大好きな彼女の字

葵月詞菜

大好きな彼女の字

 文芸部の部室に、しゃりしゃりという微かな音が流れていく。

 

「ああ~この匂い久しぶり」


 隣に座った男子生徒が思わず呟いた言葉に、稲荷いなりすずめはくすりと微笑んだ。


「ほっとするよね」

「え? 俺はちょっと緊張するかな。これから字書くのかあ~って」


 字を書くことに苦手意識があるらしい高観たかみ雲雀ひばりは、溜め息を吐きながらぼやいた。

 すずめは硯の中で墨を磨り続ける手を止めず、粘り気を帯びていく黒い水を見つめた。

 こうして墨を磨るという動作も気持ちが落ち着くので好きだった。

 そんなすずめを見て、雲雀は大きく首を傾げる。


「ねえ、やっぱり稲荷さんって、書道部に行くべきだったんじゃない?」

「……うーん、どうだろ」


 元々、すずめは文芸部に入部するつもりではなかったのだ。たまたまそこに居合わせた同級生に誘われて、あれよあれよと部員になってしまっていた。

 だがだからと言って、別に書道部に入るつもりでもなかった。この学校はどこかの部に所属することが求められるので、本当に見つからなかったら入っていたかもしれない。


 文芸部は水曜日にしかみんな集まらない。あとはそれぞれ、来たい人が来たい時に来る緩い部活だ。

 今日はまさにすずめと雲雀しかおらず、前に約束した通りに一緒に字を書く練習をしようということになったのだった。


 すずめは一つ頷くと墨を置いた。

 大筆を手に取ると、雲雀が興味津々の目で見つめているのが分かった。

 この男子は、なぜかすずめの書く字を気に入っているらしい。すずめの字に憧れて、彼もまた字を綺麗に書く練習をしていたと知ったのはつい最近のことだった。

 すずめが肩の力を抜いてすっと筆を半紙の上に下ろす。流れるような動作の後、紙の上には【永】の文字が表れていた。


「……綺麗だな」


 息を詰めていた雲雀が感嘆の声を漏らす。

 すずめは書いた半紙を新聞紙の上に移動させ、雲雀の方に体を向けた。


「じゃあ高観君も練習しよう」

「お……おう」


 まずは新聞紙の上に書いて練習する。半紙よりも丈夫で滑りやすいはずだ。

 雲雀の筆はダイナミックだった。勢いがありすぎていっそ、なんちゃって草書のように見えないこともない。


「もう少しゆっくり筆を動かしてみたら?」

「ええ……むずい」


 四苦八苦しながらも必死で紙に向き合う雲雀を見ながら、すずめも昔、同じように新聞紙に夢中で書き散らしていたことを思い出した。


「ああ~疲れる~。ちょい休憩!」


 三十分程頑張って雲雀が休憩を申し出た。それを許可して、すずめは自分の前に新しい半紙を用意した。


「何かリクエストある?」


 何を書こうか迷って、折角だからと訊いてみた。


「良いのか?」


 訊かれたのが予想外だったのか雲雀は素で驚いた後、少し考えてから口にした。


「じゃあ――俺の名前」

「え?」

「雲雀。漢字分かる?」

「分かるけど」


 まさか彼の名前をリクエストしてくるとは思わず、今度はすずめの方が唖然としてしまった。雲雀の方は小さな子どものようにわくわくとした表情で、すずめの手元をじっと見ていた。

 すずめは筆を墨に浸し、息を整えると半紙の上に走らせた。

(――うん、悪くない)

 書けた二文字の感じを見て頷く。我ながらバランスが取れたと思う。


「どうかな?」


 書いたばかりの半紙を雲雀に見せると、彼は目を見開いて絶句していた。


「え、高観君……?」

「……すげえ。俺、初めて自分の名前の字がカッコいいと思ったわ」


 まじまじと食い入るように見つめるので、すずめも照れ臭くなってきて言葉を噤んだ。


「これ、もらって良い?」

「え? こんなのいるの?」


 そんなに気に入ってもらえるならむしろ恐縮だ。雲雀の嬉しそうな顔がすずめには不思議だった。


「いや、ほんとすごいよな。『呪いの書』とか言われる俺の字とは雲泥の差だ」


 そういえば先日彼の筆ペンでの練習作が、『呪いの書』と勘違いされてちょっとした騒ぎになったという一件があった。

 すずめは思い出して苦笑を漏らした。あれは――まあ、しょうがない。


 まだじっとすずめの書を見続けている雲雀の横で、また新しく半紙を敷く。


「稲荷さんは誰かの字を好きだって思ったことある?」

「あるよ」

「へえ? どんな人? 書道家とか?」

「ううん。うちのおばあちゃんの字」


 すずめは祖母のことを思い出した時にふと頭に閃いた二字を書いた。


【米寿】


 今年88歳になる祖母は、少し認知症のような症状が出始めてはいるが、まだ自分の身の回りのことはできるくらい元気だ。


「おばあちゃん、よくあちこちにメモしたり日記をつけたり、手紙を書いたりするのが好きでね。わたしも小さい頃からよくお手紙書いて出してたんだ」


 小さい頃は返事が来るのがただ嬉しかった。祖母の筆で書かれた字が上手く読めなくても、自分への手紙だということが嬉しかった。


「大きくなるほど学校のこととか色々おばあちゃんに知らせたくて、わたしも手紙を書くことが好きになって。おばあちゃんの筆ペンの字も慣れて読めるようになるとまた嬉しくなったんだよね」


 今でも、祖母から届く手紙を開くとわくわくする。そこには大好きな字が並んでいる。


「踊り字とか、初めは分からなくてさ」


 こんなの、と筆で書いて見せると、雲雀は「ああ」と頷いた。


「今思うと、私が字を書くことが好きになったのはおばあちゃんとの手紙のやりとりも大きかったのかも」


 学校に入る前から、手紙を通して文字が身近にあった。

 雲雀が「へえ」と相槌を打ち、腕を組んで言った。


「手紙かあ。俺はあんま書いた記憶ないかも。小学校の時に何かの授業で社会見学先にお礼状書いたくらいかなあ」

「家族には書かなかったの?」

「伝言メモ程度かな」

「……そっか」


 こればかりはもう個々の環境と関心の問題だ。

 すずめは自分が書いた【米寿】の字を見てふっと笑みを浮かべた。

(もう88になるのか、おばあちゃん)

 自分の五倍以上も生きている祖母のことを想う。あとどれくらい、手紙のやりとりができるだろう。


「あ、そーだ」


 突然、雲雀が手をポンと打った。

 すずめが「どうしたの?」と目で問うと、彼は名案を思い付いたとばかりににっと笑った。


「稲荷さん、俺と文通してよ」

「は?」


 文通? それはつまり、自分と祖母のように手紙をやりとりするということか。


「え? 何で手紙? スマホあるじゃん」


 祖母はスマホを使えないから分かるが、目の前にいる男子はスマホを使いこなす現役の高校生だ。


「いやいや、スマホのメールじゃ意味ないんだって。字を書くのが目的だから」

「……別に普通に練習すれば良くない?」

「さっきの稲荷さんの話聞いて、手紙だったら誰かに読んでもらいたくて頑張って返事書くかなあって思ったんだ」

「まあ、それは分からなくもないけど」


 まさにすずめ自身がそうだったからだ。


「でも何でわたし!? 寒河江さがえ君とかに頼みなよ」


 彼の友人で同じ文芸部の男子を引き合いに出すと、雲雀は首を横に振った。


「あいつは字より絵描く方が好きだから」

「じゃあ美雛みひなちゃんとか」


 今度はノリの良い部員を候補に挙げてみる。雲雀は眉間に皺を寄せた。


白鳥しらとりさんはまた『呪いの書』とか言い出しそうだから嫌だ」

「ああ……」


 確かに言いそうだ。彼女に決して悪気はないのだけど。


「それに、稲荷さんと文通をするメリットがもう一つある」

「メリット?」

「俺、稲荷さんの字が好きだから、稲荷さんの書いた字が手に入るのは良いなあって」

「……ええ?」


 そこまで言ってくれるほど、果たして自分の字には魅力があるのだろうか。すずめは何とも信じられない心持ちで複雑な顔になった。


「――じゃあ、わたしのメリットは?」


 反対に訊いてみた。

 雲雀が少し考えるように黙って、あっさり言い放った。


「そりゃもちろん、稲荷さんに文通の友人が増えるってことだろ」

「文通の友人?」


 別に増やそうと思ってはいないのだが。

 すずめがポカンとする前で、彼は口の端に不敵な笑みを浮かべた。


「おばあさんに負けないくらい、俺も手紙書くからな」

「いや、ちょっと、本当に……?」

「本当本当。俺から書くから、書けたら渡す」

「ええ……」


 またすずめの知らないところでとんとんと何かが進んでいく。

 しかし、すずめの胸のどこかで微かなわくわくが頭をもたげていた。

 祖母以外で、まさか高校生になって、このスマホ時代に同級生と文通をすることになるとは思わなかった。

(それも、高観君と)

 女子同士では手紙のやりとりもたまにしていたが、男子とは初めてだ。


「そういえば、手紙ってやっぱレターセット用意すべきなのかな?」


 思い出したように確認してくる雲雀に、すずめはふふと笑ってしまった。


「ノートの切れ端でもルーズリーフでも何でも良いよ」


 大事なのは中身だ。それに彼はきっとたくさん書いてくれるのだろう。わざわざレターセットを用意してもらわずとも十分だ。

(わたしはメモ帳の残りでも使おうかな)

 昔集めてそのままになっていたかわいいメモ帳たちの存在を思い出す。


 果たして雲雀がどんな手紙をくれるのか、想像して少し楽しい気分になった。


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