【KAC20225】ヘルヘイム・チェーンソー

すきま讚魚

第88スタンザ

「風、とはなんだ」

いななくものであり、漠然とかけゆくもの、だ』

「では"月"は——?」

『欠けるものでもあり、時測りだ』

「……回転する輪フヴェルファンダ フヴェールではないの?」

『そりゃーそっちの世界の話だろう?』


 真っ白な霧がかった世界の中を、少女が歩いている。

 その肌はまるで絹のように美しく、髪は金色に輝いて、その瞳はまるで深淵のような漆黒であった。

 その小さな身体には麻のワンピースそれだけをまとい、足元は素足のままだ。

 ひとつ……その素朴な可憐さに似つかわしくないものといえば、彼女の左腕には大きな大きな赤黒く変色した不思議な傷痕があることかもしれない。


「それでは"太陽"とは?」

『全くもって明るいもの、で。永遠に輝くもの、だ』

「……嘘つき」

『嘘じゃねーよこのアホンダラぁ、お前が見た事ねーっていうから教えてやってんのに』


 足元に広がる大地はまだ少し灼け爛れたような痕が残っていて、まだらに緑が芽吹いている。

 昼でもない、夜でもないその世界の中を少女はひとり歩いていた。


「始まりの兄妹はどこにいるんだろう……?」

『見つけてどうすんだっての』

「とりあえず会話を試みる……」

『殺しちまえば手っ取り早いじゃん』


 ごきょんっ!! という鉄の擦れ合うような叩きつけられるような、そんな変な音が響いた。


『イッテェ!! んな偽善者ぶったってダメだぜ? お前の血の味を知ってりゃ嫌でもわかる、お前の本質は』

「うるさい」


 がしょんっ!! イッテェ!!

 辺りは暫しの間、沈黙に包まれた。





 うおおおおおん、ぐおおおおおん、と世界が震える。どこかで『叫ぶ大釜』の残骸が戦慄わなないた。


『さて、あの罵り野郎を黙らせようぜ』


 風は、漠然とかけゆくものでなければならない。

 風は、嘶くものであって、揺れるものであって。


 風は——燃えゆく怒りと共に飛翔してはならないのだ。


『叫ぶ大釜』はこの世界がまだ世界であったその頃、最下層にあった泉の名残だ。そこからこうして、時折この世界の残骸に歪みからやってくるものがある。


「何故生きている! 娘よ。黄昏は終焉を迎えたというのに」

「ええ、そうね、何故でしょうね」


 口から火を噴く黒竜が眼前に迫ろうとも、彼女は何一つ物怖じする事なくそう返した。

 その自分とよく似た漆黒の瞳に、竜はギュヒギュヒと下品な笑いで返した。


「ああ久しぶりの血が飲める。ああ、なんとうまそうな」


 その鋭い爪が自分の立っていた地面を抉るのを、彼女はすんでのところで躱して地面に転がった。


「どうも彼は私とお話ししてくれる気はなさそう」

『どっからどう見てもそーだろうよ!!』


 永遠の黄昏、晴れぬ霧の世界の中に、無骨なモーター音が轟いた。


 めぢょり……っ、と彼女の腕の傷から顔を出したのはチェーンソー。

 細腕に似合わぬそのグリップと、ごついタンクのついた動力部、高速で回転する刃が、ニタリと嗤った・・・・・・・


『なぁヘル、チェーンソーとはそもそもなんだ?』

「骨を断ち切るもの」

『正解っ』


 彼女は、みるみるうちに色の変色した左半身で、その大振りのマシンを物ともせずに担いで……黒竜を見上げる。


 力を持たぬ幼女の必死の抵抗を嬲る気でいた竜は、その半身にはっと目を見開いていた。


「そ、の……姿は。えっ、おい、まて」

「またない。おまえが和解を求めるにしても、もはや遅すぎるから」


 ——悪いこにはお仕置きしなきゃね。




♠︎♤♠︎♤♠︎♤♠︎♤♠︎♤




 いちばんめの兄さんは、月と太陽を飲み込んだ。

 にばんめの兄さんは、海と大地を飲み込んだ。


 冬が続けざまに三度訪れ、世界は焼滅した……はずだった。


 みんな一緒にいなくなるはずだった。

 ……あるとすれば、善人だけが残る森が、とり残される。そういう予言だったはずなのに。


『お前、生きてんのかよゥ』


 誰かの声がして、私は目覚めた。

 否、ずっと起きていたけれど何もみようとしていなかった。


「生きてない」

『生きてんじゃん』

「半分死んでるもの」

『ってことは半分生きてんだろ、ラッキー』


 浮かんできた僅かばかりの大地の上、その灼け跡に私は寝そべっていた。いつのまにか、少しの海が生まれ、声の主はここまで流れ着いてきたらしい。


『こんな最果てで出逢ったよしみだ、なあ、血をくれよ』

「は……?」

『俺ってばよー、ちょぉっと呪われた身の上でさ。そこらのあらゆるものの命を奪ってその血を吸ってしまわねーと、眠りにつけやしねーんだ』

「ああそう、でもざんねんね」


 私の身体は半分が腐っている。生まれた時からそうで、だから兄さんたちと離れ離れにされ、死者の国でずっと暮らしていた。


 だけども半分死んで、半分生きているこの身体は、死者の国とて異質で。どこにも当てはまるものがない。言うなれば呪われた身だ。

 彼の呪いがそうであるのなら、いくら私の血を与えようとも眠りにつけることはないだろう。


『おっもしれーじゃんそれ』


 声の主は心底楽しそうに笑った。


『呪われたモン同士、なかよくしよーや』

「でも……、私なんて」


ぎゅりぎゅりと、少し錆びた刃で笑いながら、流れ着いたそのチェーンソーは私にスロットルレバーのコードで触れた。

 刃こぼれを起こしても眠りにつけない彼の姿は、口調と違いなんだかとても寂しそうに感じる。


『ずっと死んでるその半身を俺にくれよ。なぁ、嬢ちゃん。中途半端な存在ってのは悔しいだろーが、それを欲する物好きもいるんだ。へへへっ、もし……お前が死んでしまったら、その時は必ず俺が見届けてやるからよ』


 ズブズブと錆の無くなったその刃が私の半身に刺さり、血を啜る。触れてわかったのは、彼に宿ったその刀としての歪んだ性質だった。


 だけど——。


 これくらいがちょうどいいのかもしれない。

 美しくなった身体は歪で、だけどこの世界にはもう私を醜いと投げ捨てるおじさまもいない、私を恐れ目を塞ぐ人々もいない。


 死に続ける半身を彼に捧げ、私は立っている。

 はたから見れば生者として。

 その死を糧として、彼は日々生きている。

 彼が奪い続ける周辺の命とやらは、私一人で事足りる。

 そうして今度は、ラグナロクの向こうを。兄さんたちの生きた証を見つけよう。




♤♠︎♤♠︎♤♠︎♤♠︎♤




「そういえば、遠い文献で読んだの。あなたの仲間かもしれない」

『ああ? グングニルか? エクスカリバー?』

「いいえ、付喪神って総称みたい。99年想いを込めて使われると、道具が命を宿して動き出すそうよ」

『はぁ? いやそもそも俺、つくもがみじゃねーよ。それに、まだ88歳なんだからよ』

「あら、とんだ若造だったの」

『んならもっとおっきく育ちやがれ、このチビ』


 腕の赤黒い傷から、反論のようにスロットルレバーが飛び出す。


『言ったろ、嬢ちゃんが死ぬときは俺が見届けてやるってよ。千年でも、万年でも、次の88年その時でも』

「その時には、次の世界があるかな」

『知らねーよぅ! でもあれだ』


 今の嬢ちゃんなら、次は誰も地下に放り込んだりしねーだろーよォ。もし次の世界があるんならきっと、楽しいぜ?


 チェーンソーの刃が擦れてキリキリとなる音が響く。


「大丈夫よ、話し相手になら、今の私も困っていないもの」

『はぁ?』


 表情の乏しかったその顔が、初めて慈しみを知ったかのように、それはそれは美しく笑った。


「ねぇ、次の88年が過ぎたら、今度は喋る火器か銃器に逢えるのかもね」

『……ちぃっ、いるわけねーだろそんなやつ』

「まだ見ぬアハトアハト、もしもいるなら逢えるのが楽しみ」

『いやいやいや、飛び道具なんてナンセンスが過ぎる。つーかお前にゃ俺がいりゃぁ十分だろうがよぉ……あっ』




 はるか昔に残されたエッダと呼ばれる一冊の写本。醜いと言われ隠された冥界の女王が、神々の終焉、世界の大樹を焼き尽くした戦争のその後どうなったのか。それはどこにも記されていない。


 刻を同じくして、鍛えられて80幾年もの間虐殺を繰り返したダーインスレイヴという名の呪われた剣も。人知れずその後存在は書かれず、行方もしれない。


 そもそも女王は醜かったのだろうか、剣は——果たして剣だったのだろうか。




 月と太陽の生まれた世界。

 善人だけが残るというのはどうやら戯言だったらしい。


「神って結構どんぶり勘定よね」

『んまぁ、だから俺らみたいなのが生まれたんじゃねーの』


 過去の栄光の亡霊、時折現れる『叫ぶ大釜』、伝説の残骸を切り裂くチェーンソーのモーター音。

 似つかわしくない可憐な少女がそれを手にドゥルルンと舞う都市伝説が、現代の世に生まれたのはまた別の話。

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