五、鬼之面と懐刀、ついに〈地獄の大釜〉を食すの回

 それをのたのたと運んできたのはほとんど黒に近い濃い緑色をした、背中にはうろこの生えた巨大な怪物だったのだが、両方とも素手で取っ手をつかんでおり、その手からはかすかに白い煙が立ち昇っているほど熱々だったが、当の怪物は全然平気のようだった。

 赤色をした汁の中には様々な具材が入っていて、なんとも食欲のそそる香ばしい匂いがした。懐刀は鼻の穴を膨らませて、「これはうまそうですな、兄貴」と言い、鬼之面もうなずいて、大きなさじを手に取って、汁を一口すすって飲んで、ごふっとむせたが、それはたまたま器官におかしな具合に汁が入り込んだせいであり、決して辛さのせいではないという、平然とした態度を装った。

 懐刀の方はその辛味をおびた汁が大層気に入ったらしく、何度も何度も大きなさじですくって飲んで、「これはうまい、これはうまい」と喜びの叫びをあげていた。そして、汁の中に入っている芋や肉などの具材の一つ一つが絶品で、またよく冷えた〈泡沫の夢〉ともよく合うので、懐刀はこんなにうまい食べ物は今までに食べたことがないと思って、そこからはもう一心不乱にむしゃむしゃと食べ始めたのだった。

 一方、鬼之面は想像をはるかに越えたあまりの辛さに呆然としていた。ちょっと汁をすくって入れただけなのに口の中が燃え盛るように熱く、舌はビリビリと痺れている。全身から汗がどっと噴き出してきた。これはもうこれ以上一口たりとも食べられないと思って青ざめた。

 しかし、背中に隊の兵士たちの期待の視線が刺さる。ここまで来て今さら尻をまくって撤退するわけにはいかない。また一口すすってみた。巨大龍きょだいりゅうが口の中で炎を吐きながら地団太を踏んで暴れ回っているかのようだ。どんな悪い行いをしたが故に自分は今ここでこうしているんだろうと思うと涙があふれてきた。

 懐刀は自分の〈地獄の釜〉をはふはふと食べることに心を奪われていて、鬼之面の様子にはまったく気が付かなかった。また、目こそうるうるしてはいるものの、元々が眉根をひひそめ、顔をしかめたような怖い顔つきをしているので、その苦悶の心は表情にはさほど表われていないが故でもあったろう。

 数々の危険な修羅場をくぐり抜けて来た鬼之面だったが、これほどの苦しい戦いを迫られたことはいまだかつてなかった。だが、彼はどんなに辛い状況でも弱音を吐いたことがない男だった。どんなに遠い距離でも目の前の一歩、一歩を踏みしめていけば必ず目的地へとたどり着くというのが信条であり、一さじ一さじを耐え忍んでいけばいつかこの鍋も必ず空になるはずだと信じる他なかった。

 口の中や舌先はその驚くべき根性でまだなんとか我慢することができたのだが、灼熱色の汁を飲み進めるにつれ、中で爆発が起こっているかのように胃袋がどんどんと熱くなっていき、時折「ああ」とか「うう」とか唸りながらもがつがつと食べ進めていった。まれに「ひい」と言うこともあった。

 自分の鍋に夢中になっている懐刀は、鬼之面のうめき声をうまさ故の恍惚の声だと思い、鬼之面が苦し気な声をあげる度に、うんうんとそれに合わせて相槌を打つように頷いていた。ご機嫌取りのうまい懐刀の癖なのだが、大体いつも鬼之面と食事を共にする時は、待たせることのないよう、ほぼ同時に食べ終わるように食べる速さを調整している。

 それ故に途中でちらりと鬼之面の鍋を見て、減り具合が思ったよりも少ないのを確認すると、おやと一瞬思いはしたのだが、なるほど今日は〈泡沫の夢〉をゆるりと飲みながらまったりと食べる気なのだなと〈泡沫の夢〉をおかわりして、つまみを食べながら自身ものんびりと汁や具材を堪能しながら食べ始めた。

 汁のほどよい辛さと〈泡沫の夢〉がもたらす体ほてりでいつになく上機嫌になった懐刀はべらべらと饒舌になったが、それに対する鬼之面の反応はほとんどなかった。しかし懐刀はそのことを全く気にしなかった。大体が鬼之面の戦場での誠実さと勇敢さを褒め称える言葉であり、そういう言葉をかけられる時、照れ臭く思うのか鬼之面はいつも無口になっていたからである。しかし内心は憎からず思っていることを懐刀は知っていた。

 鬼之面と懐刀が帰っていった後、自分たちの隊の分隊長のことを誇りに思う兵士たちは興奮しながら盛り上がった。仲間内の誰もが挑戦してもいまだかつて誰も食べ切ったことのない〈地獄の大釜〉の〈帝王〉を顔色ひとつかえずに、といっても彼らからはその後ろ姿しか見えていなかったのだが、動じることなくぺろりと食べ切ったからである。

 自分たちが帰る時にお金を払おうとしたら、「お代は先ほどのお客様からいただきました」と鬼之面によって料金がすでに支払われていたことを知って、その人気はますます高まり、頂点に達した。〈地獄の大釜〉の〈帝王〉を食べ切った者はまだまだ少なく、それを食べ切った者の名前は壁に張り出される仕組みとなっていて、店に行って燦然と輝く鬼之面の名前を見る度に、兵士たちは心から誇りに思うのであった。

 何日か置くとまた食べたくなるのが〈地獄の大釜〉の魅力らしく、虜になった懐刀はそれ以来何度も「兄貴、また例のところ行きましょうや」としつこく誘うのだったが、鬼之面はいつもうんとかああとか煮え切らない返事をするばかりで、なかなか行こうとしなかったのだが、話を聞いた妻がわたしも行ってみたいわと思いがけないことを言い出した。

 それほどの量を食べられない妻のために取り分けるために皿をもらうことにして、また辛さの苦手な妻のために〈かすかな足跡〉か時に〈小悪魔〉の階級を渋々という形で選ぶようになってからは鬼之面も「地獄の大釜」の魅力にどっぷりとはまり、好んで足繁く通うようになった。時折、隊のみんなを引き連れていく姿も見られるようになったという。

 客の人気を奪われてしまった「天国酒場通り」の他の店の陰謀ではないかと言われているが、一時、怪物たちを町から排除して店をなくしてしまおうとする動きがあって、それを防ぎ怪物たちを守るために動いたのが鬼之面たちの隊だったされている。「地獄の大釜」は一時の窮地を経た後はますます繁盛して、最近では「遥か希望の島」に二号店ができたということだ。

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天国酒場通り地獄の大釜にて 真南大道 @hiromich_manami

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