2−2

 ただでさえ外れかかっていた箍が、音を立てて弾け飛んだ。これまで毎週一度は顔を出していた予備校は、月に一度行くか行かないか、というほど足が遠のいた。仁郎は毎日のように居酒屋やクラブへ出向き、そうじゃない日は高校卒業と同時に買ってもらった車を駆って遠くへ出掛けた。

 これは神の思し召しなんだ、と仁郎はほくそ笑んだ。どういうわけか神様は、俺に永遠の時間を与えたもうた。天命なのだから仕方ない。状況に抗わず、流れに身を任せるしかないのだ。永遠にこの一年が続くというのなら、それを受け入れる準備はできている。

 一年が過ぎ、また同じ一年を迎える。その度に、仁郎は己の胸に作り出した都合のいい〈神様〉に手を擦り合わせた。

 既に何度、同じ時を繰り返したか分からなくなったある日、彼はふらり出掛けた街で小学生の時の同級生と再会した。田端たばたというその同級生は仁郎とは違い私立中学へ進んだため、顔を合わせるのはかれこれ八年ぶり(仁郎の体感としてはその倍の時間は経っていたが)だった。教室ではそれほど仲が良かったわけでもないのだが、不思議と馬が合い、二人は近くの喫茶店に入った。

藪坂やぶさかはどこを受けようとしてるの?」

 互いに小学校を卒業してから今までのことを話し終えた後、カップをソーサーに戻しながら田端が訊ねた。仁郎は、名前だけは書き慣れた国公立大学の名前を挙げた。

「凄いじゃないか。学部は?」

「獣医学部」こちらも口に馴染んだ言葉だった。

「そうか。やっぱりお前、変わんないな。小学校の卒業文集にも、将来の夢は獣医って書いてたもんな」

「え、そうだっけ?」

 隙を突かれた思いだった。田端が卒業文集の内容を覚えていたことへの驚きも去ることながら、自分が一貫して同じ思いを抱き続けているという事実が、仁郎の口から言葉を消した。考えてみれば、全く突拍子のない話でもない。何を以て自分は獣医学部を受験するなどと吹聴していたのか。元を辿れば、その卒業文集を書いた自分に行き着いた。同時に、フジが病気に罹り、動物病院の廊下で泣きじゃくった記憶も蘇ってきた。

 そこで獣医を目指すと決めたこともまた、思い出された。

「藪坂?」

「悪い、田端」と、仁郎は慌ただしく帰り支度をしながら言った。「急用思い出したから帰るわ」そして彼は、戸惑う友人の声を背中に受けながら店を出た。頭の中には、自分の部屋の机しかなかった。そこに向かう自分の幻に、一刻も早く今の自分を重ねたかった。

 自宅の門を潜ると、玄関には入らず庭へ向かった。毎日家の中から見ている筈の庭は実際に立ってみると狭く、隅に置かれた犬小屋はペンキが剥がれ、すっかりうらぶれていた。

 新しいの作ってやらないとな、と心で溜息を吐きつつ、仁郎は屈み込んで小屋を覗いた。

「フジ」

 呼び掛けに応じて出てきた愛犬もまた、仁郎の記憶の中のものより老いて見えた。こんなに細かったかと思うほど体は痩せ、動きも緩慢になっていた。それでも尻尾を千切れんばかりに振って飼い主の登場を喜ぶ姿に、仁郎は視界を泪で曇らせた。

「俺、頑張るからな」彼はフジの硬い毛並みを撫でながら呟いた。「獣医になって、お前の時みたいにたくさんの命を救うよ」

 ワン、と吠える声だけは、昔と変わらず元気がよかった。

 それから仁郎は、来る日も来る日も勉強に明け暮れた。予備校と気分転換でフジの散歩に行く以外は、外出もしなかった。

 勉強は相変わらず退屈だったが、着実に前へ進んでいるという実感があった。小学生のころ憧れた〈将来〉へ、一歩ずつ近付いている気がした。

 本当の意味での〈最初〉の受験は駄目だった。丸一年勉強漬けで挑んだ〈二度目〉も、やはり桜は咲かなかった。だが仁郎は諦めなかった。何度も同じ一年間を与えてくれる〈神様〉に感謝しながら、机に向かい続けた。

 そして今、〈三度目〉の合格発表に臨むべく、並木道を歩いている。

 前方に人だかりが見え、心臓が飛び跳ねた。二度あることは三度ある。いやいや、三度どころか、俺はもっとたくさん同じ経験をしてきた。もう十分だ。今度こそ合格して、この繰り返しを終わらせる。また、同じ心の片隅ではこうも思う。神様、ありがとう。時間が掛かったけど、俺、大事なことを思い出すことができたよ。

 人垣を抜け、掲示板の前に立つ。仁郎は顔を上げ、自分の受験番号を探し始めた。

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