第9話


 後悔はたくさんある。やりすぎた事もやらなかったことも。

 やらなかったことの一番は最初のとき口に布を噛ませておかなかったこと。

 枕元の衣装箱にはお誂えむきの白手袋が揃えてあったのに焦ってて思いつかなかった。そのせいで舌を噛まれて、今もざっくり傷跡が残ってる。痕跡なしで抱くことをなんだこれ手品かと妙に忌々しく言われるが、初夜の後悔が尾を引いて気をつけているに過ぎない。人間の傷跡は治癒しても復元はしない。爪のひとつも無くしたらそれきりだってことを、うっかり忘れかけてた。

 そっちはむかしのはなし。やりすぎて悔やんだ方はごく最近の出来事。未練をどうしても消せなくて俺じゃないのに喰わせて延命させようとした。同族にとって専属の相手は擬似的な恋人だが所有物でもある。人間がペットを家族とかいいながら金で買うことがある程度に。俺は自分の恋人に惚れてる仲間に所有権を譲って、代わりにたまには抱かせろと要求した。人でなしな真似をした結果は悲惨だった。マジ泣きされた上に抗原反応アナフェラキーショックで死なせかけた。

 最初はヒステリー症状かと思った。カラダ使いたいだけじやないだろうって必死に縋りつかれてる最中だったから。性愛セックスも一途で正直で重要な愛情なんだとか答えてるうちに顔色が真っ白になった。血圧が下がって全身の血流が足りなくなって、冷え切ったのを病院に運んだときは助からないかと思った。そういえば人間はこんな風に死ぬんだった。

 なんとか処置は間に合った。見慣れない上に似合わない悲しそうなまま死なせなくてすんでほっとした。でも未練は消えなくて、今回は適合しなかったが別の相手だったらいけるんじゃないかという気持ちもまだあった。ただ冷たくなったのを思い出すと次を試す勇気はなかなか出ず、しょんぼり通り越してぼんやりしてるのを見ているうちに覚悟も折れて、二度としないと誓うしかなかった。

 かわりに。

「屍姦してから埋めていいか」

 真顔で尋ねた。というよのも、頼んだ。

「ナカにナマでダしてから」

 この相手に死なれたとして、火葬して骨上げする勇気はたぶん出ない。深い場所に埋めて暫くは墓守して、未練たらたら離れてからもたまには思い出して墓参りに行くとかが精一杯。専属にした相手にしなれるのは初めてじゃないが、死なれる前からとか、女々しく気弱なことを考えたことは一度もなかった。

 俺は一緒に居てやりたいんじゃない。独りになるのが怖くてたまらないんだ。抱いた痕のついたまま埋めたいと、言ってしまってから気がつく。庇われて護られてきたのは俺のほう。こんなに甘やかしておいていまさら放り出すなよという恨みがましい気持ちが心のそこにある。

「……死体ってそんなキレイなモンじゃないぞ」

 少し考えた後で、俺に向かって久しぶりに二語以上の言葉を喋った、美貌の薄情者はいつでも恨めしい現実主義者リアリスト。でも返事をしたのは、恋人の死後のことを俺が喋ったのは初めてだったからだ。それまでは仮定で考えることさえ拒否していた。近い未来だと認識したくなかった。エンディングノートを頑なに拒否する老人のように。

「知ってる」

「構造的にも、ちょっとムリなんじゃないか。死ぬとも限らないし」

「半分ミイラになっててもいいからサせろ」

 カラダを使いたいだけかという抗議に、キレイじゃなくなった後もヤらせろと言い張るのが俺なりの意地で答え。

「試したみたいなら好きにしろ。どうせ……」

 痛くもないんだし、と続けなかったのは、俺が痛そうな顔をしてたからか。

「生きてるうちにもしていいぞ、それ」

「……どれを?」

「言うか、バカ」

 仲直りのしるしに抱き寄せて指を絡めながら。

「齧っていいか、ちょっとだけ」

 むかし、妓楼の薄暗い玄関の長暖簾の隙間にすっと、差し入れられる白手袋の指先にひどく魅せられたのを思い出す。コトンと胸の奥が鳴る。柄でもないその感覚はトキメキとかいうものかもしれない。

「痛くなくなってから、先っぽちょっとだけ」

 小指を握ろうとしたら引き抜かれた。代わりに薬指がゆるく握った内側に差し入れられる。小指はそういえば、娼婦が馴染み客への心中だてに切り落とす指だ。

「あと、もうひとつ」

「いくつでも」

「つぎをさがせって言わないでくれ」

 その薄情に恨みが募ってた。

「身代わり薦められンのは、イタイ」

「……ごめん」

 



 そんなことがあった。けっこう長く苦しんでのたうって、喚き散らして八つ当たりして、ようやく覚悟を決めていた。

 だから。

『助けて、零兄ィ、死んじゃうたすけて』

 勤務先の店にかかってきた雛女からの電話も、何があったか見当はついた。

『注射も薬も聴かなくてあぶないって。いきがとまりそうなの。零兄ぃ、やったことあったんでしょ?やって失敗して、だからアタシがするって言ったときあんなに怒ったんでしょ?』

 雛女は頭がいい。ただ、女はバカな方がカワイイと思われていた時代のすりこみから逃れきれないでいるだけ。

『どうやって助けたのか教えて……ッ』

 救急に運んで処置を受けさせた。それから。同族が分泌する麻痺毒を、同種だが相性がいい俺ので。血圧と血糖値を上げる興奮剤みたいに作用する俺の体液はアドレナリンの筋肉注射と同じような即効性があって、なんとか命は助かった。

『急いで来て、助けてッ』

 行かない。

 死ぬからやめろって自分で言わなかったンなら、俺はその意思を尊重する。

 そこが何処だか知らないが、遺体を確認させるためにわざと身柄を拘束させた可能性が高い。

『たすけて……』

 本当はあと少しだけ一緒に居られる筈だった。その時間は惜しいがあきらめることにする。オマエがなにしてそうなってるか分かっているんだよ雛女。オマエからの加害を許すような場所で蘇生させても苦しませるだけだ。

『かえすから……、ごめんなさい……』

 信じられない。許さない。それとは別に、俺はあいつの意思を尊重する。逃げろという明確な合図を。

 電話を切る。煙草買いにいってくると店長に告げてロッカーへ。

 身につけてるのは時計と財布。スマホは解約するって取り上げられたまま。時計の予備が二つ置きっぱなしなのを上着の内ポケットに入れる。今つけてるのがピゲのロイヤルオーク、予備はロレックスのサブマリーナとパテック フィリップのノーチラス。のほうが処分したときアシがつかなくていいと、言って買ってくれた俺の恋人はマジでお坊ちゃんだった。

 一緒に住んでた部屋にも寄らず、逃げた。


 

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はなとはち ひとむかし-2 林凪 @hayashinagi

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