前を行く人
高野ザンク
その姿に思うこと
袴田は今日も舞台にあがる。
袴田は88歳にして現役の歌手である。
その昔、男性コーラスグループに所属し一時代を築いた。全盛期はまだテレビが白黒だった時代だから、俺はリアルタイムでは知らない。オリジナルメンバーは彼以外は鬼籍に入り、グループは何度かのメンバーチェンジをして数年前まで第一線で活動を続けていた。袴田自身は大きなステージからは退いたものの、まだこうして現役で歌い続けている。
袴田の歌声を聴いたのは、ほんの2年前だ。御年85になるその声を聴いたとき、自分をひとかどの歌い手だと自負していた俺は完全に打ちのめされた。声質の良さもそうだが、なによりも声の魅力が段違いだった。そして若い歌手と何ら変わりのない声量。
これは敵わない。なまじ歌修行をしてきた身だからこそわかる本物の声。これまでもジャンル問わずさまざまな歌い手に出会ってきたが、その中でも一番と言ってもいい。
同世代に敵わないなら、まだ救いがある。ただ、世間的には「過去の人」として認識される彼の現在地と、自分がこれから行きつける先の差を測れば、やっていることの虚しさを痛感した。
一度、彼に聞いたことがある。なんでそんなに歌えるのか、と。技術的な意味でも、年齢的な意味でも。
袴田は、まあなんだかんだで勉強してきましたしねえ、と前置きしながら
「歌うことが楽しいんですよ。そして、その楽しさを皆さんに知ってほしい。それだけですかね」
自分の息子よりも年下だろう俺に、彼は真摯な態度でそう答えた。
『歌うこと』
きっと教え諭そうなんて気は微塵もなかっただろう。だが、その答えを聞いた時、それだけを愚直に信じて人生を歩んできた人との差をまざまざと感じさせられ、自分の中途半端さを恨んだ。俺の行き着く先は、間違いなく袴田の現在地には遠く及ばないだろう。
ただ。
後悔しても仕方がないことは放っておくしかない。彼を見て、その歌を聞いて、感じたことを糧にするしかないのだ。
歌うことが楽しい。
その楽しさを皆さんに知ってほしい。
その思いは俺も同じだ。ならば、その共通点を頼りに自分の道を歩むしかないじゃないか。
圧倒的な差の前に、学べることなんてなにもない。ただ今日も袴田の姿を目に焼き付ける。敵わないとわかっていながら足掻いてみるのもまた一興だろう。
リスペクトをしながらも、心に炎を燃やして。
前を行く人 高野ザンク @zanqtakano
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます