2−1

長男(11回目)


 学校の敷地に入ると、やはり鼓動が早まった。何度経験しても、こればかりは変わらない。自信はあるつもりだったが、重圧はそれ以上に固く大きなものだった。

 今度こそは。頬を叩いて怯んだ気持ちを正し、仁郎じんろうは歩を進める。枝の先に蕾を膨らませた木々に導かれるように、誰も彼もが並木道を歩いて行く。ここにいる全員が自分と同じ目的を持っている。そう考えると、再び胸が高まった。緊張を紛らわすため速足になるが、さして効果は得られなかった。

 やるべきことはやったのだ。勉強だって、他人の倍はしたはずだ。自分にはそれだけの時間があった。比喩ではなく、事実として。

 浪人生活二度目の合格発表の時、掲示板に自分の受験番号がないことに、仁郎は落胆するより先に安堵した。既に二年に及ぶ浪人生活を味わっていた彼は、その生活の〈ぬるま湯〉ともいうべき温度に慣れ切っていたのである。

 日付を気にする暇もないほど毎日遊び歩いていたせいで、己の身に降りかかった異変に気付くまで時間が掛かった。

「来年こそは必ず合格しなさいよ。お父さんの稼ぎじゃ、二浪だって厳しいんですからね」

 おいおいお袋、俺はもう浪人三年目だよ、と喉まで出かかったが、呑み込んだ。余計なことは口にすまい。わざわざ指摘して余計な気を揉ませるのは親不孝というものだ、と彼は考えたのだった。

 その場は母の勘違いということで片付けた。だが、予備校へ行き、教室の面子を目にして、彼は母へ向けた疑いを一旦引っ込めざるを得なくなった。

「何でお前がここにいるんだ?」

 見間違いか、或いは何かの悪戯かと思いながら、仁郎は席に着いた。隣の机には、大学に合格したはずの友人が座っていた。

「はあ? 勉強するために決まってんだろ」

「だってお前、大学受かったはずじゃ……」

「何だそれ嫌味か? お前だって同じ二浪だろうが」

「え、俺は今年三浪で……」

「お前なあ」友人は深い溜息を吐き、「初っ端から縁起でもないこと言うなよ。三浪なんかして堪るか。俺は必ず次で決める。絶対に次で合格してやるよ」

 そう言った友人の表情も口ぶりも、決して冗談を述べているようには見えなかった。やっぱり俺は二浪なのか。そうは思ったものの、解せない部分は存在した。自分は確かに二年間を浪人生として生活したはずなのだ。その記憶は鮮明に残っている。では、これは一体どういうことか。夢かと思い頬を抓るが、やはり痛かった。少なくとも、夢を見ているわけではないようだった。

 己の理解を超える状況に対し、仁郎は狼狽えるばかりではなかった。二度目の二浪が始まったと見るや、彼の胸に浮かんだのは「ラッキー」の一言だった。また一年、緩んだ生活を送ることが出来る。それも、三浪よりは肩身の狭くない二浪としての一年が。

 丸一年を得した気分だった。なんだかよく分からんが、くよくよ悩んでも仕方ない。どうせ誰に言っても信じてもらえないだろうから、気楽に構えよう。そうして仁郎は勉強に励むどころか、過去二年の浪人生活に輪を掛けて遊び歩いた。

 彼の中には〈三浪までは仕方ない〉という認識があった。そしてその認識が、彼を机から遠ざける最たる原因ともなっていた。俺は他人より難しい学部を受けようとしているのだから、多少の時間が掛かるのは仕方ないこと。両親だって、口ではプレッシャーを掛けて来るものの、それは承知済みだ。そんな考えが、仁郎の頭を占めていた。

 仁郎が受験しようとしているのは獣医学部である。彼には、獣医になりたいという子供の頃からの夢があった。夢を実現させるためには並々ならぬ努力に励まねばならないのだが、いかんせん気持ちが楽な方へ楽な方へと落ちていった。参考書は机の隅で埃を被り、獣医を目指すきっかけとなった愛犬のフジとは週に何度かしか顔を合わせなくなった。

「お前、余裕だな」と、久々に顔を出した予備校で、友人に言われた。

「まあね。俺にはあと一年残ってるからな」

「あと一年?」

 眉を顰める友人に、仁郎は含み笑いで答えた。その笑みが、更に満面のものとなったのは、翌年の春のことである。

「来年こそは必ず合格しなさいよ。お父さんの稼ぎじゃ、二浪だって厳しいんですからね」

 母の言葉を耳にした時、仁郎は齧っていたトーストを思わず取り落した。

「お袋、今何て?」

「浪人は二回までにしてちょうだいって言ったんですよ」と、母は溜息混じりに、「もう、朝からボーっとして。そんな様子じゃ、来年の結果も思いやられるわね」

 母の小言はしかし、息子の耳には届いていなかった。

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