4−2

 我ながらひどい冗談だと思った。だが、その結論に至らねば辻褄が合わぬようなことばかりが、彼の身の周りでは起きていた。

 藪坂は書斎に籠り、三日三晩うなされた。馬鹿な小説ばかりを書いてきたせいで、いよいよ頭がおかしくなってしまったと本気で悩んだ。

 四日目の朝、彼はがばと布団を蹴散らして階下へ降りた。実は自分は長い夢を見ていて、日頃の寝不足から深い眠りに落ちていただけなのではないか、という淡い期待を抱いてのことだった。

 階段を下りると玄関に春の姿があった。彼女の傍にはスポーツバッグが置かれていた。

「出掛けるのか」

「あら起きたんですか。朝ごはん、台所に用意してありますから」と、春はバッグを手に出掛けようとした。

「どこへ行くんだ」

「プールですよ」

「プール!」と、藪坂は思わず素っ頓狂な声を上げた。「母さんが、プールへ! 一体何をしに行くんだ」

「泳ぎに行くに決まってるじゃないですか」

 藪坂は愕然とした。彼の知る限り、春はスポーツなどという動的な行為とは無縁な、その名が態を表す春のように穏やかな性格の持ち主だったからである。たしかに学生時代は水泳部に所属していたと聞いた覚えはあるが、結婚してからは彼女が速足で歩くことすら見たことがなかった。

 閉まるドアを見つめたまま、藪坂は立ち尽くした。全く以って知らなんだ。妻とは毎日顔を突き合わせていたつもりだったが、そんな話、プールの〈プ〉の字も出て来やしなかった。いや、プールに通うことはいい。たまの息抜きは必要だ。驚くのは、妻の変化である。息子にしてもそうだ。なぜ、ついこの間までさせようとしてもしようともしなかった運動なり勉強なりを急に始めたのか。去年は、というか前回はこんなことなかったではないか。

 しかし藪坂は、こうも思った。果たして自分は、彼らが以前何をしていたかということを、正しく把握していると言えるのだろうか。春のプールにしても仁郎の勉強にしても、やはり去年と全く同じ〈繰り返し〉なのではないか、と。

 有り難くも多くの仕事を抱える彼は、朝から晩まで書斎に籠りきり、寝食もそこで済ますことがほとんどで、たまに外へ出るのは編集者からの逃避か、隣の旦那と碁を打つ時ぐらいである。家族サービスなどというものとは縁遠く、少なくともここ数年はした記憶がない。気付けば息子は自分の背丈をすっかり追い抜いていたし、娘は迂闊に声を掛けることも憚られる年頃となっていた。

 これは、家族から目を背けてきた自分に課せられた試練なのではないか。藪坂は、居間のソファーに腰を沈めながら考えた。或いは、もっと家族との時間を大切にしろという神の思し召しか。いずれにせよ、何か自分には及びもつかない力が作用しているのは間違いなかった。

「ただいま」と、セーラー服姿の秋絵が居間に入ってきた。「何してるの? 灯りも点けないで」

 気付けば窓の外では日が暮れていた。

「秋絵か」藪坂は振り向いた。彼は言うか言うまいか逡巡してから、次のような質問を口にした。「お前、今年でいくつになる?」

 暗がりの向こうで、息を呑む気配があった。自分の娘の年齢もわからぬ父に呆れているのだろうか、と藪坂は早くも口の中に苦いものを感じた。

 やがて答えが返ってきた。

「十六、だけど」

「そうか——」

 藪坂は前へ向き直った。やはり自分はおかしいのだ。正面の窓硝子に薄く浮かぶ己の影を見ながら、彼は胸の内で呟いた。実は自分の方が硝子に映っている影で、本当の世界はあちら側にあるんじゃないかという、途方もない気持ちに襲われた。

 それも今や、遠い昔のことである。

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