても、君の時間はずっとずっと動いていて。
再開は、もっとずっと先で。
愛してる。
遠のく意識の中で、君や子供たちや両親の笑顔が走り抜けていった。
88歳の僕たち 蕃茉莉 @sottovoce-nikko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます