3−1
母(22回目)
顔を上げると、目の前が真っ白な光に包まれた。遅れて歓声が、注いだように耳の中へ入ってくる。目線を下へ戻すと、水面に光が鱗のように反射していた。
いざ上ってみれば、飛び込み台は傍で見た時より高く感じられる。これには何度上がっても慣れない。さすが、町のスイミングスクールとは違う。
普段、専業主婦をしていると感じないような緊張が、胃の底からせり上がってきた。春はプールサイドへ目を向け、ベンチに座っているはずの
もし、同じ一年が延々と続かなかったら、彼に会うこともなかった。
結婚以来二十余年、春は絵に描いたような〈専業主婦〉として、家事や子育てに励んできた。朝起きて朝食を作り、子供達を送り出して洗濯と掃除。自宅で仕事をする夫のために昼食を作り、買い物へ行き、夕飯と後片付け。台所のテーブルで家計簿をつけ、家族の誰よりも最後に風呂に入って寝床に就く。そんな毎日を数百、いや数千という単位で繰り返してきた。
だから、自分を取り巻く異変に気付くまで時間が掛かった。そして気付いた後も、なかなか実感が湧かなかった。息子は永遠に浪人生で、娘は永遠に高校一年生でいる。年齢以外に己の〈時間の尺度〉を持たない彼女は、他者を物差しとすることで、ようやく自分の置かれた状況の異質さを認めたのだった。
この〈繰り返し〉に気付いた時、春は慌てることもなければ、誰かに相談することもしなかった。慌てふためいたところでどうにもならないと思ったし、相談して的確な解決法を教えてくれそうな人物もいなかった。
唯一、隣に住むミネだけには言おうか迷ったことがある。彼女とは高校時代からの同級生で、たまたま春の一家が越してきた隣がミネの家だった。二人は再会を喜び合い、以来、日に一度は塀越しに言葉を交わすのが習慣となっていた。それは彼女たちにとって、家事で溜まったストレスを発散できる憩いの場であった。
ミネに〈繰り返し〉について話すことを思い留まったのは、自分たちの話を聞いているのが目の前の友人だけではないと思ったからである。誰かが自分たちの会話を聞いている、誰かに見られている気がする——彼女は塀の傍に立つ度、そのような感覚を味わうようになっていた。そしてそれはミネと会話をする時に起こるような気がしていた。
もちろん、どれだけ辺りを見回しても、彼女らを見つめる視線の持ち主の姿はなく、猫の子一匹見当たらない(ミネの家の飼い猫が見えることはあったが)。気のせいかと溜息を吐くが、視線はやはりどこからともなく感じられた。
「ねえ、わたしたち、誰かに見られていない?」
ある時、春はミネに耳打ちした。
「さあ、何も感じないけど。大丈夫、お春ちゃん? 何かあったの?」
いらぬ心配をさせてしまったと思うと、春はそれ以上疑問を口にすることができなかった。結局、視線の原因も〈繰り返し〉のせいということで納得した。自分でも知らない間に〈繰り返し〉は心に大きな負荷を掛けていたのかもしれない。あまり気にしてはいけない。こんなことでは心が保たない。そんな風に考え、彼女は古雑誌を紐で縛るようにして悩みを纏めて心の隅に打っ遣った。
スイミングに行こうと思い立ったのは、まさにそうした悩みに頭を抱えている時だった。運動で体を動かせばつまらない悩みも消えるはず。学生時代は水泳部で〈河童〉の異名を持っていた彼女は、駅前でもらったチラシを手に、スイミングスクールの門を叩いたのである。
初めはせいぜい運動不足の解消が目的だった。二十五メートルのプールの中を、春は学生時代に返った気持ちで思いのままに泳いだ。
しばらくの間、彼女は家事の合間を見つけると気分転換のつもりで泳ぎに行っていた。
しばらく、といって、それを実際に経過した年数に当て嵌めると優に十年を超える。十年もの間、毎日のように水泳の練習に励んだ彼女は、昔の勘を取り戻すどころか、周囲の注目を集める力を身に付けるまでに至った。経験は技術となって蓄積された。肉体は一年ごとにリセットされるものの、五十二歳で老いるのを停めていた。春は、五十二歳の女性として考え得る限り最も速く、そして美しく泳ぐことができるようになっていた。
そんな彼女に或る日、水泳教室のインストラクターをしていた南方が声を掛けてきた。
「僕にコーチをさせていただけませんか」
挨拶と自己紹介もそこそこに、南方はそのように申し出た。緊張しているのか、彼はたわしのような頭を頻りに撫でていた。その仕草はどこか子供じみていて、春の胸の奥底に眠る何かを疼かせた。
「よろしくお願いします」
春が頷くと、南方は白い歯を見せて笑った。眩しい白だ、と春は思った。
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