末広がり婆

葎屋敷

「末広がり婆?」


 俺がその話を聞いたのは、その日のの授業が終わった放課後のこと。下駄箱で上履きと靴を履き替える俺に話を振ったのは、クラスメイトの良和だった。


「知らねぇの? 末広がり婆」

「小学校生活五年間の中で、一度も聞いたことねぇよ。そんな変な婆の話なんか」


 ランドセルを背負い直す良和を置き去りに、俺は先に歩き出す。すぐに良和もついてきて、得意げに「末広がり婆」について話し始めた。


「最近噂になってんだよ。桜餅公園の近くに出てくる、下半身がずっぷり太った白髪の婆さんが出るって」

「末広がりって太ってるって意味なのか?」

「多分」


 よくわからないが、「末広がり婆」というのは、近所で見られるようになった不審者老人ということでいいのだろうか。俺は学校を囲っている花壇の上を歩いていた毛虫を拾い、手の上で転がす。不審者婆の話はBGM代わりに聴いていた。


「で、末広がり婆って、自分の誕生日パーティの招待状持ってるんだけど、遭遇すると、それ渡されそうになるんだって。子どもの手に無理やり握らせるんだ」

「なんだそれ」


 こういう不審者というものは、だいたい何を目的にしているかがわからない。末広がり婆の目的も、俺にはさっぱりだった。


「なんか、何年か前に、俺らのランドセルにひたすらレジのやつの光当ててくる爺いたじゃん。あれ並みに意味わからなくね?」

「ああ、バーコードリーダーおやじ? あれも意味わからなかったけど、まだ末広がり婆はわかるだろ。招待状渡してくるんだから、自分の誕生日パーティー来てほしいんだ」


 良和が至った結論に、俺は首を捻った。確かに、招待するからには、来てほしいのだろう。当たり前の推理だ。けれど、それをなぜ友達や家族ではなく、通りすがりの子どもに渡すのかが疑問だ。やはり、あの手の不審者の考えることはわからない。


「とりあえず、その末広がり婆に遭遇したら、この毛虫投げたろ」

「やめとけって。学校にチクられたら面倒だぞ」


 俺が毛虫をポンポンと空中に投げては、潰れないようにキャッチする。そんな大道芸じみた行動をしている横で、和は正良論を口にする。変なところで真面目な奴だ。不審者から逃げるためでしたって言えば、たいしたお咎めもないだろうに。

 その後、俺と良和の話は末広がり婆に戻ることなく、俺はすっかり末広がり婆のことを忘れてしまった。


「またなー」

「おー」


 良和とはT字路で別れ、俺はひとり、毛虫と戯れながら家へと向かう。今日帰ったら、まずはカードゲーム「勤労王」のデッキ構成の見直しをしなくては。俺は頭の中でデッキを組み立てながら、あーでもない、こーでもないと悩んでいると、いつの間にか桜餅公園の前まで来ていた。桜餅公園は俺の家か十分弱歩いたところにある、でっかい公園だ。大通りに面しているせいか、たまに車が突っ込んでくる。この前も一台突っ込んできたらしい。電柱の根元に花束がいくつか添えられている。誰か亡くなったらしい。


「ろっくんろーるは罪の味~」


 誰にも聞こえないような小声で歌いながら、住宅街の路地へと入る。そこから角を五回曲がれば、俺の家がある。

 あと少しで冷蔵庫の中のプリンが食えると考えながら、毛虫を給食のランチョンマット袋に入れ、それをぐるんぐるんと大回転させながら歩いている。そんな時だった。


 俺の目の前に、下半身をぶくぶくと太らせた、白髪頭の婆が立ちはだかった。


「は」


 俺は思わず動きを止めた。ジェットコースター並みに三百六十度回転していたランチョンマット袋も、慣性の法則によってぶらんぶらんと揺れるだけ。俺は突然現れた見知らぬ婆に、呆然としてしまった。

 婆は俺の顔をじっと見ると、その黄ばんだ歯を見せながら、にたぁと笑った。


「ぼうず、元気かぇ」


 最初、俺は自分が話しかけらてると思わなかった。左右後ろを見て、誰もいないことを確認し、初めて、婆が俺へ話しかけてきてると悟った。

 こんなよぼよぼの婆を怖がる理由などないと言い張りたいところだったが、汚い婆は普通に気味が悪かった。俺は首をできる限り力強く横に振った。


「そうか。そうかぁ。これなぁ、来るなあ」


 末広がり婆は要領の得ない喋り方をしながら、服のポケットから一枚のカードを出した。そこでようやく、俺の頭の中で良和との会話が繋がった。


(こいつ、末広がり婆だ!)


 なぜか自分の誕生日パーティーの招待状を渡してくるという、謎不審者。謎だから不審者なのか、不審者だから謎なのか。その正体は永遠に伺いしれない、いや、知らない方がいい人間。

 関わってはいけない代表だ。


「ほれねぇ、これねぇ」


 末広がり婆は、俺に手の脂で汚れたような招待状を渡してこようとする。それを見た俺はランチョンマット袋の中に手を突っ込むと、中に入れていた毛虫を取り出し、それを末広がり婆の顔面に向かって投げた。


「くらえ、不審者!」

「ひぇえ」


 俺が投げた毛虫に、末広がり婆は驚いて仰け反っていた。その隙に、俺はクラス一位の足の速さを活かして走り出す。ちょっと悪いことしたな。後で怒られるかなという気持ちがないではなかったが、それ以上に今は、逃げることに精一杯だった。


 あと一つ、三つ先の角を曲がれば家に帰れる。そこまで俺が走った時、ふと、後ろで激しい音が聞こえた。人が地面を蹴る音だ。


「……え?」


 俺が走りながら振り返ると、そこには信じられないスピードで走って追いかけてくる、末広がり婆の姿があった。


「お待ちぃ!」


 だらしない体には似つかないほどの俊足。ぶよんぶよんと肉が激しく上下している。車で追いかけられていると錯覚しそうなくらい、末広がり婆の足は速かった。


「ひっ」


 毛虫がない今、俺に末広がり婆を後退させるものはない。背筋の凍るような恐怖を覚え、俺は一番近くにあった角を曲がり、婆から距離を取ろうと試みる。内心、家へのルートから外れてしまったことを後悔した。


「待てぇ! 待てぇ!」

「なんなんだよ!?」


 末広がり婆は叫びながら俺を追いかけて来る。俺はとても正気はいられなくて、ちびりそうになりながら全力で走った。泣きそうだった。

 俺と末広がり婆の追いかけっこは永遠に続くように思われた。しかし、意外な人物に声を掛けられて、突然の終幕を迎える。


「あれ、川崎。なにしてんだ、お前」


 俺に声をかけてきたのは、良和だった。奴は道の端に突っ立って、俺の方を不思議そうに見ていた。


「良和!」

「なにしてんの、お前。うちのばあちゃんと」

「は?」


 さっきまで必死に動かしていた足が、良和の発言をきっかけに止まる。それに合わせて、俺を追いかけていた末広がり婆も走るのを止めた。先程追いかけてくるときは鬼の形相だったのに、今では人当たりの良い笑顔を浮かべている。


「え? は? なに? お前、末広がり婆をうちのばあちゃんと呼んだか?」

「うん。だってうちのばあちゃんだし」

「はぁ!? マジで!?」


 俺はすっかり大人しくなった末広がり婆を指差しながら、良和に詰め寄った。


「俺、この人にすごい追いかけられたんだけど!? 招待状渡そうとしてくるし、お前から聞いてた話まんまで……」

「いや、うちのばあちゃんは末広がり婆とは別。ボケてるだけ。体は元気だから、たまに徘徊して、そこらへんの奴と追いかけっこしてる」

「お前のばあちゃん、アグレッシブすぎねぇか!?」


 どうやら、この婆は末広がり婆とは無関係で、本当に良和の婆らしい。先程とは打って変わってぼんやりとしている婆の手を、良和はそっと握り、背後にある家の中へ誘導しようとしている。良和の家は見たことなかったが、ここが奴の家らしい。平屋の一軒家で、ここら辺にしては珍しくボロっちかった。


「なんか迷惑かけたみたいで悪かったな。そうだ、うち寄ってけよ。末広がり婆じゃねぇけど、うち、ちょうどばあちゃんの米寿のお祝いやってんだ。ケーキもあるぞ」


 良和は自分の家を親指で指差す。俺は奴が言った言葉に首を傾げた。


「べいじゅ?」

「そ、長生きのお祝いだって。八十八って、組み合わせると米って漢字になるだろ?」


 だろって言われても、実際に書いてみないとピンと来ない。


「なんかそれで、八十八歳のこと米寿って言うんだって。八は末広がりでめでたいって言われてんだぞ。うちのばあちゃん、八十八ぴったりだから、家で誕生日パーティー中。お前も寄ってけって。勤労王のカードパック開けようぜ!」

「え、寄ってくー」


 ケーキと勤労王カードパックの存在に惹かれ、俺は良和の後を付いて行く。さらに俺の後ろをぴったりと、末広がり婆もとい良和のばあちゃんがついて来る。本当に、先程まで追いかけられていたことが嘘のように静かだった。

 家の玄関へ着くと、まだ日があるからか、中は電気もついていない。薄暗い廊下を見つめながら、ふと、俺は思った。


(あれ。そういういえば、良和って、結構前のT字路で別れるよな。方向的に、ここに家があるのはおかしいんじゃ……)


「なぁ、よしか――」


 俺は、気づくのがあまりに遅すぎた。俺の声はひどく軋んだ扉の音に呑み込まれ、暗闇の中へと引きずり込まれるように、この世から姿を消した。



 *




 ある日のクラスルームの時間。そのクラスの教師は、ひとりの生徒の席を見た後、さっと子どもたちの顔を見渡した。


「昨日、この中に川崎と最後に会ったのは誰だ」

「良和。川崎と一緒に帰ってなかった?」


 生徒の一人が、別の生徒を指差す。示された子ども方へ、教師は問いかける。


「本当か、八ツ田」

「確かに、川崎とは昨日帰ったけど、途中で別れたし。それ以降は知りませーん」


 教師はその返答に困ったように眉を寄せた。そして、もう一度、ぐるっと教室を見てから口を開いた。


「実は、昨日から川崎が家に帰ってないらしい。なにか知ってる奴がいたら、先生のところまで来るように」


 教師の言葉に、教室内がざわつく。皆が眉間に皺を寄せる中、一人だけ、子どもがこっそりと笑みを浮かべていた。

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末広がり婆 葎屋敷 @Muguraya

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