グラツーニャの樹
清水らくは
グラツーニャの樹
エレオス爺が死んだ。87歳だった。
村では、60歳を越える者もほぼいない。大変な長寿だったということになる。
エレオス爺は皆に見守られながら、煙と灰になった。そして灰の一部は、グラツーニャの樹の根元にまかれた。
根本と言っても、グラツーニャの樹は大きく根を広げており、村中がその根の上にあると言ってもよかった。水車が水をくみ上げ、常にその根を潤わせている。
グラツーニャの樹は天高く伸びている。そのおかげで、村はあまり日が当たらない。作物が育たないため、森を切り拓いた遠い場所の畑まで人々は毎日通っている。そこも、慢性的に水が足りない。また、グラツーニャの樹には肥料も必要だった。これは、獣たちの死体から作られる。僕らは自らが食べるためでなく、狩りに出かける必要があった。
このとてつもない樹が生え始めたのは、エリオス爺が生まれる前の年だったという。つまりグラツーニャの樹は、88歳ということになる。この樹がなければエレオス爺は生まれるとがなく、兄弟のような、それでいて神のような存在なのだとよく言っていた。
エレオス爺が亡くなって一瞬間。長老が村人を集めた。エレオス爺は20年前に長老を退いており、今はその次の次の長老で、まだ47歳だった。
「皆の者、聞いてほしい。この村は長年、貧しい暮らしを強いられてきた。それは他ならぬ、この馬鹿でかい樹のせいだ。この樹は水を吸い上げ、光を遮る。そのくせ、何か役に立つ実を付けるわけでもない。確かにかつてこの樹は、この村を救ったという。しかしそれも過去の話。その時のことを知る者も、エレオス爺で最後だった。今こそ私たちは、前に進むときではないか」
人々は顔を見合わせた。誰もがうすうす思ってはいたものの、怖くて言えなかったことなのだ。
かつてグラツーニャの樹は、この村を救ったという。このあたり一帯に魔物が現れ、人々の暮らしが脅かされたのだ。そんな時ある僧侶が村を訪れ、苗木を置いていった。「この樹が、人々を救うであろう」と言い残して。
藁にもすがる思いの村人がその樹を植えると、驚くような速さで樹は成長した。そしてその樹はまるで動物のように枝を操り、魔物をつかみ取ったというのである。次々と魔物は捕まり、そしてひねりつぶされた。グラツーニャの樹は、村を救ったのである。
命の恩人である樹を、ご先祖様は大切に守ってきた。樹は多くの水と、たい肥を必要とした。樹は、太陽の光を奪い続けた。それでも人々は、恩を返してきたのである。
「確かに魔物から救われたかもしれない。しかしこのままでは、私たちは樹に殺されてしまう」
ここ何十年も、魔物が出たという話は聞かなかった。そして最近、王が替わり税の取り立てが厳しくなったのだ。これまでは長年の付き合いでよくしてくれていた役人が、全て罷免されてしまった。そして中央からいかめしい顔をした役人たちが派遣されてきたのである。
ただでさえ貧しい村が、より貧しくなった。危機感は、皆にあった。
話し合いが行われたが、結局のところ結論は決まっていた。
グラツーニャの樹に水を送る水車が、止められることになった。
「お前、88歳なんだよな」
僕は太いグラツーニャの樹の幹に手を当てて、話しかけていた。幼いころから、よくしていたことだ。
変わったことと言えば、エレオス爺がいないことだ。エレオス爺も幼いころから、ずっと樹に話しかけていたらしい。
「この樹は、命をくれた。ずっと、守っていかねばならん」
そう言って、愛おしそうに幹をなでるエレオス爺の姿は、今でもありありと思い出すことができる。
けれどもこの樹は、村人にとって邪魔になってしまったのだ。中には、「本当に魔物を倒したりしたのだろうか」と疑う者もいた。確かに、樹の枝が自在に動いて、魔物をひねり殺す話はちょっと信じがたくもある。魔物は何らかの理由でいなくなって、たまたま大きな樹があっただけなのかもしれない。
ただ、僕はこの樹からただならぬ気配を感じるのだ。愛情のような、憎悪のような。何も言わない、全く動かない大樹だが、周囲に感情をまき散らしているような気がするのだ。
「長い間、この村を見てきたんだよな」
樹の命は長い。あと何百年でも、生きることはできるだろう。けれども水を止められ、肥料を与えられなくなれば、これだけの大きさを支えることはできなくなるに違いない。
大好きな人とモノを続けて失ってしまうことになるかもしれないのだ。僕は、グラツーニャの樹に頬を寄せてみた。
あれだけ茂っていた葉はほぼ落ち、枝も下を向いている。グラツーニャの樹は、元気をなくしていた。あれだけの水と肥料は、実際必要だったということが分かる。
村は、少し明るくなった。枝が落ちてしまえば、最ももっと明るくなるだろう。
だが、暗い話題が村の中を駆け巡った。飼い犬が馬をかみ殺したというのである。しかも、一匹だけではない。次々と馬を襲い、何とか取り押さえられたものの飼い主にも噛みつこうとしたというのだ。
突然おかしくなる犬の話は、聞いたことがある。それに違いないと、誰もが思った。
しかし数日後、鳥の群れに村人が襲われるという出来事が起こった。これは聞いたことのない出来事だった。そして、村人同士でも言い争いやけんかなどがいくつも生じた。
空気が悪い。
誰もがその原因に心当たりがありながら、それを口に出そうとはしなかった。
そして村の様子を聞きつけて、一人の僧侶がやってきた。僧侶はグラツーニャの樹を見るなり、長老にこう言った。
「なぜあのような状態になっているのですか」
「それは……」
「グラツーニャの樹は、888年かけて魔物の邪気を消化するのです。枯らしてしまっては、あたり一面に邪気が振りまかれてしまう」
「そんな! では、どうすればいいのですか」
「とにかく元通りになるようにするのです」
しかし、すでに村人たちは素直に忠告を聞ける状態ではなかった。僧侶の言葉を疑った者たちは、彼を捕まえて牢に入れてしまったのである。
グラツーニャの樹は、寂しげに枝を揺らしていた。
深夜、僕は家を抜け出した。誰も観ていないのを確認して、水車小屋へと向かう。
このままでは村は無茶苦茶になってしまう。せめて水だけでも元通りにしなければ、と思ったのだ。
だが、水車小屋の前に、いくつもの光るものが見えた。それは、獣の目だった。しかも、野犬や狼の類ではない。見たことのない大きさで、聞いたことのない声を出す、魔物だったのだ。
僕には、戦うすべがなかった。ただ、おびえながら立っていることしかできなかった。いくつもの光る眼が、こちらに近づいてくる。
もうだめだ、と思った時。風を切るような音がした。いくつもの枝が伸びてきて、魔物が捕まえられたのだ。魔物はただ暴れることしかできず、そして、血しぶきを上げながらバラバラになっていった。
「グラツーニャの樹が……!」
樹は、まだ死んでいなかった。そして、言い伝えに残るように、魔物を倒したのだ。
枝の一つが、僕の前で揺れていた。敵意を感じない。僕はその枝に手を触れた。
≪元気だったかい≫
「えっ」
声、ではなかった。枝から、心が直接流れ込んでくるような感覚。そしてそれは、なじみのある「感じ」だった。
「エレオス爺……?」
≪そうだよ≫
「どういうこと?」
≪わしは、グラツーニャの樹の一部になったのじゃ。儂だけじゃない。人も獣も、グラツーニャの樹の一部となって生きている≫
「そうなんだ。でも……グラツーニャの樹はもうすぐ死んでしまいそうだ」
≪そうじゃな……残念なことだ。もうすぐ村は滅んでしまうだろう。お前さんは、心か綺麗だから、まだ大丈夫なようだ。今のうちにここから逃げるんじゃ」
「そんな。できないよ」
≪グラツーニャの樹から、どんどん悪いものがにじみ出ておる。このあたり一帯が、とんでもないことになるだろう≫
「どうしようもないの?」
≪一度失われたものはなかなか元には戻らん。多分駄目じゃろうな」
「ちょっと待ってて」
僕は水車小屋に行き、水流を止めていた板を外した。これで水車が動き出し、水がグラツーニャの樹の方へと流れ始める。誰かが気が付いたら、再び止められてしまうかもしれない。それでも、少しでも、グラツーニャの樹に元に戻ってほしかったのだ。
「これで水をあげられるよ」
≪お前は本当に優しい。だからこそ、生きてほしいのう≫
「……うん、生きるよ。そして、もしどこかにまだ元気なグラツーニャの樹の木があったら、それを守る」
≪そうか。心強いのう≫
「エレオス爺……いろいろとありがとう」
≪いやいや、こちらこそ。そういえばちょっとだけ聞いてくれるか≫
「何?」
≪今日はわしの誕生日なんじゃ。一度死んでしまったとはいえ、目標の88歳になった≫
「そっか。うん、おめでとう」
≪樹になればあと800年生きられるかと思ったんじゃがのう。それはちと無理そうじゃ≫
「できるだけ……生きてほしい」
「うむ。さあ、魔物はどんどん来るぞ。今の内ならまだ守ってやれる。遠くまで逃げるじゃ」
「……うん。エレオス爺……さようなら!」
僕は走り始めた。できるだけ速く走った。振り返ってはいけないと思った。また枝が風を切る音がして、何かがつぶされたようだった。体から内臓が、そして心が飛び出しそうだった。それでも走った。闇の中を走り続けた。
グラツーニャの樹 清水らくは @shimizurakuha
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