4−1
父(42回目)
机に向かわなくては。そう思うのだが、身体はもう動こうとはしない。ようやく首だけを動かし、枕元に置いた四つの目覚まし時計のうちの一つを見やる。デジタル数字が二十二時を示している。あと二時間、と藪坂は今にも眠りの底へ引きずり込まれそうな意識で考える。あと二時間で仕上げなければ、これまでの全ての努力が水泡に帰す。
遠くで扉を叩く音が聞こえる。いや、遠くにいるのは自分の意識だ。彼は枕に顔を半分埋めたままぼんやりしていると、背後で扉の開く気配があった。
「父さん、大丈夫——って寝てるじゃない」
入ってきたのは長女の秋絵である。彼女は布団に駆け寄り、うつ伏せになった父の背中を揺すった。構図としては「せっかくの日曜なんだから遊園地へ連れて行って」とせがんでいるようにも見える。
しかし、娘の顔は切迫していた。
「寝たらダメだって。あと二時間もないんだよ?」と、秋絵は父を揺さぶり続ける。「父さんの代わりはいないんだからね。父さんが頑張ってくれなきゃ、わたしたち、また同じことの繰り返しだよ」
「ああ、わかってるさ」
藪坂はようやく身を起こした。そして未だ至るところに眠気のこびり付く身体を、米俵を担ぎ上げる思いで椅子の上に載せた。
「布団、しまっておいてくれ」と、彼は娘に言った。書斎に布団を敷いておくのは仮眠を摂るためだが、本来ならば今は仮眠どころか筆を止めることすら惜しい状況である。後ろで秋絵が布団を畳む気配を感じながら、藪坂は自身の頬をぴしゃぴしゃと二度叩いた。よし。気合いを入れ、万年筆を手にして書きかけの原稿用紙に向かう。
白い原稿を見ていると、初めて〈円環(娘がそう呼んでいるのをいいと思い、彼も自分を取り巻く現象をそう呼ぶようになった)〉に取り込まれた日のことを思い出す。
前日まで書いていた文章が、一夜にして消えていた。原稿用紙と同じように、藪坂の頭の中も真っ新な原野と化した。飯のタネが跡形もなく消え去ったとあれば、混乱するのも無理はない。
数時間に渡り書斎中を探し、どこにも原稿がないと悟った彼は頭を早々に切り替え、昼間に原稿を取りに来る編集者への言い訳を考えた。
ところが、嫌がる愛犬を引きずってまで連れ出した散歩で考えた言い訳も、結局使う機会は来なかった。編集者がいつまで経っても姿を見せなかったのである。厄介事は早く済ませてしまいたい藪坂が編集部へ電話したところに依れば、当の編集者に藪坂の元へ来るという予定はないとのこと。受話器を持ったまま狐に抓まれた思いの藪坂はむしろ「冗談を言ってる暇があったら原稿書いて下さいよ」と言われてしまう始末だった。
なんだ自分の勘違いかと受話器を置くが、どうにも釈然としない。前日確かに原稿を書いたという記憶が、頭の中には鮮明に残っていた。
「なあ、母さん」藪坂は通りかかった妻に声を掛けた。「私の原稿知らないか」
「さあ」と、妻の春は首を振った。「わたしは書斎に入っていませんから」そして春は、スポーツバッグを手に、いそいそと玄関を出て行った。
残された藪坂は食卓の椅子に座り、今一度己の記憶を掘り返した。どれだけ思い出してみても、やはり原稿を捨てた覚えはない。そもそも、ただでさえ筆の遅い自分が身を削る思いでひり出した文章を無碍にするとは考えづらい。自分はどうかしてしまったのだろうか、と彼は頭を抱えた。ずっと書斎に閉じこもっていたものだから、気が振れてしまったのではないかしらん。
スリッパを履いた足音に、藪坂は顔を上げた。息子の仁郎が冷蔵庫から牛乳パックを取り出すところだった。
「仁郎か」と、藪坂は溜息混じりに呟いた。「珍しいな。お前がこんな時間に起きてるなんて。朝帰りか?」
「勉強してたんだよ」と口を尖らす仁郎は、目元に隈をこさえていた。「親父こそ、また煮詰まったのかよ」
「〈また〉とはなんだ〈また〉とは」言ってから、藪坂の思考ははたと立ち止まった。「……お前、勉強してたのか?」
「そうだって言ってるだろ。しかも徹夜だぜ?」
「お前が、徹夜で、勉強、だと?」
藪坂が震えるのも道理で、中学、高校を経るごとに仁郎の勉強時間は目に見えて減っていた。いくら親の立場から注意しても馬耳東風、砂漠に如雨露で水を撒いているような徒労感しか味わえず、いつしか藪坂も息子に学問の尊さを説くことを諦めてしまった。諦めの背景には、小説家という水物商売で生計を立てていることへの後ろめたさが少なからず影を落としていた。
だが、育てるのをやめてしまった芽は、一人でに伸びていたらしい。聞けば、国公立の難関校への受験を目指しているというではないか。
「一体どうしたというんだ。何か悪い物でも食べたのか?」
「それが頑張ってる息子に対して言う台詞かよ」
「おかしい、何かがずれている」と、藪坂は初めて、己の頭の中で渦巻く靄を吐き出した。声に出せばいくらか冷静に己が直面している問題と向き合えるかと思ったが、彼の頭は混乱の渦に呑まれるばかりだった。「ところで母さんはどこへ行ったんだ?」
「さあ? さっきスポーツバッグ貸してくれって部屋に来たけど」
漠然とした、しかし確かな違和感を抱きながら、藪坂はその後の日々を過ごした。過ごしているうちに、違和感はむくむくと肥大化し、同時にその正体も鮮明になっていった。編集部から来る仕事の内容、文学賞受賞者の顔ぶれ、その他外界の諸々を見ているうちに、彼はある結論を導き出した。
どうやら自分は、去年と同じ一年を過ごしているらしい。
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