4−3

「あと、どのぐらいなの?」現実の秋絵が、布団を抱えたまま後ろから机を覗いてくる。

「三十枚も書けば完成だ」

「間に合うの、それ?」

「間に合う。間に合わせてみせる」

 日付が変われば、原稿は白紙に戻ってしまう。そしてまた、これまでと同じ一年がやって来る。

 一度、〈神の思し召し説〉を信じて極力家族と過ごす時間を増やしたが、〈円環〉は終わらなかった。仕事を全くせず、主夫として働いたこともあったが、結果は同じだった。

 そもそも、彼が家族の方を向いたところで、家族が彼の方を向いてはくれなかった。各々が己の日常を忙しく生きており、ろくに食卓にも集まらない。集まったところで、藪坂の見当違いの気遣いは空転するばかりだった。空転だけならいい方で、いらぬ一言が家族の神経を逆撫ですることもままあった。そんなことを繰り返すした末、いくら家族サービスに骨を折っても〈円環〉からは抜け出せぬと悟り、藪坂は元のように書斎に籠るようになってしまった。

 ある夕暮れ時のことだった。長い間布団の上で年甲斐もなく三角座りをしていた彼は、ふと思い立ち、着流しの腰に巻いていた帯を解いた。そして片側を結んで輪を作り、それを天井の梁からぶら下げた。どうせ時間の牢獄に閉じ込められ続けるのなら、ここで終止符を打ってやろう。大きな失敗も大いなる成功も一年で帳消しされてしまう〈円環〉は、彼にとってはまさに〈牢獄〉だった。何より辛いのはそこに宿る孤独感で、自分の悩みを誰も理解してはくれない、この辛さを分かち合う仲間がいないというのは、味わって初めてその重さが実感された。

 飽きるほど座り慣れた回転椅子に上がり、輪に頭を通した。後は椅子を踏み切るだけ、という段になって、春が書斎へ入ってきた。

「あなた!」春は持っていた電話の子機を取り落として叫んだ。「何をしてるんです! 降りなさい!」

 彼女の声を聞きつけて、自室にいたらしい子供たちも集まってきた。

「親父!」「父さん!」

 部屋へ駆けこんできた仁郎がタックルし、藪坂を布団の上へ押し倒した。背中を強か打ったが、藪坂は痛みを感じなかった。

「何考えてんだよ、馬鹿親父!」

「離せ、こんな人生もうたくさんだ」藪坂はもがいた。そして、どうせ理解されまいとわかっていながら「一人ぼっちで延々同じ時間を繰り返す苦しみが、お前たちにわかるのか!」と胸の中に渦巻く本音を撒き散らした。

 すると、彼の身体を押さえつけていた力がフッと緩んだ。

 見れば、息子は何やら唖然としていた。妻も娘も、同じように口を半開きにしていた。事情が呑み込めない藪坂は、とりあえず布団の端へと飛び退いた。

「父さんも、なの?」

 初めに口を開いたのは秋絵だった。そんな彼女に、部屋中の視線が注がれた。

「まさか、秋絵も?」呻くように仁郎が言った。

「みんな、そうなのね」と、春が両手で口を塞ぎながら声を震わせた。

「何だ何だ、どういうことだ?」

 同じ一年間を繰り返していたのは、藪坂だけではなかった。春も仁郎も秋絵も、彼と同様〈円環〉の中に取り込まれていたのである。

 食卓を囲みながら、四人はこれまでの顛末を話し合った。そして〈円環〉(この名称はここで定着した)という現象に関する情報を、事実も仮説も問わず、どんな些細なものでも出し合った。

 その中で判明したのは、以下の三点だった。

 一、〈円環〉に気付いた時期は四人まちまちだが、繰り返している回数はどうやら同じである。

 二、〈円環〉の中にいるのは、藪坂家の四人だけであるらしい。

 三、〈円環〉を解く鍵は、恐らく自分たちの身近に転がっている。

 最後の項目に関して、藪坂には解せぬものがあった。

「なぜ、この現象を終わらせる方法が私たちの身近にあると思うんだ?」

 その問いに答えたのは仁郎だった。

「みんなの話を聞いてると、ある共通点が見えてきたんだ」

「共通点?」

 仁郎は頷くと、秋絵を見た。

「まず秋絵は、自分に告白してくる同級生の気持ちを受け入れるか、悩んでいた」

 秋絵は頷いた。仁郎は、次に正面へ目を向けた。

「お袋は、水泳大会での優勝という目標があった」

 春もまた、頷いた。

「俺は大学合格を目指して勉強していた。つまりみんな〈越えなきゃならない壁〉の前に立っていたんだよ」

「その〈壁〉を越えさえすれば、〈円環〉は終わるというのか」

「根拠はどこにもないけどね。でも、全く無関係だとも思えない。現にこうして、四人が四人とも大きな壁に直面してるわけだし」

「ちょっと待て」と、藪坂は息子の言葉を遮った。「私は〈壁〉になど直面していないぞ」

「してるじゃないか。一番わかりやすい〈壁〉に、親父はぶち当たってる」

「何だ」

「小説。もう何年も書き上げられないままだろ?」

 胸の奥底を掘り返された気分だった。春も秋絵も、仁郎と同じ眼差しを向けてきた。

「私に小説を書けというのか」

「というか父さん、小説家でしょ」

「簡単に言ってくれるが、一つの作品を書き上げるのにどれだけの労力が必要かわかっているのか?」

「わたしたちも協力しますよ」

 あっという間に土俵際へ追い込まれ、藪坂は言葉に窮した。荷が重すぎる、と彼は震えた。家族の期待を一身に受けて執筆することなど、これまで一度もなかった。

「な、何も解決に至る全てが私に委ねられてるとは限るまい。みんなの方はどうなんだ」

「わたしは沖名——その同級生の男子と付き合ったけど、何も変わらなかった」

「俺も大学受かったけど、また元の浪人生活」

「わたしもオリンピックの強化選手にまで選ばれたけど、結局元通り」

 三人の眼が、藪坂に集まった。もはや土俵に踏みとどまることは不可能だった。

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