4−5
「待ちなさい! あの人って誰だ!」
藪坂も部屋を飛び出した。妻を追い階段を駆け下りると、足音を聞きつけたらしい子供たちの声が居間の方から聞こえてきた。
「親父、どうしたんだよ」
「もう時間ないよ」
わかってる、と答える間も惜しく、藪坂は閉まりかける玄関のドアを撥ねるように押し開け外へ出た。春は今まさに門を出たところだった。
「春!」
近所迷惑など省みず、藪坂は叫んだ。しかし妻に立ち止まる気配はなく、藪坂もそれを追って表の道へ躍り出た。アスファルトの固さを足の裏に感じて初めて、彼は自分が裸足であることに気が付いた。
まるで魚を咥えて逃げるどら猫を追っているようだ、と藪坂は考えた。もっとも、持ち逃げされたのは夕飯のおかずより数等重要な代物である。裸足どころか、全裸であっても往来を駆けていく覚悟がある。だが、固い覚悟とは裏腹に、なかなか春に追いつくことができない。水泳で培った体力のためなのか、彼女の背中はどんどん小さくなっていく。
「春っ!」早くも息の上がった藪坂は、喘ぐように、半ば自棄になって叫んだ。「お前は……そんなことで……本当に……いい……のか」顎が上向きになる。まるで夢の中にでもいるように走りづらい。「ずっと同じことの……繰り返しで……たしかに不幸にはならないかもしれんが……今より……今より幸せにだってなれないんだぞっ」
足がもつれ、藪坂はとうとう前のめりに転んだ。顔を地面に打ち付けたが、痛みよりも逃げた妻のことで頭は一杯だった。
やがて、夜道の先からサンダルを引きずる音が聞こえてきた。春である。彼女は赤子でも守るように原稿の束を胸に抱きながら、街灯の下へ、出廷する被告人の足取りで浮かんできた。後ろからは、子供たちが駆けて来るらしい足音が聞こえてきた。
「私はイヤだぞ……」頬をアスファルトに着けたまま、藪坂は息を整えながらどうにか言葉を発した。「決められたレールの上を走るどころか、円周の上をただぐるぐる回るばかりの人生なんて……そんなもの、生きていないのと同じだろう」
「わたしはずっとそんな生活を送ってきたんですよ」春の声は低く震えている。彼女が腕に力を入れると、紙束が乾いた音を立てた。「来る日も来る日もみんなの食事を作って洗濯して掃除して。昨日と一昨日が、一昨年と五年前が一緒に思えるような生活を、あなたと結婚して以来ずっと続けてきたんですよ。毎日が同じことの繰り返し。でも確実に歳は取っていく。〈ああ、きっとわたしはこのまま皺くちゃのお婆さんになって死ぬんだな〉ってふとした拍子に考える。そうすると、堪らなく虚しくなるんです。目にするもの耳にするもの、口にするもの全てが色を失って、無味無臭であるように感じられるんです」
「母さん……」秋絵が呟く。子供たちが追いついたらしい。
「お前、ずっとそんなことを思っていたのか」言いながら、藪坂は身体を起こす。「一言相談してくれればよかったじゃないか。家族なんだから」
「相談したら、どうにかしてくれたんですか? あなたは書斎に籠ってばかり。仁郎は遊び歩いてばかりで、秋絵だって自分のことで頭が一杯。そんな家族に、一体何を相談しろとおっしゃるんですか」
藪坂を初めとした親子三人は口を噤まざるを得なかった。自分たちに弁解の余地はない。とうとう有効な言葉を見つけられなかった藪坂は、アスファルトの上で居住まいを正し、次いで地面に両手をついた。
「すまなかった」彼は地面に額を押し付けた。
「よしてください。そんなことされたって……」
「私が悪かった。家族の小説を書いておきながら、自分の家族のことは何も知らなんだ。まったく恥ずかしい限り、入る穴がなければ掘ってでも入りたいほどだ。これからは、目の前にいる君のことを何よりも先に考える。約束する。君の幸せが、私にとっての幸せだ」
「あなた……」
藪坂は顔を上げ、すっくと立ち上がった。そして春の腕の中から原稿の束を抜き取るや、両腕に力を込めてそれを引き裂き始めた。
「何やってんだよ、親父!」
息子の声を余所に、藪坂は破いた紙を宙に放った。風に乗った白い紙片は、桜の花びらのように夜を舞った。
「いいんだ、これで」藪坂は言った。「小説はまた書けばいい。私たちは、少なくとももうしばらくは、〈円環〉の中にいる必要があるんだよ」
「何だよ、それ」
「わかる気がする」と、秋絵はしゃがみ、足元に落ちた紙片を摘み上げた。「わたしも、父さんと同じ気持ちだから」
「やり直すんだ、ここで。もう一度、本当の意味での〈家族〉になるんだ」
「あなた……」と、春は藪坂に寄り添った。
「そう心配するな」戸惑いを顔に貼り付ける息子に、藪坂は微笑みかけた。「〈円環〉は必ず終わる。お前には〈家族〉がいるんだ。乗り切れるさ」
「親父……」
「父さん、母さん!」
秋絵が両親の元へ駆け寄った。仁郎も少し遅れて、家族の輪に加わった。街灯の作るスポットライトの中で、彼ら家族四人は溶け合って一つになってしまいそうなほど強く身を寄せ合った。
藪坂は、胸の内で間欠泉が噴き出るのを感じた。熱い感情に任せるまま、彼は家族の名前を夜空に向けて叫んだ。そして、次の言葉を言い添えた。
「私たちは、どんなことがあっても〈家族〉だぞ!」
どこかで猫が啼いた。早春の夜道で繰り広げられたドラマの大団円に対する、唯一の歓声のようだった。
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