こわして。と彼女は言った

柴田 恭太朗

1話完結 自殺者の多い高校

――わたしをこわせる?


 あのとき確かに彼女は「壊せるか」と訊いたのだ。「殺せるか」ではなかったと思う。詩織がその言葉をどんな表情で口にしたのか、まったく覚えていない。視線を僕から外して、夢見るように空を見つめていたのは間違いない。それがふだん見せない心の底から言葉をさらっているときの彼女のクセだから。


 僕らが通った高校は、毎年自殺者を出すことで有名な進学校だった。受験の悩み、家庭のいざこざ、思春期特有の肥大した自我エゴ。鬱屈を抱えた高校生が思いをぶつけるように高いビルから飛び降りる。駅のホームから電車めがけて飛び込む。人生と青春とを血肉の詰まったゴム風船のように破裂させ、まき散らす。


 ふざけるな、と僕は思う。不安や悩みは誰もが心に飼うた寄生虫。あたかも自分の悩みペットが人より図抜けて大きく不幸であることを誇るかのように、おのが生命をかけてアピールする。そんなに僕らの命は安く薄いのか。


 一年のとき同じクラスだった詩織と会ったのは、高校へ向かう路線バスの中。乗客の間からつり革につかまってバスの揺れに身を任せる彼女の姿が見えた。色素の淡い透明感のある横顔。パツンと切り揃えた前髪。白い肌によく似合う褐色の髪が、バスの揺れを後から追いかけるように揺れる。僕が見つめていることに気づいたのか、体をひねって覗き込むようにこちらへ視線を送る。僕を認めると彼女の唇が小さく「あ」の形に開いた。


 バスを降りて高校までの舗道を詩織と歩いた。並んで歩くのは一年ぶりか。彼女と僕が付き合っていたのは昨年の春までだ。三年になった今はクラスも別々になり、会う機会も理由もなくなった。


 僕は当時と変わらぬ彼女の髪を称賛の念を隠さず見つめる。肩で切り揃えられた褐色ストレートの髪は歩くたびに光沢が艶やかに流れ、鑑賞に値した。染めているわけではない。生まれつき色素が薄い彼女の地毛だ。


「二限目、抜けられる?」

 詩織は僕の顔色をうかがうように見上げた。二限目の授業を抜け出して会えるかという意味だ。

「図書室?」

 付き合っていた頃は、図書室で勉強会という名目のデートを繰り返した。

 彼女は少し考えた後、告げた。

「北西の階段。最上階がいいかな」

 不思議な場所を指定するものだ。そう僕は思い、彼女の顔を見つめなおす。


 詩織は右目から涙を流していた。悲しいからではない。彼女の右目の涙腺が壊れていて、朝日のように強い光が目に入ると涙が止まらなくなるのだ。詩織の話では、彼女の母親が振り回したフライパンが右目にあたったのだという。手がすべったのよと詩織は笑う。DVという言葉も存在しなかった時代のことだ。


 彼女が指定した場所について説明が必要かもしれない。僕らが通う高校は戦前に建てられた古い灰色の校舎で、上から見るとカタカナのロの字に見えた。そのロの四隅に階段が設置されている。滑らかな石で造られた階段は、本来、三階建て校舎の屋上へと通じているのだが自殺者が相次いだことで屋上への出口はすべて封鎖されていた。代わりに、体育祭で使う巨大な立て看板やゴザなど大道具の物置と化している。そこで落ち合おうと詩織は言っていた。


 僕の二限目は現国だった。高三の理系が現国の授業から学ぶことは何もない。僕はいつものように読みかけの文庫本を片手に教室を出た。クラスメートも僕の行動を見とがめるものはいない。普段通りだからだ。


 誰もいない廊下を足音を忍ばせて進み、北西階段の手すりに取りついた。周囲を見回す。やはり誰もいない、進学校の授業時間中とはこういうものだ。階段を上る僕の耳に、音楽室からもれる女声合唱の歌声が微かに届く。


 踊り場には詩織が先に到着していた。巨大な立て看板にはさまれた、埃だらけの床に直接腰を下ろしている。立て看板に描かれた金色の鳳凰の照り返しを受けて、詩織の右半身が神々しく輝いていた。僕の到着に気づいた彼女は、それまで見つめていた何かをサッと背後に隠す。


 床の上から見上げる彼女は両目から涙を流していた。詩織の左手首にはごく浅い傷がつけられ、一筋血が滴っている。僕は彼女の行動の意味を理解し、彼女が背中に隠した右手首をつかんでそっと引き出した。右手に握られていたのは、割れたガラスの破片。


「死ぬの?」

 僕は思わず口にしてしまって自己嫌悪する。最初に出た言葉がこれだ。僕らは自殺に馴染み過ぎている。

「もういいかなって」、彼女は短く答えた。

 僕は口を閉ざし、次の言葉を待つ。

「わたしは右目で泣くピエロ。だから誰からも愛されない」

 まただ。また彼女の母親が詩織を罵ったらしい。詩織の母はいわゆる毒親だった。付き合っているときにさんざん聞かされた話だ。母親は詩織よりも弟を可愛がった。のみならず事あるごとに、詩織の心に爪を立て引き裂くという。平々凡々と波風なく生きてきた僕には、彼女が抱える心の闇は深すぎて重すぎて支えるどころか、むしろ怯えた。それが僕らが別れた直接の原因だ。


 だからこそ救えるなら詩織を救いたい。彼女を現世に繋ぎ留めるアンカーを打ち込むのだ。決心は固かったが、どんな言葉をかけたら良いのか人生経験の浅い僕には分からなかった。分からないままに彼女と並んで腰を下ろす。言葉の代わりに、彼女の白く滑らかな曲線を描く頬を両手ではさんで、そっとキスをした。


 偽善的な優しさだけのキスの後、詩織は体をこちらに向けなおした。彼女の制服のブラウスに斜めの皺が走り、豊かな胸が強調される。体を僕に向けたまま、視線を宙に泳がせて彼女は口を開く。重い言葉を投げつけてくる前兆だ。僕は身がまえる。


「わたしをこわせる?」

(どういう意味だ?)、頭の中が真っ白になる。僕は彼女の意図を推し測れなかった。

 とまどう僕の表情を見てとった詩織は体の力を抜いて、みずから踊り場の埃の上に横たわった。細くしなやかな指で制服のブラウスのボタンを上から順に外してゆく。ひざを曲げ、床に立てた左足でスカートがまくれ上がり、白い腿が妙にコケティッシュに見えた。


(そういう……こと)

 求めているものがはっきりした。彼女の純白の下着が露わになると、僕の頭の中は瞬時に沸騰した。人間よりも動物の衝動に駆られる。それからのことはよく覚えていない。若い僕にはそれほど衝撃的過ぎた。ただ覚えているのは、僕が絶頂を予感したとき、を包み取るティッシュを持っていないことに気づいたことだ。気配を察した彼女は僕を離さぬよう両腕に力を込めてしがみつく。


 鈍い僕にも詩織の意図がわかった。彼女の目的は妊娠。妊娠で彼女の高校生活じんせいは壊れる。僕は脳の片隅にわずかに残っていた理性をかき集め、彼女から体を離し、立て看板に向かってすべての欲望をイジェクトした。金色に燦然と輝く立て看板の左側。鳳凰の翼の上を僕の未練がゆっくりと流れ落ちていく。枝垂れ柳に似た紋様を無言のまま二人で見つめた。それは僕の提出した回答。やがて詩織は看板から目を反らし、僕は残痕と同じ形のささくれたシミを心に焼き付けた。


 彼女は僕と一度も目を合わせることなく制服の乱れを整えると、顔を伏せたまま無言で階段を駆け降りて行った。詩織の髪がなびいて、すき間から見える耳朶は見たこともないほどに朱く染まっている。彼女の真っ赤な耳たぶもまた、僕の心にシミを残し、ことあるごとに沁みた。


――僕は彼女をこわせたのだろうか?


 結局、その答えを聞くことはなかった。しばらくすると彼女は高校へ来なくなったから。最後に見かけたときの彼女は目立つルージュを引き、ゆるくパーマをかけていた。清楚な詩織は、あの艶やかな美術品に似たストレートヘアとともに確実に壊れていった。あるいは壊れたフリをしたのかもしれない。最後まで何もわからないまま、僕は取り残された。


 のちに詩織の噂を聞いた。

 彼女は繁華街に店を構えるバーで働いている、経営者の愛人になったのだという。高校までの通学路は繁華街を通る。朝の早い時間など、派手なクラブの前で男たちがたむろする光景をしばしば目にした。同じ街路で行き交うが、高校生と繁華街の住人は別次元のレイヤーに住む熱帯魚のように生きていた。すれ違っても互いに意識することはない。ただ、もし詩織がみずから繁華街の層へ飛び込んで行ったのだとしたら、あり得ない話でもない。


 ともかくだ。彼女が死を選んだという話は聞いていない。大切なのは彼女が生きているということ。詩織は僕ではないよすがを見つけ、この世に留まって生きることを選んだのだろう。


 ときおり僕は彼女を思い出し、右目だけで涙をこぼそうと試みる。だが一度もうまくいったことはない、いつも両目に涙があふれてしまう。心に焼き付いたあのときのシミは黒く重すぎて、片目では支えきれない。たぶん、そういうことなのだ。


 終

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こわして。と彼女は言った 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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