第8話
乗り換えようとして降りたのは複数の路線が乗り入れている、この近辺では一番大きな駅。揉めていたのは13番あるホームの7番目だったから駅構内を出るより駅前派出所から警官が駆けつけてくるほうが早かった。
派出所の受付の椅子に座らされた俺は殴られていた被害者。婦警がタオルで巻いた保冷剤を差し出してくれる。
礼を言って頬に当てた。冷やさないと腫れて痛みが長引く。歯を食いしばっていたので口の中は切っていない。でもこぶしが当たった唇はけっこう裂けて、頬は熱を持ち出していた。イマドキの若いのにしてはまぁまぁの打撃だ。
「……学生さんか。津田嘉樹さん。東京大学法学部。すごいね。春休みかい?」
俺を殴った現行犯の加害者が身分証の提示を求められ出したのは学生証。ちらりと横目でみた入学年度は二年前。なら年齢は二十歳そこそこ。思っていたよりもさらに若い。
大学名には驚かなかった。幼馴染も、そこに行く筈だった。
「じゃあちょっと、事情を聞かせてもらいましょうか」
黙ったままうなずく加害者を警官が別室に連れて行こうとする。
「すいません、そいつ今しゃべれないです。俺が先に殴っています」
俺も身分証を求められ運転免許証と司法書士会の会員証を提示する。手指に充血がないのを警官はじっと見ていた。身分証を戻しながら肘をまわす仕草。おや、という顔をされる。空手の肘打ちは至近距離で有効な手段。男同士で通常ならば詰めない近距離だ。
「有段者ですか?」
「いいえ」
有段者イコール凶器準備罪になるというのは都市伝説だが、喧嘩で反撃しても過剰防衛で刑事犯とされやすいことは事実。俺は段位を取得していない。『曽祖父』は22歳で4段の師範代だったが。
「殴ったのは地元の駅前の歩道橋で、原因は痴話喧嘩です。……交際しています」
春休みに遊びに来た恋人を駅まで迎えに来て、そこで喧嘩になるという、ありがちな
「俺が駅に駆け込んだので投身自殺でもするとでも思ったんじゃないでしょうか。追いかけられてこっちも意地になって電車を何度か乗り降りしまして、追いつかれたのがこの駅でした」
住所地および勤務地から少し離れたここで揉めていた理由も一緒に説明する。
「この殴打に関して被害届を提出する意思はありません。俺が殴った方が痛かったでしょう」
「……うーん」
派出所内に困惑の雰囲気が広がる。いまどきホモの揉め事は珍しくもないだろうが、男女関係と違って明確な強弱がないから対応に困っている様子。
「いまの話に間違いはありませんか?」
奥の机から所長が出てきて若い男に尋ねる。はい、と答える形に口は開いたが痛かったらしい。声が出る前に口は閉じられて、頷く。
「口の中を見せてもらうことは出来ますか?ありがとう。ちょっと照らします。眩しいかもしれませんから目を閉じて」
ゆっくり開いた唇の隙間から懐中電灯で中を覗き込んだ所長は、
「うわ、先生、これちょっとひどいですよ」
驚いた声を出す。先生と呼ばれたのは俺のこと。
「現行犯ではありませんが、こちらの事情も少しお伺いしたいと……」
所長が言うのを、若い男は頭を横に振って止める。
「あなたも被害届を出す意思はありませんか?」
頷く。でもすぐに、今度は横に振って。
「僕を殴ったのはこの人ではありません」
痛みをおして声を絞り出し、白々しく俺を庇う。揉め事にならないためだが警官たちは愛情からと誤解しただろう。俺が浮気を疑って、若いこいつが必死に弁明して、というあたらりを想像されているのは分かった。長距離恋愛中の長期休暇によくある痴話喧嘩。
それから少し、奥で協議していたが。
「お若いしお立場もおありでしょう。和解ということで微罪処分にはしません。釈迦に説法ですが説諭でも前歴がついてしまいます。お二人とも暴力はいけません。分かっていただけたらお帰りになってけっこうです。先生は早めに病院へ連れて行ってあげてください」
立ち上がり、温情に深々と頭を下げた。横で若いのも同様にする。保冷剤とタオルを返そうとしたが、
「そのままお持ちください。私物ですから大丈夫です。お気をつけて」
優しいことを言ってくれる婦警にもう一度目礼をした。
「あ、先生、病院で通報されるかもしれないので、これを」
差し出されたのは地域課でよく使われる巡回連絡用の顔写真つきCR名刺。片隅に今日の日付と、事情聴取済・和解につき事件性なしの走り書きがある。
世間はいつも俺に優しい。顔がいいからだけじゃなく、俺が世間に気を使って生きているからだ。やれやれと外に出る。こらえ性のないガキが報復の場所を選ばなかったおかげでスマホの基盤を乗せた電車が遠ざかる時間は稼いだ。
派出所から少し離れた場所に黒塗りの車が停まっている。いかにもワケアリといった様子で。近づくと助手席から男が降りて道路側後部座席のドアを開けた。当然のように乗り込む。後部座席は独立シートが二つ並んでいる。続いて路肩側に自分で乗ってきた若い男は何か言いたそうだった。が。
「神林氏の身柄の拘束は完了しました。津田さんも一緒です」
車内に居た二人のうち運転しているのは足が遅かったやつ。助手席に座っているのは新顔。姿勢が良く目つきが鋭い。
「本部と繋がっています。お話があるそうです」
スマホではない、いまどき珍しいガラケー。いやガラホか。受け取った若い男の顔から血の気が引く。
「……津田です」
「ムリに喋ると舌かむぞ」
マイクに音声が拾われることを意図して口を開く。
若い男がカッとした様子で叫びだす前に、
『は、は、は』
ガラホの向こうから乾いた笑い方。
『ずいぶん手加減しましたね。あなたに殴られたのに歩けて喋れているなんて。やっぱり可愛いですか』
……なんだって?
『蹴りをもらったほうは病院でのたうちまわっているのに。あなたは同期の
「……」
『誰だと尋ねてくださいませんか?』
「あてて欲しがってる相手にそんな不人情はしない」
記憶の検索中をそんな言葉で誤魔化す。古写真のサイトをよく見ていたせいで思い出すよすがはある。大正期の陸軍は現代日本より遥かに厳格な学歴社会で、陸士卒業の席次順に卒業写真は並んでいる。卒業半年後の少尉任官から数年たって実務能力をみたうえで陸軍大学入学の選別が行われるが、俺はその前に戦死と推測される行方不明になった。
「キサマの使いがガス準備してんだが、着いたら自白剤打つんだろ、高志」
陸士の同期は500人を超える。でも名前で呼び合ってたのは10人も居ない。さみしそうな俺に構ってくれた友人たち。
『……打ちます』
「なら亜酸化窒素すわせるの止めてくれ。うわ言を口走りたくない」
『…………よく分かりましたね』
「忘れるかよ。四年間、魚バラしてくれたのに」
『………………あなたお坊ちゃんでしたから』
追い討ちをかけるごとに返事が遅れだす。隣のガキよりこっちの方がよっぽど可愛らしい。集団生活に不慣れな俺を友人たちはみんなで世話を焼いてくれて、おかげで俺は四年の寄宿生活を無事に過ごした。取り巻きといわれることもあったが俺の機嫌をとってもいいことは何もない。
「詳しい話は直接聞くが、キサマいま幾つだ?」
貴様、というのは今じゃあまりよくない語感になったが俺の育った時代では敬意と親しみの篭った呼びかけの言葉だった。
『年寄りです。礼一に会うのは少しこわい』
生きていた時間のことでなく見た目のことを言っている。そして礼一というのはむかしの俺の名前。同棲相手と同名だったことと、今は違う名前を名乗っているせいで呼ばれるのはずいぶん久しぶり。
「戻し
『わたしではありません』
「そうか。よかった。……ねる」
麻酔を吸入させられるより寝て大人しくしている方がいい。重なる状況の激変に少し疲れてもいた。上着を脱いで頭から被って目を閉じる。
『礼一の実家の庭に、みんなで建てた慰霊碑がある。見ていないだろう』
見てない。あるってことは、戦後に再会したもと上司から聞いた。
『あの頃はまだ同期の戦死に不慣れだった。外地でのことで、骨も拾ってやれなくて、みんなで泣いた。ずいぶんたってから本当は生きていて、現地で病没したあとに子供は帰って来たとうわさに聞いて、嬉しくて。会ってみたくて、ずいぶん探した』
でも見つからなかっただろう。日本国籍を得てすぐに、俺は行方を晦ました。一ヶ所に長くは定住せず、住民票の住所と居所は常に別にして。
『こんな歳になってまさか、こんなにも動揺することが起こるとは思わなかった。抱きしめたくもあり、殴り飛ばしたくもある』
発声補助器と電波を通しても震えの伝わる声が遠ざかる。隣から伸びてきた手がそっと、被った上着の裾を捲って内ポケットからスマホを抜くのを感じながら。
役に立ってよかった。
それが正直な気持ち。
どんな気分かと問われればほっとしているという答えになる。今このときは。
「なによ、すかしてたくせに。ただの男じゃない」
バカにしたような声音で笑われるが、不能状態で反応しなかったら笑われるどころではすまなかっただろう。よかった、という内心には、この子を傷つけずにすんで良かった、という成分もけっこう含まれている。
アイツの手柄かもしれない。
してもいいぞと口走ったときはたいして喜ぶようには見えなかったが、最近は前戯で口淫をされてばかり。おかげで濡れた粘膜に馴染みがあった。女の子とつながるのは百年以上ぶり。しかも俺の異性体験は上官や先輩に付き合っての玄人が何回かだけという心許なさだ。期待される反応を示せて良かった。跨ったのに興味を示されないんじゃ、この子の立場もなかっただろう。
目隠しで視界がなくても、何人かに囲まれているのは気配で分かる。
「まぁまぁだったご褒美にキスしてあげる。くちあけて」
雛女も内心、俺が反応したことにほっとしたんだろう。ずいぶん調子に乗って浮かれていた。逆らわず薄く口を開いてから、しまったと思ったが間に合わない。
「ん……。……キャッ」
驚かせてしまう。ごめん。
俺の舌には百年前の噛み跡が残ってる。もう痛くはないんだが今でも熱すぎるものは食べられない。直後に縫合を受ければよかったのにしぱらく放置していたせいで壊死した部分をかなり切除した。
喋るのに不自由ない程度だが当時の上司には散々怒られた。強情で怪我を黙っていたわけではなく、あの時はそれどころじゃなかったし大して痛みも感じていなかった。追い詰められた人間の
「なに、これ……。え?」
大昔の傷跡。むかしのはなしだ。気にするな。
「……なんなのよ、ねぇ。……いつもいつも」
なにかどうか、したか?
「むかしからそうよ。あたし女の子供だったのに、男の大人だったアナタの為にどうしていつも、いつも」
女の声がにごりだす。まずい。泣かせる。
「ギセイにらなきゃいけないの。むかしのひとはアナタを大事にしたくてあたしにひどいことばかりしたわ。零兄ぃもアナタのためにわたしをだまして。抱きしめられて口を吸われたくらいで喋ったあたしもバカだったけど」
バカのおかげで傷が浅く済んでよかったじゃないか。
「浅いわけないじゃない。アナタあたしよりどっちにもずっと大事にされてるじゃない。なのにどうして、あたしよりアナタに傷がついてるのよ」
なんとなく何を言っているのか分かる。でも誤解だ。お前より俺が純情で強い抵抗をして、舌を噛んだってワケじゃない。死のうとしたんじゃないし死ねるとも思ってなかった。脅しの駆け引きに本気の抵抗をしてみせだけ。通じなかったが。
「キレイなまんまでなんか死なせないって、あたし思い詰めてたのに、先にこんな、迫力の古傷とか、なによ。お坊ちゃん育ちがそんなに偉いの?!」
支離滅裂だが言葉の意味じゃなく声の響きで何を言いたいかはわかる。
あのな、雛女。……牡丹。
むかし、は。
「なによ」
いまとちがってむかしは。いやもしかしたらいまもかもしれないが。
女の子たちは親に売られてた。
売春していたのはオマエの意思じゃない。ほんの少女だったオマエには何の責任もない。傷つく必要はないんだ。さっさと忘れて、なかったことにしろ。
「出来るわけないでしょそんなこと。まだ痛いのに。ずっと痛いのよ」
気のせいだ。傷なんか残ってないし本当は痛くもない。こだわりすぎて錯覚しているだけだ。
「あのヒト殺したのはあたしよ。アナタじゃないんだから」
それも違う。殺したのは俺たち。俺が半死半生にしたところをオマエが止めを刺した。首を切り落としたのは別の男だが、落とさせたのはオマエだったんだから。
俺たちは共犯者だ。だが復讐の権利者でもあった。俺たちを裏切ったあいつのことを、俺たちは心から愛していたのだから。
「零兄ぃは、アナタをあのヒトから自由にしたくってそうしたん、でしょ。あたしのことはだ、れもかまって、くれなかったのに……」
しくしくと雛女が泣き出す。頬を寄せて慰める真似をしながら、意識は背後の会話を聞いていた。腕は頭の上で縛られていて、嗚咽に震える背中を撫でてやることはできない。
「自白剤、効いてないじゃないか」
「効いていますよ。だから敢えて関係ないことをべらべらと喋っている。一番成功率の高い対応策だ。尋問されている方は尋問の専門家ですからね」
「させる人選を誤りました。といっても、ほかに適任が居る訳でもない」
「スマホのデータ復活は?」
「本体は外装だけ。GPSを辿ったら基盤から剥がされたGNSSチップだけが線路に落とされていて基盤はない。たぶん基盤を見つけたらそれにはメモリがなく、メモリを見つけたとしても既に破壊されているでしょう」
「追っ手より我々よりもはるかに
「とりあえず身柄の確保と生命活動の延長で良しとして、後のことは、あとで」
「隷属契約を、早く」
しくしく泣いていた雛女が俺の上で起き上がる。指先が口の中へ突っ込まれる。
「してもらうから、アナタにも。売春」
それはもしかして、売血の間違いじゃないだろうか。戦後の混乱期には献血制度がなく、輸血や製剤用の生血を売ることで生きていた人間も居た。
「両方よ。知らない相手にオモチャにされて、それでさっきの台詞言えたらほめてあげる。アナタがあたしのものになるところ、零兄ぃにライブで見せられなくて残念。連絡がつかなかった」
輪姦と売春はだいぶ違うぞ。それにしても感情の波が激しいのが気になる。専門家のカウンセリングを受けたほうがいいんじゃないだろうか。
「え。そんなことをさせるんですか?」
「まさか。隷属も苦痛が少ないよう女性体を選んだくらいです」
「敵対的な関係は避けたい。先々はせめて顧問、可能であれば我々の指揮をとってもらうこともありえ……」
雛女の爪の間からにじむ毒が舌に苦い。
目隠しの下で目を閉じる。
「様子がおかしいです」
強い視線で居るのは分かっていたが、それまで黙り込んでいた若い男が叫ぶ。
「離れろ。指を外せッ」
もう、遅い。
おやすみ。
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