3−2

 その日から、南方によるマンツーマンの指導が始まった。文字通り手取り足取り、彼は春の癖(ごく僅かなものだったが)を矯正し、良い部分は更に伸ばすため、上澄みを取るような手つきでそれをすくった。

 効果はコースを往復するごとに出るようだった。南方の言う通りにすると、春は自分が水の中にいることを忘れられた。まるで元が水棲生物だったかのように、歩くような感覚で前へ進めるのである。

 速く、もっと速く。いつしか彼女の目的は〈長く泳いでいること〉から〈誰よりも速く泳ぐこと〉へと移っていった。

 タイムが縮まるごとに、南方は我が事のように喜んでくれた。達成感も去ることながら、春には、南方の喜ぶ顔を見るのが何よりも快感だった。彼の白い歯を見るためだったら体中がふやけても水の中にいられると思った。

「お春ちゃんはいいわねえ。いつまでも若々しくて」

 春と顔を合わせる度、ミネは塀越しに笑った。

「そんなことないわよ」と謙遜しながら、もう半分の心は躍っていた。「おミネちゃんこそ、いつまでも全然変わらないじゃない」

 一つ残念なのは、一年が経つと記憶以外の一切と同様、南方との関係がリセットされてしまうことだった。南方と出会う前は、全てが一年前の状態に帰してしまうことなど何とも思わなかった。むしろ、都合がいいとさえ考えることもあった。だが、南方という存在を知ってしまった途端、彼が自分を忘れてしまうことに二度の出産でも感じたことのない痛みを覚えるようになったのである。

 また新たな一年が始まると、春は何よりも先にスイミングスクールへ入会手続きに走った。少しでも早く南方先生と知り合いになりたい。その一心で彼女は泳ぎ続けた。周回を重ねるごとにわかったのは、自分のタイムが縮まれば縮まるほど、南方が声を掛けてくる時期も早まるということだった。春は更に必死に水を掻くようになった。

「大会に出てみませんか」

 南方にそう持ちかけられたのは、六月のある日の練習後、彼と知り合って四十二日目のことだった。

「そんな、大会だなんて。わたしには無理ですよ。出ても恥をかくだけです」初めてのことに面食らい、春はしどろもどろ手を振った。

「そんなことありませんよ」

 南方は身を乗り出し、春の両手を握った。彼にとっては無意識の行動だったのだろうが、春は意識せずにはいられなかった。今にも口から心臓を吐き出しそうな春を余所に、南方は続けた。

「その大会には、藪坂さんと同じ年代の女性ばかりが出場する部門があるんです。去年の優勝者のタイムを見ると、藪坂さんの記録も負けてない。今の藪坂さんの実力なら、十分に優勝も狙えるんですよ」

 最終的に春の背中を押したのは、やはり南方の唇の間から見える白い歯だった。春がおずおず頷くと、「頑張りましょうね」と彼女の手を握る力が一層強まった。

 練習は厳しさを増した。主婦業に支障を来すことも度々起こるようになったが、それでも春は泳ぎ続けた。期待に応えなくてはいけない、彼を喜ばせるために。彼女は頭の中でそう唱えながら水の中を突き進んだ。

「すごいですよ、藪坂さん。今のタイム、大会記録を抜いてます」

「ドンマイです。少し休みましょうか」

「この調子なら優勝できますよ、藪坂さん」

「藪坂さんが優勝してくれたら、僕の水泳人生は終わってもいいくらいです」

 壁に手を付け水から顔を上げると、そこにはいつも南方の白い歯があった。

〈最初〉の大会で、春は手を抜いた。本気で泳げば優勝できたことは、自分でもわかった。南方は微笑みながら励ましてくれた。春が、彼に対する裏切りのために生じた自責の念に苛まれているとも知らず、春を元気づけようと言葉を並べた。

 わたしはこの人の期待を裏切ったのだ、自分の欲のために。春は唇を噛んだ。泳いでいる最中、ふと、ある予感が頭を過ったのである。このまま優勝してしまえば、〈繰り返し〉は終わってしまうんじゃないだろうか?

 根拠はなかった。ただ、長年に渡り培ってきた女の勘が警鐘を鳴らしていた。彼との目標を達成してしまえば、彼との永遠が終わってしまうのではないか。そう思った途端、身体から力が抜けた。前に進むのが怖くなった。不自然に見えぬよう徐々にスピードを落とし、四位という表彰台にも上らぬ結果で落ち着いた。

 〈繰り返し〉は続き、大会へ出場する機会もまた、何度も巡ってきた(実力が一定の水準に達したためか、周回を経ると必ず南方から持ちかけられるようになった)。南方と過ごし、彼を喜ばせることができる練習の時間は彼女にとって〈飴〉だった。そして彼を騙すことで苛まれる罪の意識は〈鞭〉だった。双方のバランスは元々崩れていた。〈飴〉の甘さは〈鞭〉の痛みを忘れさせた。

 手を抜いていると悟られぬよう泳ぐことにも慣れてきた。だが、疾しいことをしているという意識があるせいか、未だに緊張はする。合図と共に、春は台の上で飛び込みの構えを作る。

 もう一度彼の顔を見たい。ちらと迷う彼女の耳に「スタート」の声が入ってくる。

 一瞬遅れた。

 でも、これでいい。春は、足元を蹴って人工的な青の中へ飛び込んだ。

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