俺の海

和辻義一

俺の海

 今朝もただ、海を眺めていた。


 毎日見る、同じ景色。早朝から照り付ける夏の日差しはきつく、はるか遠い水平線はかすんで見えて、玉砂利の浜に打ち寄せる波は轟々と荒々しい音を立てている。そして、かなり遠くの海上には、ゆっくりと海原を進む貨物船の姿が見えた。


 俺が立っている場所からほんの1~2メートル先は波打ち際なのだが、太平洋の荒波が打ち寄せるその場所は、10メートル以上はえぐられた急な斜面になっている。天候が荒れている時にはもちろんのこと、比較的波が穏やかな時であっても、波に足元をすくわれると命を落とす危険性がある。


 それでも、今の季節には小型の青物がまだ釣れるということで、長く続く波打ち際のあちこちに釣り師が立っていて、何度も何度も海に向かって竿を振っていた。


 だが、これだけ広くて、それこそ数えきれないほどの魚たちがいる海を前にしても、青物を釣るのはなかなかに難しい。そのことを、長年この海を眺め続けてきた俺はよく知っている。それに、本当のことを言えばこの海で小型青物を釣るなら、もう一月ほど早く来るべきだっただろうとも思う。


 数日前までは、東京で暮らす息子の家族と一緒に過ごしていた。たまたま俺の誕生日が盆のシーズンと重なっているということで、息子達はほぼ毎年、八月になると顔を見せに来てくれる。


 そして今年は、俺が88歳になるということで、米寿べいじゅの祝いなどというものもしてもらった。といっても、ひなびた田舎住まいなので、昔から馴染みの食事処で一緒に食事をして、孫から祝いの品を手渡されたぐらいのものだったが。


 もらった祝いの品は、本物の黄色い花を長持ちするよう特別に加工したもので、さて何と言ったか――確か、だったか。恥ずかしながら、名前はよく覚えていない。


 その次の日の早朝、俺がいつものようにこの場所で立っていると、波打ち際から遠く離れた防風林の隙間から、眩しそうに顔をしかめながらこちらへと向かってくる息子の姿が見えた。


 息子は俺のすぐ隣に立ち、しばらくの間は黙って朝日に輝く海原を眺めていたが、やがて海を見つめたままでぽつぽつと、半ば独り言のように俺へと話しかけてきた。


 息子からの話は、東京で自分達と一緒に暮らさないかというものだった。妻ともよく相談した上での話だという。俺が遠く離れたこの町で一人暮らしをしていることが、とても心配だとも言っていた。


 息子は妻と共働きで、とある大きな市の役場に勤めていて、数年前には一戸建ての家を購入していた。息子の妻も、おじいちゃんが家で子供と一緒にいてもらえたら嬉しい、などと言ってくれているそうだった。


 俺はその時、出来るだけ息子と息子の妻を傷つけないよう、日頃はあまり使うことがなくなった頭を一生懸命にひねって、慎重に言葉を選びながらその話を断った。


 息子も、俺の反応はある程度予想していたらしい。申し出を断られたことに別段腹を立てるという訳でもなく、ただ訥々とつとつと俺の年齢や健康について語ってきた。だが、俺の考えが変わらないことを悟ると、なんとも困ったと言わんばかりの微苦笑を残して、その場を去っていった。


 あの時の息子からの申し出も、息子達が俺を気にかけてくれていたことも、本当にありがたいことだとは思った。だが、俺はこの町を、この海を離れるつもりはなかった。


 何故なら、この海は俺の妻が大好きだった場所だからだ。


 若かりし頃に少し離れた都会からやってきて、この町の役場で勤めることになった妻は、大海原から打ち寄せる波が玉砂利の浜で砕けて引いていくこの光景が、何とも雄大でたくましく、見ていると心が洗われるようだと言っていた。


 妻と出会ってからというもの、何度この場所で同じ時間を過ごしたかは分からない。息子も無事に独り立ちして、妻が仕事を辞めてからはほぼ毎日、一緒にこの浜で東の水平線から昇る朝日を眺めてきた。


 妻ががんで亡くなったのは、もう八年も前のことだ。あの日から俺は、毎朝一人でこの海へと通い続けている。


 さとい息子のことだから、おそらくはその辺りのことも理解してくれていたのだろう。だからこそ、俺に対してそこまで無理強いなどもせず、笑って帰ってくれたのだと思う。


 息子達には大変申し訳ないのだが、どうせ死ぬなら巨大なビルが立ち並ぶ大都会などでではなく、ただひたすらに水平線だけが広がるこの海を見ながら死にたい。


 あえて言葉にはしなかったが、息子達には分かってもらえただろうか――この俺の海を。

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俺の海 和辻義一 @super_zero

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