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 それからというもの、藪坂は馬車馬のように執筆活動に励んだ。家族は〈応援〉という形で、彼に愛の鞭を揮った。

 藪坂が完成を目指したのは、この時唯一連載していた小説である。『隣の家族』と銘打たれた、その名の通り家族を主題に据えた作品だ。

 モデルは実際の彼の隣人一家で、そもそもこの小説を書き出したきっかけが隣家で繰り広げられる愉快な日常を彼が目の当たりにしたからであるため、フィクションという体裁を取りながら、その実、実在の人物にかなり近いキャラクターやエピソードが登場する。偶然にも担当の編集者が隣の一家と縁戚関係にあり、ネタは湯水のごとく得ることができた。お蔭で話は膨らみに膨らみ、ライフワークとして一生続けられる仕事になったと藪坂も最初は小躍りしたものだったが、まさか膨らみ過ぎた物語が仇になろうとは、露ほども思わなかった。

 アイデアが枯れることは恐ろしいが、止めどなく溢れ出てくるのも考え物である。蛇口を捻ったら水が吹き出し、いくら栓を閉めようとも止まらない。そんな現象に、藪坂は頭を悩ませることになった。あれもこれもと書いていくうちに、初め歩いていた筋を大きく外れ、戻ることを試みるがまた別の脇道に入ってしまう。最終的に立ち位置がわからず、物語の収集がつかなくなる。藪坂はそれを〈物語が暴れる〉と表した。一人でに進んでいき、手に負えなくなる小説は、まさに暴れ馬だった。その手綱を引いて鎮めるのが小説家の仕事なのだが、猛り狂う馬が強いのか、単に藪坂の握力が足りないのか、振り落とされぬよう背中にしがみ付くだけで手一杯となり、時間を空費するばかりだった。

 最初の年は駄目だった。

 翌年も、その翌年も、次の、そのまた次も、一向に『隣の家族』は〈了〉の字を打たれることがなかった。

 取捨選択せねばならないことは、彼自身わかっていた。その一方で、妥協して作品が中途半端な出来で終われば〈円環〉を抜けられぬのでは、という恐れもあった。こうして思い浮かぶもの全てを書こうと四苦八苦した末、結局時間切れとなってしまうのがいつしか恒例となっていた。

 家族は諦めも呆れもせず、根気強く藪坂を応援した。だからこそ、藪坂は書き続けることが出来た。もう自殺しようなどという考えは浮かばなかった。家族の未来は己の双肩に掛かっている——。その思いが、一重に彼の筆を走らせる原動力となった。

 藪坂は、ちらと時計を見やる。日付が変わるまで、残り一時間を切っている。

 小説は、既に締めの一段に入っている。足かけ数十年に及ぶ長大な物語(もっとも、そう思っているのは著者とその家族だけだが)が、今ようやく終わろうとしている。猛吹雪の向こうに頂の陰を見た思いで、藪坂は再び筆を走らせ始める。

 〈円環〉の中で過ごしてきた時間は、長いようでいて、短くも感じられる。だがそれは、去年と一昨年、もっと言えばここ四十年の記憶が極限まで圧縮されているためである。四十年近く、ずっと小説ばかり書いてきたのだ。十年前と二十年前の区別さえ、ろくにつきやしない。たしかに記憶は他人より四十年分多く時を過ごしているが、多くの時間を単なる通過点としてしか過ごしてこなかったため、実際に体感した記憶として残っているものは数年分にも満たない。肉体にも変化は起こらず、物的証拠も残っていないため、〈他人より四十年多く生きている〉という見方は必ずしも当てはまらないのではないか、と藪坂は考える。

 そういう点から見れば、もし今回で〈円環〉が終わり、周囲と同じ時間の流れに乗ったとしても、世間とのずれはさほど生じないように彼には思えた。

 文章の最後の最後、〈おざなり〉と〈なおざり〉どちらを使うべきかで悩んでいるところへ、突然書斎の扉が開かれた。腕組みし、原稿に目を落としたままだった藪坂の視界から原稿用紙が抜き取られた。思わず目で追ったその先には、春の顔があった。彼女はこれまで藪坂が見たことないぐらい、顔を強張らせていた。

「何をする」藪坂は混乱しながら立ち上がった。

「やっぱり駄目」と、春はすっかり紙束を抱え込んでいる。「わたし、この生活を終わらせたくありません」

「何馬鹿なことを言ってるんだ。さ、原稿を返しなさい」

 しかし春は返す素振りを見せない。

「原稿を返しなさい」

「イヤです」

「イヤもヘチマもあるものか。いいから返しなさい!」

 藪坂は首を振り続ける妻の胸元へ手を伸ばした。が、春は寸でのところでヒラリと身をかわす。

「わたしはずっと五十二歳でいたいんです! 永遠にあの人の教え子でいたいんです!」

 そして彼女は、踵を返して部屋を出て行った。

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