定年寿命88歳
透峰 零
16時47分03秒
何の変哲もないその日、1人の老人が死ぬことになっていた。88歳。別に珍しいことでもない。
この惑星は、遥か昔に人間同士で争いあい、その数を絶滅寸前にまで減らしたことがある。その際、残った人間の中から選ばれた者たちは「これ以上人口が減らないように」と、人類の寿命を「88歳」とすることに決めたのだ。
なぜ88歳なのかというと、その時の人類の平均寿命が88歳だったからである。
かくして、人々は88歳まで生きることを余儀なくされた。
幸いというべきか不幸にというべきか、科学は十分に発達していた。生まれる前の赤ん坊の遺伝情報に、1分1秒の狂いなく正確に88年の寿命を刻み込むなど、当時の科学者には造作もないことだったのだ。
それに、たとえ不慮の事故で88歳を迎える前に肉体が損傷しても、脳に埋め込まれた極小のバックアップチップさえ無事ならば、新しい肉体に埋め込んで生を続けることができた。
88歳までは。
――だが、この非人道的な政策は人々の反対にあってすぐに廃止された。
88歳という年齢は、実に中途半端だったのである。
30歳を迎える前に死んでしまう難病を抱える者にすれば、88という数字は素晴らしいものに聞こえただろう。だが、88歳を迎えても元気な人間にすれば理不尽な死神の数字にほかならない。
老人は後者だった。
彼は1週間前まで親しい友人とゲートボールを行い、可愛い孫やひ孫に囲まれて一緒に遊んでいたのだ。
それが突然奪われる不条理。
老人は今日の16時47分03秒に死ぬ。
だから条例に従って、昨日までに自分の葬式の手配を済ませ、遺影の撮影を終わらせ、命日となる今日の16時には死に装束に着替えて布団に入っていた。
「こんな横暴があってたまるか」
16時43分。
布団をかぶりながら、老人はぶつぶつと文句を言っていた。
彼の枕元には、2人の孫娘が座っている。長女が34歳、次女は32歳。すでに結婚もしており、隣の部屋には彼女達の子供が夫と共に老人が死ぬのを待っていた。
老人の子供達は仕事が忙しく、老人の「死亡報告」を長男の子供である彼女達に任せたのだ。
「でも、仕方ないじゃない。おじいちゃん達の時は88歳で死ぬように決められてたんだからさ」
長女が言った。次女が続ける。
「そうそう。それに、もっと昔は人間50年って言われてた時もあるくらいなんだよ」
「それ、嘘だってさ。ちょっと前に『歴史再発見!』でやってたよ」
「えー、マジ?」
「本当よ」
16時45分。
きゃらきゃらと笑い合う彼女達に老人は、深いため息をついた。
「お前達にも、そのうちこの気持ちがわかる時がくるさ」
暗澹とした老人の言葉に、孫娘2人は顔を見合わせる。
16時47分。
やがて、老人は眠るように息を引き取った。老人の手首に巻かれていたバイタルバンドを外した次女が、時刻を確認して安堵の息を吐く。
「16時47分03秒。やれやれだわね」
「予定通りに死んでくれて良かったわ。ほら、たまに医療事故で2秒くらい延命しちゃう人いるじゃない。あれ、手続きが面倒らしいのよ」
「やだ、困るわねー」
言いながらも彼女達は定められた手順に従って、バイタルバンドの記録を役所に転送したり、葬儀会社に手続き開始の連絡を行ったりする。
「そういえば、おじいちゃん最期に何か言ってなかった?」
「あー、言ってた。88歳で死ぬ気持ちかぁ……私達にはわかりようが無いのにね」
長女が肩をすくめたのは、彼女がまだ若いからではない。
なぜなら、彼女達2人は定年寿命が95歳の世代なのだ。88歳で死んだ祖父の無念な気持ちはわからない。
そうして死亡手続きを粛々と進めていると、玄関のドアが開く音がした。
どうやら彼女達の父親――老人にとっての息子が帰宅したらしい。
「おかえりなさい、パパ。ちょっと前におじいちゃんはちゃんと死んだわよ」
長女の報告に、父親は
「そうか、それは何よりだ。ちゃんと死亡時刻に遅れはなかったかい?」
と言った。長女が親指と人差し指で丸を作る。
「それもバッチリ。転送もしたし、葬儀会社さんに連絡もしたわ」
「さすがだな。もしかしたらパパはお葬式に出れないかもしれないが、大丈夫そうかい?」
「も~パパってば心配しすぎ。大丈夫よ。渡す挨拶はパパが考えてくれた草稿を使うし、参列者の方も車内からお焼香ボタン押すだけなんだから」
笑った次女に、父親の表情が緩む。
「そうか、済まないね。任せっきりにして」
「良いのよ。そんなことより、今って国会中でしょ。抜け出てきて平気なの?」
「ああ、思ったより早く終わってね。――そうそう、まだ未発表なんだけど新しい法律が決まったよ。安定性が保証できたから、お前達の子供達から定年寿命が100歳にまで引き上げられることになったんだ」
定年寿命88歳 透峰 零 @rei_T
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