飼い犬(43回目)


 猫が啼いている。放っておこうとも思ったが、あまりにしつこいので、フジは目を開き、重い身体を引きずるようにして小屋から首だけを覗かせた。案の定、塀の上に隣の家の白猫が座っていた。

「〈春眠暁を覚えず〉とはよく言ったものだ」と、猫はひらりと小屋の前へ降り立った。

「そういう君は馬鹿に早いじゃないか」言いながら、フジは大きく欠伸する。

「今日から子供らが学校だからな。寝ていたくても無理矢理起こされる。その点、お前が羨ましいよ。家の中がバタバタしていても、ここなら知らん顔で寝ていられるからな」

「寝ていられるのはいいが、たまに存在すら忘れられることもあるよ。それで何度か食事抜きの憂き目に遭った」

「大して動かんのだから、一食や二食抜いたところで死にはせんだろ」と、白猫は首輪の鈴をちりりと鳴らしながら、後ろ脚で耳を掻いた。「ところで、お前の主人一家はその後どうだ? 家の中がいやに静かなようだが、まさか心中なんかしてないだろうな?」

「大丈夫。さっき写真を撮る声が聞こえたよ」

「写真?」

「長女の入学祝だよ。《《》》だから」

「それは今に始まったことじゃないだろう。なぜ今になって写真なんか撮り始めたんだ?」

「この間君が聞いたという〈本当の家族になる〉って言葉が関係しているんじゃないかな」と、フジは芝生に腹ばいになると、また大きな欠伸をして見せた。

 隣家の猫は、長い尻尾を蛇のようにくねらせた。

「まったく、ご苦労な連中だな。状況に混乱して右往左往したかと思えば、勝手に意味を見出し納得している。まるで自分らがこの世界の中心にいるような面をしているのだから滑稽だ」

「誰だって、突然理解し難い状況に放り込まれればそんな風に考えたりもするさ」

「だが、世界という舞台では大半の者が端役でしかないことを認めなくてはならない」と、猫は高らかに言い放った。それは彼の口癖でもあった。「俺だって、本当は虎にでもなりたいところを〈従順な飼い猫〉という役に甘んじているわけだからな。それがこの世界のルールというものだ」

「だけど、自分の人生の主役はやっぱり自分でいたいじゃないか」

「ふん。お前はこんな犬小屋にいるから、そんな風におめでたい考え方ができるんだ。この狭苦しい小屋の中では、たしかにお前が主役だからな」

 まあ何でもいいけど、とフジは三度目の大欠伸をした。小難しいことを考えたところで、何が変わるというわけでもない。自分は世界の隅の民家の庭の更に隅の犬小屋で暮らす犬でしかないのだから。

 だが、飼い主たちのような生き方は嫌いではない。むしろ好きなぐらいである。悩むことも多かろうがそのままの生き方で行ってほしい。フジは密かに、飼い主一家へエールを送る。

 玄関の扉が開いた。

「行ってきます」の声が聞こえ、真新しいセーラー服に袖を通した秋絵が姿を見せた。彼女はそのまま、門を出て行く。

 猫は再び鼻を鳴らす。

「彼女だって、本当は——」

「いいじゃないか」と、フジは柔らかく言葉を被せる。

 耳を澄ませると、塀の向こうで交わされる会話が聞こえてくる。

「おはようございます、秋絵さん」声の主は、隣の家の少年である。

「おはよう、二人とも……今日から新学期だね」

 答える長女の声は模範的な〈隣のお姉さん〉からは程遠く、固く突っ張り緊張の色が多分に滲んでいた。


〈了〉

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隣の家族 佐藤ムニエル @ts0821

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