兄妹の姦計

かいなた りせん

兄妹の姦計

 八重子(やえこ)は兄に手を引かれ、戦火の残滓が薄っすらと蔓延(はびこ)る東京を歩く。


「あら、八重ちゃん。美味しそうな“きゃんでぇ”持ってるねぇ」


 配給帰りの田島さんが、兄の方に会釈すると、八重子に微笑んだ。近所に住む彼女は、何かと二人を気遣う初老の未亡人である。


「お兄ちゃんに買ってもらったの?」


「うん! にーちゃんはねぇ、やえこがぁ――」


 八重子が“きゃんでぇ”を買って貰うまでの経緯(いきさつ)を、彼女に話そうとしたところでぺちっと頭を小突かれる。見上げると、兄が顔を強張らせて笑っていた。


「余計なことは、言わんでいい。すみません、お忙しいところを」


 そう言うと、暴れ馬の手綱が如く、彼女の手を引っ張っていく。「仲良しねぇ」と感心したような彼女の声が、背後で聞こえて来た。

 兄はしばらく無言で歩くとやがて、歩く速度を緩める。


「八重子、誰にも言っちゃあダメだって言ったよな」


「はあい」


 怖い顔で凄む兄に、八重子は頬を膨らます。そして、不貞腐れたように返事をしたのだった。

 八重子たちも配給所に向かった。今日の配給を受け取ると、兄はひょいと荷を担ぐ。そして、空いた手で妹の小さな手を握った。


「持てるか?」


「うん」


 八重子も反対側の手で、小さな包みを握った。

 人の流れに乗りながら、二人は駅の構内を通る。


「にーちゃん! やえこ、アレ欲しい。今度の誕生日」


 駅前の百貨店のショウウィンドウで、八重子は立ち止まった。そして、包みを持った方の手で指をさす。

 その指先には、ウエストを絞った赤を基調としたドット柄のワンピース。ニュールックとして、巷の若い女の間で流行っているファッションスタイルを模倣している。

 もちろん、小学生の八重子が着るようなものではない。


「高い、ダメ」


 兄は低い声で強圧的に言うと、地に根を張る妹を引っ張る。


「ケチ! ともちゃんは誕生日に買って貰ってたもん!」


 八重子の一番仲良しの、ハイカラ娘のともちゃんのことである。


「もういい! 買ってくれないなら、口利かないから」


 八重子はツンとした態度をとると、パッとつないだ手を放す。兄を睨み上げると「“すとらいき”してやる」と言った。

 そして、スタスタと足早に行ってしまう。待て! と呼び止める声が追いかけてくる。だが、彼女の歩は止まらない。


「……ったく。分かったよ、買ってやるよ」


 兄は八重子に追いつくと、観念したように言った。途端に、不貞腐れていた彼女の顔がパッと輝く。


「けど、アレは八重子には大き過ぎる。似たようなやつ買ってくっから、それで我慢しろよな」


「うん! ありがと、にーちゃん!」


 八重子は再び、彼の手を握った。


「ふふ、ごほーび」


 そう言って、上機嫌に手をブラブラさせた。彼は、そんな気紛れな彼女を見下ろしながら苦々しく笑いを溢した。



 戦火に焼かれた両親が遺した一軒家は、二人暮らしには広すぎる。八重子は、下校後から兄が仕事から帰って来るまでの時間が嫌いだった。家がやけに広く、うら淋しい感じがするからだ。


「遅い!」


「すまん。仕事長引いた」


 玄関まで駆けて来た八重子は、腰に手を当てて怒鳴った。兄をキッと睨み上げる。すまなさそうに笑う彼の口端は、腫れていた。下唇も切れて、血が滲んでいる。鼻血を拭った跡もあった。


「ひやとい?」


「おうよ。兄ちゃん頑張ったんだから、そんな顔しないでくれ」


 そう言うと、両手を広げた。


「ご褒美は? 八重子」


 神仏に祈るような彼の声を、彼女は腕を組んで鼻であしらった。そして、トコトコと居間の方に戻る。背後から失笑する兄の声が聞こえて来た。


 何時ものように、兄妹は台所に並ぶ。

 八重子は明日の下拵(したごしら)えをしながら、「ねぇねぇ」と愉しそうに言った。まだ幼さの残る花貌(かぼう)には意地悪な笑みが浮かんでいる。

 彼女に淋しい思いをさせた罪は重いのだ、と示さなければいけないのである。  


「“インラン”ってなあに? にーちゃんは“ダンショー”なの?」


 言葉の意味は分からないし、興味もない。ただ、兄を困らせたかっただけである。ほんのお仕置きのつもりだったのだ。彼女は無垢な振りをして、ケラケラと笑った。

 隣の兄は、手から皿を滑り落した。ガチャンと、食器が大きな音を立てる。その時、八重子は彼の横顔を見て、しまった! と思い、ふと笑みを消した。


「そんなことを言ってくる奴は、無視しとけ。虐められたら兄ちゃんを呼べ。分かったか?」


「うん」


 そのあとは、居たたまれない空気が漂った。兄は寝る時間になっても、蕭然(しょうぜん)としていた。

 これはいかん、と消灯前に八重子はランドセルから一枚の画用紙を引っ張り出した。今日の図工の時間に、描いたものである。クレパスで描いた二人の兄妹が、手を繋いでいる絵だ。


「はい、コレ。いつものごほーび」


「八重子が描いたのか?」


「うん」


「くれんのか?」


「うん」


 彼は感涙に堪えない様子でそれを受け取ると、ギュッと八重子を抱きしめた。「上手だな」と、言いながら穴が開くほど見つめるので、八重子はもじもじとした。

 やがて、それを丁寧に四つ折りにすると、財布の中に入れる。

 「それを描くときに、隣りの席のゲン君に言われたんだよ」と、教えてあげようと思った、だが、止めておいた。代わりに、今度は無性に、彼をここまで追い詰めた言葉の意味が気になった。

 電気を消すと、ピッタリとくっつけた二つの敷布団に滑り込む。布団を被ってギュッと目を閉じるが、何とも形容しがたいバツの悪さがムクムクと沸き上がる。


「にーちゃん」


「ん?」


 八重子は自分の布団を摺り抜けると、兄の布団に潜り込む。


「いじわるして、ごめんね。やえこのこと、嫌いになった?」


「なるわけないだろ? おいで」


 兄は優しくそう言うと、彼女の身躯を抱き寄せる。そして、前髪を撫で上げるとまだ柔らかい産毛の残る額にキスを落とした。

 八重子は小さな掌で兄の顔を包み込むと、口元の傷を舐め上げる。舌先の味蕾に、じんわりと金臭い体液の味が染み渡った。


「にーちゃん、脱いで。ごほーび」


 肌着を脱がすと、一際大きな傷に唇を当てがった。爛れた傷口が、ぬらぬらと誘っているようだ。これは出来て間もない、真新しい、火傷だった。

 そのまま唇を肌に這わせ、傷を見つけたら舌を当てる。その度に、屈強な体が小さく跳ね上がる。その様子が酷く扇情的で、彼女の心髄を疼かせるのだ。

 八重子は舌を這わせながら慣れた足つきで、股を扱き上げた。そこは、時には存在感を感じさせないほど柔く、また、時にはグロテスクなほどに熱を帯びて硬くなる。今晩は、予期していた通り、後者である。


「ばッ! そこはダメだって、八重子!!」


 お尻に火が付いたように体を反り返らせると、彼は八重子を突き飛ばした。そして、慌てて反対側を向くと、掛け布団を抱きかかえる。

 その狼狽っぷりが彼女にとっては面白可笑しく、腹を抱えてけたけたと笑った。


「ごめん。怒ったぁ?」


 一頻(ひとしき)り笑い転げた後、八重子はここで申し訳程度に謝る。ここまでが、いつもの流れだ。


「怒ってない。でも、こういう事してるの、他の人に言ったら怒る」


「たじまさんにも?」


「ダメだ」


「たじまさん、やえこたちが仲良しって知ってるよ?」


「……それでもダメ。分かったな」


「はあい」


 もちろん、もうすぐ十(とお)を超える八重子には、モノの分別はついている。先日の件も、“仲良し”な所をひけらかしたかったのだ。と


「ギュってしてよぅ」


「八重子がしろよ」


 ペタッと背中にしがみ付いた。肌同士が触れ合う箇所に、じわじわと汗が広がる。


「ふふっ、怒ってる」


「そんなんでいちいち、兄ちゃんは怒らねーよ」


 そう言ってギュッと手を握る。人差し指、中指、薬指、の第一関節に擦り傷。八重子は瘡蓋(かさぶた)を舐めとりたいのを堪え、握り返した。


「愛してるからな」


 その言葉に、八重子は人知れずにんまりと笑うと、瞳を閉じた。



「また、ひやといぃ!?」


 済まなさそうに平謝りをする兄に、八重子は膨れっ面で責め立てた。


「すまん。八重子の誕生日のために、兄ちゃん頑張るからさ。早く寝るんだぞ」


 癇癪でも起こしてみようか、などと言う考えが一瞬芽生える。しかし、ふといいことを思いついた八重子は、引き下がることにした。


「じゃあ抱っこ」


 そう言うと、彼の胴回りに手を回し、抱き着いた。そして、分厚い筋肉がごつごつと顔に当たるのにも構わず、服で涙を拭う。


「やえこは、にーちゃんが思ってるよりまぁまぁ大人だからね」


「そうだな」


 ちっともそうは思っていなさそうな返事に、八重子は不服だった。

 そして、下腹部に当たるナニカが、硬度と熱を帯びてきたところで引き剥がされる。


「行ってくる」


 逃げるように、兄は仕事に向かった。時刻は二十三時を回っていた。

 兄を見送る振りをすると、寝間着の上から羽織を着て後をつけた。春の生暖かい風が、頬を抜ける。月がやけに高く、大きく感じる。背徳感と緊張、好奇心と高揚感に胸がバクバクと高鳴った。

 兄の姿が消えたのは、防空壕であった。専ら、戦争が終わってしまった今では小学生の秘密基地や遊び場として使われている。

 入口から、ゆらゆらと光が漏れていた。くぐもった声も聞こえる。彼の所在は、あそこで間違いなさそうだった。


「――さま、差し出がましいお願いなのですが。傷をつけるのは顔以外にして頂きたく存じます」


「ふむ」


 男の方は、亡くなった父親に声がよく似ていた。

 八重子は、人工灯に集まる夜虫のように引き寄せられる。入口のところで、息を潜め、耳を傾けた。これから面白いことが起こる、という予感に胸を弾ませた。


「妹が学校で……――」


 その先は、声が籠ったようで良く聞こえなかった。しかし、自分のことを話していることに気付いた八重子は、身を乗り出す。そして、吃驚仰天(びっくりぎょうてん)した。

 ちょうど兄はパンツまで脱いでいるところで、素っ裸だったのである。一方、父親くらいの男は、この場所が似つかわしくないほど綺麗な、余所行きの格好をしていた。カーキの羽織は、特に高そうに見える。

 四つん這いになる兄を見下ろしながら、片微笑んでいた。横顔の輪郭が、ちょうど今宵の月のように美しかった。これまた高価そうな煙管(きせる)を片手に、ふうっと白い吐息をつく。


「ああ、病気がちの八重子ちゃん。看病と治療費が大変だろう」


「お陰様で、何とか」

 

 はて? と彼女は首を傾げた。小さなころから、阿呆は風邪を引かないと揶揄われていた。兄も一緒になって笑っていたではないか、と。

 ちょうどその時、男は革靴で彼の臀部を踏みつけた。そして、煙管の灰を背中に落としたのである。

 叫び声は無かったが、筆舌に尽くしがたい甘美な快楽と苦痛の織り交ざった吐息が聞こえる。地に着けた、彼の大きな両手がぎゅうっと強く握られ拳を作った。


「ここは、いいんだよな?」


「……は、い」


「バッターよりマシだろう」


「それは……勿論です」


 兄、であるはずの男は汗で体を滑らせながら、引き攣った笑い声をあげる。


「自分で濡らせ」


「はい」


 兄が中指と人差し指に唾液を垂らし、男が脱ぎ始めたところで、八重子は具合が悪くなった。そして、逃げるようにその場を離れる。

 

『やえこは、にーちゃんが思ってるよりまぁまぁ大人だからね』


 この言葉がこんな形で返ってこようとは、八重子は思ってもみなかった。“まぁまぁ大人”だから、その先の展開が予想できたのだ。


「キモチワルイ」


 彼女は、あの煙管の男の横顔に似た月夜を見上げ、呟いた。

 布団に潜り込んでも、兄が帰宅しても、眠りに着けなかった。かと言って、兄と顔を合わせる気分にもならないのである。


「八重子」


 突然声を掛けられ、心臓が跳ねあがる。ジーっとこちらを見ているのが、何となくわかる。溜飲が上がってくるのを何とか下しながら、八重子は狸寝入りを続ける。


「……ごめんな」


 優しい声でそう言うと、いつものように前髪を掻き分け、額にキスを落とす。しかし、凄まじい悪寒に、全身の毛穴が逆立った。この時彼女は、敷布団を繋げて敷いたのを激しく後悔したのだった。

 兄が同じ布団の中に入ってくる。手を回され、引き寄せられる。あの煙管の匂いが、鼻腔を刺すような気がしてならなかった。

 八重子は耐えられなくなり、寝ぼけたふりをして突っ撥ねる。しかし、抵抗も空しく、手を掴まっれるとぎゅっと握られる。汚い! と叫んで振り解きたい衝動に駆られた。


「愛してるよ、八重子」


 ――やえこは、お前なんか大嫌い

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