17:生きてたまるか【完結】

 20××年 全人類へのスマホの普及


――全ての人類、ひとり一台スマートフォンが行き渡った、との統計がされたのが、この年だった。

 半導体の集積率が技術上の極限まで上がり、小型化、高性能化はもとより、廉価で実用的な端末が普及した上に、圧倒的な速度と安定性、提供エリアを持つ、XG移動通信規格が確立された結果もあろう。

 後発途上国、最貧国であろうと、平等な情報提供と人道確保のためにと、全ての人類ひとりひとりにスマホを、といった国際社会の方針に沿う支援もあった。

 この頃、ある興味深いデータが上げられている。

 世界各国の幸福度ランキングというものがある。これは単に、アンケートを取っただけのものだが、全ての途上国で、この幸福度の平均が、急激に下がっていたのだ。

 幸福、というものは、ある意味相対的なもので、特に日本人に顕著だが、他人と比べることで実感できる、という側面がある。

 情報が無く、他と比べようもない分、素朴な笑顔で満たされていた途上国の国民が、先進国を含めた全ての世界の暮らしぶりを知るや、今まで知らなかった不足を知り、そして不幸を知ってしまう、という話だ。

 私の考えに過ぎないが、他人、他国との比較だけではなく、スマホによる情報取得の迅速性、圧縮性からもたらされる、飽和も原因であるように思う。

 数千年前、人間は、集落で仲間とのみ過ごし、そこで生きてゆくだけの生き物だった。一生で得られる情報も、たかが知れていた。

 それと比較すれば、現代の人間が詰め込まれる情報の膨大さはどうだろう。

 理論も正義も悪の定義も、メディアによる何周もの逆張りで否定と肯定をひっくり返され続け、消費され尽くしたその果てに、確かなものが何もない到達感、とでも言える虚無に迷い込んでいるのではないか。どう生きてもいいが、どう生きたらいいかわからない、という極北にたどり着いていようか。

 だとしたら間違いなく、スマホやネットはその趨勢を加速させたのだろう。

 情報は確かに、人間の価値観、選択肢を広げたが、結果、人間はあらゆる場面で選択を迫られ、それに迷わされるようになった。

 シンプルな正誤、黒と白で済んでいた色分けは消え、グレーのグラデーションの中で、答えは全て自分で決めるものになり、その責任も負わされるようになった。

 それまでには無かった種類の苦しみが積もり積もって、後述する全世界での生への嫌気に繋がったのではないだろうか――


「桐生ったら、またずいぶんと古い話を。たまにテレビでやってたな、スマホの弊害がどうとかって。出会いも恋愛も、みんなスマホで始められちゃうもんだから、それ以外での出会い方がわからなくなってるとかどうとかって。だってさ、他人に話しかけるだけで通報されるのに、SNSとか以外で、どうやって人と繋がるっての? そういうのが人類滅亡に、どう結びつくんだか」



 20××年 自殺者の異常な増加、完全な安楽死装置の製造方普及、のちに禁止


――前世紀からしばらくは、横ばいを続けていた世界の自殺者の数が、この年とうとう、人類の死因の二十パーセントに達した。

 原因のひとつと指摘されているのは、ベルギーで開発された、個人向けの安楽死装置だ。

 注射針も点滴も使わない、誰でも作れる自殺キットを用意し、薬局を回るか、ネットで簡単に手に入る薬剤を混合し、自分に投与することで、完璧に苦痛のない安楽死を、ひとりで遂げられることを可能にしたこの装置は、ネットで瞬く間に世界中へと広がり、それを使用した老若男女の自殺が激増した。

 歯止めがかからなくなった自殺者の増加に、各国政府は強硬な対策に乗り出すことになった。北欧など一部の地域を除き、自殺は違法であるとの法規制を進め、安楽死装置を作成、販売、譲渡した者への重い刑罰に始まり、やがて自殺は明確に犯罪となり、未遂だけでも逮捕、起訴、実刑が確実となった上、学校授業や政府の啓蒙活動による、自死への罪悪感の植え付けが急ピッチで進められた――


「あー、自殺キットね。あれもう、今は作れないんだよね。ネットでの買い物も、履歴が怪しいとすぐ警察来ちゃうし。てか、自殺と殺人が同じ刑罰じゃない時代って、どんなんだったのかなあ。いくらでも死にたい放題だったじゃん。羨ましいことだわ」



 20××年 携帯GPS、監視カメラによる個人認証システムの完全普及、生存報告義務化


――一向に減らない自殺件数と、それを阻止されて自暴自棄になった者の、無差別殺傷事件やテロの増加に伴い、個人認証追跡システムの運用は先進国、まずは銃器が溢れ、乱射事件が日常茶飯事になっていた米国から、西側諸国で横並びで始まった。データは海を越えて各国間で共有された。

 中核を成す監視カメラの設置数は加速度的に増加し、それは犯罪抑止に寄与し、重大犯罪が事前に阻止される等の実績を確かに上げたが、プライバシーや人権といった問題点はやむを得ず後回しとされた。

 スマホのワンタップで済む生存報告義務も、違反常習者への罰則が段階式に強化され、誰もが以前に増して一日中スマホを手放さざるを得なくなり、GPSは常時接続され、切断ができない仕様が基本となった。

 これらの息苦しい措置が、果たして効果があったどうかは、議論のあるところだろう。ただ、自殺願望を持つ者の減少という意味については皆無だった。この頃から行われたアンケートでは、自殺ができるならばやりたいか、という質問には、やりたいという回答が常に半数に迫っていた。

 死にたい者を、力ずくで死なせないことはできていた。だが、生きたいという希望を持たせることはできなかったのだ――


「そうそう。防犯監視カメラがすごく小さくなって、犯罪してもすぐに捕まるようになった分、見られてない場所では何をしてもいいみたいな風潮になってから、報告義務が始まったんだよな。あれって、スマホが常時携帯の身分証になったのって、いつからだっけ。いっぺん廃ビルの屋上で空眺めてたら、警察が来ちゃって、ものすごく怒られたなあ……」


――厭世観、というものは、はるか過去から存在するが、ここまでの有様は、どんな悲惨な乱世でも記録はなく、学者や識者は分析に苦慮した。誰もが何かに苦しんではいるのだが、その苦しみの正体が掴めないと。

 戦争も貧困も飢餓も圧政も差別もない、平和な世の中の何が不満なのかと。各所に張り巡らされた監視カメラと、旧世紀のあらゆるバイオレンス・ハラスメントを駆逐したコンプライアンスにより、安全に守られた社会の中で、どういった不幸に苦しんでいるのかと。

 原因が判然としなかった生そのものへの苦しみは、音楽や映像といった旧来の表現よりも、ネット上の個人の日記、自伝エッセイの形を取った書籍、特に漫画などで、正しく表現された。

 家族もあり、経済的に恵まれた、安全な屋根の下での、確かな苦しみを描いたそれらの作品は、実情実態を浮き彫りにこそしたが、原因を切り取るまでには至らず、そういうものだから、としか触れようがなかった。

 対処となるとさらになにもなく、メンタルの治療・投薬以外に、これといった方法も見当たらず、いきおい精神疾患や障害の分類、多様化へと繋がっていったが、その診断はおよそどんな人間にも当てはまるほどに網目を広げてしまい、数か月待ちのカウンセリングからは数分ごとに新しい患者が生まれ、両手いっぱいの錠剤で生と精神を保たれる人間の割合は、先進国でここ二十年間四割を切ることがなくなった。

 多様化は精神疾患だけではなく、性自認や性同一性障害といった性的少数派の細分にも及んでゆき、今世紀初頭にはLGBTの四文字で収まっていたカテゴライズも、今や十を遥かに超え、彼ら彼女らへの正当な権利保障と合理的な対応という問題に、私企業のみならず公的、公共機関も苦慮し、新たな負担と疲弊を生み出していた――


「おっ、僕のこと書いてるじゃん。昔はFTMだかXだかで済んでたんだよね。僕はそっちの診断は受けてないし、投薬も効き過ぎたからやらなかったな。てかさ、監視カメラも遵法も、その死角を突く奴を量産しただけで、解決には役に立なかったって言われてるじゃん。桐生ってば」


――自殺者及び、自殺願望者の増加。

 これが、神が人間を滅ぼす決意を固めた理由ではないだろうか。

 かくいう私も、生に執着があったことはない。私の周りもそんなのばかりだ。むしろ社会経験のない多感な子供たちに、厭世は根深く蔓延している。

 SNSでは自殺を求める少年少女の書き込みで賑わい、そこで交わされる言葉は互いのくだらない生と、手垢に染まったあらゆるものごとを嘲笑し合う、刹那的で自己完結的なものばかりだ。己の不幸と悲しみを呪う声のすさまじさは、いにしえの奴隷や人権を持たなかった民の方がはるかにましに思える。人間とは、生とはこうだったろうか。

 かつて、生は喜びであり、未来は無限であり、人生は宝物だった。

 神が与えたその宝物を、人間たちは捨て始めた。価値のないくだらないものと、全うすることなく投げ出すようになった。

 もはや与えるに値しない命であるならばと、神がその御手で取り上げたのだ。それが、生き残りたちのたどり着いた結論だった。

 私の考えは、少し違う。

 ここまで複雑になった生に苦しむ人間たちに、むしろ救済の手を差し伸べたのではないか。造物主の責任として、こういう事態も予測していたのではないか。

 つまり、ある一定の割合で、人間が生を厭うようになれば、ウィルスによって自滅するプログラムを、DNAに組み込まれていたとは考えられまいか。

 その閾値を、人類は四月のあの日に、ついに超えてしまったのだ――


「この前言ってたことじゃん。まあ、そこにたどり着くわな。だからさ、人間なんてプログラムで、作ったやつがちゃんといるんだよ。こんなんなる前に気がつけよ。僕とトシキに追いつくの、ちょっと遅過ぎるぞ、桐生よ」


――もうひとつ、ここからさらなる妄想を膨らませてみる。

 ずっと、不思議に思っていたことがある。人類が自滅プログラムの発動によって、全世界で同時に消えてしまったとして、なぜ私たちだけは、その発動を遅らされたのか――


「あー、そうだよなあ。僕もそのひとりだし。……単に、プログラムの欠陥じゃないの? 作ったやつ、絶対ヘタクソだし」


――私たちだけではなく、海外でも生き残りの共通点は調べられていた。

 無線で行われ続けた調査結果の照らし合わせが進むにつれ、そこにはかすかな、いや、明確な意図が感じられてきた。

 まず、均等に人口何人当たりひとり、という残り方をしていないのだ。

 オーストラリア、カナダといった、人口密度の低い国の、生き残りの率が非常に高く、人口一億二千万人の日本での二百人弱、人口五億人のEUでの二千五百人という割合に比べ、人口三百万人程度のモンゴルでの生き残りは、九百人以上いるのだ。

 簡単な計算だったが、居住地の面積あたりに平均して、人間は生き残っていたのだ。

 全世界での平均を出すと、これまでは一キロメートル四方当たりの人口は約六十人だったが、それが約十万分の一に減っていた。そこからはじき出される人類の生き残りは、六万人から九万人弱と推定された。

 さらにその中での傾向を探ると、老若男女の率は均等に振り分けられおり、兄弟、姉妹、親子や双子などが、揃って残されていることが多かったのだ。

 まるで、淘汰のその後の、次の何かに備え、多様性を保持して配置されたかのように――


「へえ……そうなんだ。……そういえば、こんなに少ない生き残りの中で、トシキとアヤカが兄妹で残っていたのが、ちょっと不思議だったんだよな」


――そこから導き出した推測を述べる。

 神が下した決断は、実は滅亡ではなく、プログラム回避ではないのか。

 もしかしたら私たちは、最後の審判を担い、配置された駒ではないか。

 このままでは人類は、動き出したウィルスにより、ほどなく消滅してしまうだろう。それを避けるために、修正が行われたのだ。パッチが当てられたのだ。

 私たちは言わば、ワクチン投与として作られた生き残りであり、人類に与えられた機会なのだ。

 つまり、分母が極端に少なくなってゆけば、生きたいと願う者の割合に偏りが生まれ、閾値を下回ることが可能になる。

 たとえば、自滅プログラム発動の閾値が、死にたい者五十パーセント超だとして、人類の残りが十人になった中で、生を求める者が五人になれば、プログラムは停止し、恐らく消滅する。

 五人が生き残り、三人が生きたいと願えば、発症はなくなる。

 二人が生き残り、一人が生きたいと願えば、発症はなくなる――


「…………」


――私のとめどもない妄想も、そろそろ終わりにしよう。

 どうあれ私は、死にたい方の分母を増やす存在でしかなく、ワクチンの役目は果たせそうにない。

 そんな私ではあるが、生の美しさ、命の尊さは、今は前よりもわかる。

 私にそれを教えてくれた者がいる。

 猫好きで、旅好きだった彼女が言っていたことが忘れられない。何千年も、人間は猫にごはんをあげて、一緒に暮らしていたと。世界のどこでも変わらずそうだったと。猫は人間に多くを教えてくれる、師であり友であり同士だったと。

 猫は決して可愛いだけでなく、子供と同じく残酷であり、その罪を知り、多くを想い、悩み、苦しみ、時には自傷し、自害する子もいるという。

 それでも自然の、世界の、ひとの営みの美しさすらも知り、永く私たちの傍で、命と苦しみを共にしてくれた仲間だったと。

 そんな存在さえも認められなくなったくらいに、人間は情報を詰め込まれ過ぎ、効率ばかりを求めたあまり、幸せの居場所もなくしてしまったのだと。

 スマホを手放して、からっぽの時間を静かに大事にできるようになったこの世界で、ただ『今』だけを感じられるようになったら、人間はまた幸せに笑えるはずだよと。

 彼女のそんな言葉に、私は救われていた。生かされていた。私は、彼女を救いたかった。

 もうそれが叶わない今、せめて、彼女と同じような者たちを救う一助になる行動を、私は最後に取ろうと思う。

 死にたい方の分母をひとつ減らそう。

 そしてもう一度、人間は復興を手にして欲しい。

 変われない私の、ささやかな願いが、ド下手糞のプログラマーに届くことを願う――


                    2052年 12月20日 桐生弘樹



 バッテリーが切れて、タブレットの明りも無くなり、世界の終わりに閉ざされた暗闇の中で、毛布に埋もれる。

「桐生、面白かったよ。でもさ、最後に地が出てたぞ」

 大きすぎて邪魔だった胸周りが楽になっている。痩せた身体はなかなか悪くなく、このくらいだったら受け入れていられたかなと、ずっと捨てたかった魂の入れ物に、ほんの少し愛おしさを感じる。

 そろそろ寝るかと、深く目を閉じる。ちゃんと一酸化炭素は発生しているだろうか。眠気はそれによるものだろうか。

 これで死ねたら、僕も桐生と同じように、死にたい側の分母減らしに役立つではないか。やっぱり、さっさと死んどきゃ良かった。それでプログラムを消滅させることができてたなら、ココもアカリもアヤカも救えてたじゃん。まったく。

「…………」

 でも、もしも目が覚めちゃったら、どうする?

 なんなら、逆の方の分母を増やす側になってみるか? そっち側でがんばってみるか?

「……冗談じゃない。生きてたまるか。なあ、トシキ?」


――楽しかったよ、晶――


「うるさい。もう寝る」

 ……寝入りにちょっとだけ、思い返してみるかな。楽しかったこと、色々。

 これがずっと続いたらなって思えた、未来の希望みたいな……。

 夜明けの踏切で消えてった女性も、ココもアカリも、実は生きていてさ、線路のその向こう側の世界で、もう一度……。

 ……え?

 そんなの僕、思ってたの? そんな気持ちを、少しでも抱いてたの?

 あーだめ、なんかもうやめとこう。面倒くさくなる。最後にふさわしい、安っぽい夢でも見て、懐かしい枕を抱いて眠ろう。

 それでも、もしも、……もしも目が覚めたら、その時は……。

 ……その時は、そうだな。

「……そう……する……か……」



 目が覚めたら、世界は



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生きてたまるか 黒白さん @kuro0_0shiro

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