第39話エールを冷やしたい
腕を骨折し、肋骨にひびが入ったというのに、元いた世界では考えられない魔術という存在に、
生活のレベルなどは、日本よりも百年も遅れているように思えるのに、魔術がその遅れをカバーしているのかもしれないと思った。
「地球の夢は、エリーネルの現実だな」
「なんだ?」
八穂がつぶやいたのを、隣を歩いて入る十矢が聞き返した。
「ここは不思議な世界だなと思って、あんな血だらけの十矢を見て、死んじゃうんじゃないかって、恐かったのに、こうして普通に歩いてるんだもの」
「そうだな、向こうでなら今頃は、面会謝絶でうなってたかもしれないな」
「十矢は馴れてるの?」
「まあな、飛ばされて落ちたのが、辺境って呼ばれる北部地方だったから、ワイバーンくらい、いつものことだった」
「そうなんだ」
「Bランク以上になると、向こうでは、定期的にワイバーン狩りがあるんだよ」
「そうなのか」
「戦い方を知ってりゃ、ドラゴンなんかよりは楽なんだけど、今回は油断してしまった」
「やっぱり、いるのね、ドラゴン」
八穂が首をすくめると、十矢が面白そうに笑った。
「見たいか?」
「いやあ、見てみたいような、見たくないような……」
「このあたりには、ドラゴンの住処になるような高い山はないから、近くにはいないだろうけどな」
「そうなの?」
「うん、ダンジョンの下層に生まれることはあるかもな」
「夢みたいだけど、現実なんだよねぇ」
「オレも来たばかりの頃は信じられなかったよ、八穂はまだ一年もいないんだから、変に思うのも当然だな」
家へ戻った十矢は、汚れを落としてくると行って、風呂へ直行した。
八穂が、キッチンに向かうと、すでに自分たちの居場所で休んでいたリクとイツが迎えてくれた。
「リクもイツも、今日はご苦労さま。疲れたでしょう」
新しい水を器に注いで、それぞれの皿にキャットフードを出してやった。
八穂は、大鷲のイツにキャットフードはどうなのかと心配したのだが、材料が、地球の鶏肉ということで、食べても問題はないようだった。
実際のところ、聖獣は生きるために食べる必要はないらしい。彼らにとって食べ物は、一種の嗜好品というところのようだった。
リクはカリカリ音を立てて噛んでいたし、イツは小さい粒を丸呑みしていた。
八穂は、ほっこりしながら、二匹のようすを眺めていた。
「いけない、いけない、夕食作らなきゃ」
何にしようかと、冷蔵庫を開けて考えた。
八穂は、エビルボアの肉の大きな塊を出すと、厚切りにした。
そして、
それに、キャベツの線切りと、きゅうりの浅漬け。わかめのお味噌汁。
夕ご飯の用意ができる頃、魔獣の後片付けも終わったのだろう、トルティンとラングが帰って来た。
彼らは外階段から上がって、自室で着替えて来たらしい。顔も洗ってサッパリしたようすで、キッチンに顔を出した。
「おかえりなさい、疲れたでしょ。十矢がお風呂から出たら夕ご飯にするね」
「ただいま、ヤホちゃん。腹減った」
ラングがテーブルに着くと、八穂の持っている皿をのぞき込んだ。
「今夜は、エビルボアのとんかつ」
「はじめて聞く」
トルティンが、八穂がテーブルに並べている皿を、不思議そうに見ていた。
「パンを細かく砕いた粉をつけて揚げてあるの」
「へえ、これもヤホちゃんの故郷の料理か?」
「うん、そう」
「ただいま」
ミーニャがキッチンに入って来た。相変わらずの美形だ。
スレンダーだがメリハリの効いたボディに、真っ赤なローブが似合っていた。
「おかえり、疲れたでしょう」
「さすがにね」
ミーニャはドスンと椅子に腰をおろすと、バッグから小瓶を十本ほど取り出してテーブルに並べた。
「おお エールだ!」
ラングが嬉しそうに叫んだ。
「きょうは大変だったから、たまにはね」
「三人とも、おかえり」
風呂から出たのだろう、タオルを首にかけた十矢が声をかけた。
「トーヤさん、大丈夫なんですか」
トルティンがテーブルの向こうから身を乗り出すと、十矢は軽く手を上げて答えた。
「おかげさまで、この通り。心配かけたな」
「お、エールか、なあミーニャ」
十矢がミーニャに言った。
「なんですか、トーヤさん」
「エール、冷やしてくれ」
「なんですって?」
「エール、冷えてるほうがうまいんだ。魔術で冷やして」
「えええ、そんなこと、やったことないわよ」
「頼むよ」
十矢が手を合わせる。
「魔術で冷やすなんて、聞いたことないぞ」
ラングが呆れたように笑った。
「いいから、やってみろよ」
「んー フリーズで凍らせればいい?」
「ダメ。凍らせたら飲めない」
「じゃ、どうすればいいのよ」
「ねね、それじゃ、これを凍らせてみて」
八穂が口をはさんだ。シンクの水を張った洗い桶を、指さしていた。
「桶の水を凍らせればいいの?」
「そう」
「わかったわ」
ミーニャは、左手のひらを上向けると、桶に向かって、スッと手を伸ばした。
「フリーズ!」
ミーニャが唱えた瞬間、彼女の指先からものすごいスピードで、青白いものが噴射され、桶の水がカチカチに凍りついた。
「すごい」
はじめて目の前で魔術を見た八穂は、目をまんまるにして拍手をした。
「ホントに凍るんだ」
八穂は感激したように、ミーニャを見ると、ミーニャはまんざらでもないような表情で、肩をすくめた。
「桶を破戒しなくて良かったわよ。攻撃しかしたことないんだから。で、これどうするの?」
「そうそう、十矢、はい、これ、この氷、砕いてね」
八穂は引き出しから、アイスピックを取り出すと、十矢に渡した。
「オレ?」
「当然、冷やしたいのは、十矢なんだから」
その後、カチカチの氷を割るのに一騒動あったあとで、割った氷の中にエールの瓶が無事に収まり、冷たく冷えたエールと、とんかつの夕食を楽しむことができたのだった。
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