勇者カナタの異世界美食録

円同収束

異世界美食録

 視界が開けるのを感じ、奏多は手帳を閉じた。

 眩しいばかりの光は徐々に輪郭を帯び、穏やかな風と共に頬をなでる。

 そっと手を伸ばすと、ざらついた幹が掌と握手を交わし、次第に慣れてきた目がその風景を写真のように大切にしまっていた。


 異世界召喚だ。


 眼前に広がる変わったジャングルを漠然と見て、奏多は思う。

 それはついさっき起きたばかりのまどろみの中で、その日の始まりに思いを馳せることと似ている感覚だった。


 奏多は高校の頃に異世界召喚された日本人だ。

 それも、一度や二度ではない。彼は召喚魔法の副作用が蓄積してなった異世界召喚に巻き込まれやすい体質によって、これまで何百もの世界を転々と旅してきた漂流勇者なのだ。

 奏多は度重なる召喚に巻き込まれ、その先々で問題に直面し、時には陰謀に巻き込まれながらもその全てを解決してきた。

 永い旅の過程で刻み付けられた『祝福』と『呪い』は数知れず、手に入れた『スキル』や『アーティファクト』もまた計り知れない。

 そんな彼は、一つの世界に留まる方法と、そして故郷に帰る道を探して、世界を巡っている。


 奏多がうとうとと幹の亀裂を指でなぞっていると、頭の中から声が響いてくる。


(奏多! ねえ! だいじょうぶ?)


 目を瞑ると、暗闇の中にひとりの人影が浮かび上がる。透き通った水晶の様な髪をたなびかせる、琥珀色の目をした少女。少女はまだあどけなさの抜けきらない視線にめいっぱいの心配を乗せて、奏多を見ている。


 女神モニア。旅の途中に次元の狭間で出会った人よりも高度な知性体。奏多の五感を共有する代わりに、転移先の世界について調べてくれる。誰よりも奏多のことを想ってくれる、頼もしい旅の仲間だ。


(うーん。もうちょっと休ませて......)

 時空酔いに体を慣らしながら、奏多は布団から出られない春の様な声をあげる。それを聴いて、モニアは(うごいてよぉ......)と駄々を漏らす。これではどちらが子供かも分からない。


(モニア。僕はどうしてこの世界に呼ばれたのだと思う?)

 すぐそばに召喚魔法の形跡がなく、奏多はジャングルの先の城下町を視て、モニアに聞く。


(聞かれると思って! モニちゃんもう調べちゃいました! この世界の言葉も分かったから、もうおはなしも通じるよ)

 脳裏でモニアがえっへん!と胸を張る。奏多が感謝の思いを向けると、彼女の口角がにへら、と緩んでゆく。


(えへへ......えっとね、お城で勇者召喚をしたみたい)

(何人呼ばれた?)

(ううん。儀式はしっぱいして、ちょっと時空がゆがんだの)

(それで僕が巻き込まれたのか)

(うん。奏多を呼んだぶんで時空のゆがみはもう治ってる)

(そっか。じゃあこの世界でやることは多くなさそうだな)


 奏多は人々から話を聞くために城下町へ向けて、転移魔法を唱える。彼の体質は転移の燃費を極限まで突き詰め、もはや歩くことよりも効率よく転移魔法で移動できるほどになっている。

 しかし、だからこそ奏多は、自分の足で歩いて人と言葉を交わしたいと思っていた。


 <>


 獣は、黄金の鬣を自らの魔力の流れにたなびかせていた。その足元には、獣に立ち向かった人々が満身創痍で横たわっており、今も呻き声をあげている。

 獣は蹄で土を蹴って、今にも王都へ向けて走ろうとしている。それを出来ないでいるのは、たった一人の冒険者が最後に立ち塞がっているからだった。


「あの魔力の帯さえなんとかできりゃあ......」

 獣の纏った魔力の鎧は強固だった。

 ヨハンは万策尽きて、その身一つで獣の前に立っている。

 騎士団は全滅、他の冒険者も残っていない。彼がそこに立つ理由は王都に守るべきものがあるからであり、最後の頼みの綱である勇者召喚の時間稼ぎに過ぎなかった。


 獣は苛立ちを隠さずに地を蹴るそぶりを激しくし、ヨハンは冷や汗を隠して魔剣を構える姿勢を強める。

(勇者はまだなのか......!)

 限界が近かった。獣と目を合わせた数秒の間は何分にも感じられ、そのなかでヨハンはもう何百回も助けを求めている。

 このはったりは長く持たない。彼は立つ前からもう負けており、それでもと心を震わせていた希望もすでに折れようとしている。


 獣が彼に割いているわずかばかりの警戒心を値踏みにかけた瞬間に、虚勢の期限が切れ、自分は命を失う。そして王都が壊滅する。

 彼は祈る。勇者でもなんでもいい。今この場にない全ての希望的な可能性を、奇跡を。


 彼の嘆きが肌に漏れたのか、それとも苛立ちが限界に達したのか。獣はとうとう地を蹴った。


 眼前に迫る獣にまさに魔剣の鋒が触れようとしたその瞬間、ヨハンは時が止まったと思った。記憶が逆流してくる爆発的な感情の頂で、彼は死を悟った。その今際に映ったものは、家族の姿だった。


「助け」









「––これがこの事件の元凶か」


 気がつくとヨハンは、自分の半分ほどの年端も行かぬ少年に抱えられていた。何が起きたのかと目を泳がせると、その少年と目が合う。彼はまるで全てをわかっているかの様に微笑んだ。


「間に合ってよかった。ありがとうございます。信じて、耐えてくれて」

 そう言うと少年は、ヨハンを木に寄りかからせる様に下ろした。そしてどこからともなく白銀の剣を取り出す。

 それがただの魔剣でないことを、刀身に纏う気迫が語っている。


 その立ち姿は、あまりにも完成され過ぎていた。

 経験が少ないであろう十代半ばの子供が纏うには些かちぐはぐな雰囲気。

 所作の一つ一つが、この世の全ての争いをくぐり抜けてきた猛者よりも洗練された武の頂を思わせる。

 そしてその小さな背には多くを抱え、数多を諦めてきたかの様な残酷な運命が染みついている。不自然に大人びた様子もその違和感をいっそう目立たせる。


 不調和。

 ヨハンは、そう思った。


 魔力の帯に攻撃を弾かれる。ヨハンはそう伝えようと思っていたが、口をつぐんだ。自分が役立てることなど何もないと思ってしまったからだ。


 獣は少年を見据えている。獲物を奪われた怒りで、さっきまでよりも腹立たしげに唸り声をあげる。


「うん。猪だね。でもトラックくらい大きいし、ウロボロスの呪いが憑いている」

 少年が何者かに返事をする。言葉の意味は分かるのに、聞いたことのない概念がヨハンの意識をすり抜ける。


 獣は少年の異質さを感じてなお、全身の黄金の毛を逆立てて威嚇する。魔力の鎧は螺旋を描き、最も効率的に強敵を打ち破ろうという姿をしていた。

 数秒前の仕切り直し。しかしその緊張感は、全く逆の方向に冴え渡っている。

 地を蹴り獣が駆けてくる。それは少年の後ろにいるヨハンにとって二度目の景色だ。それなのに、恐怖がない。


「大丈夫。力で解決できる問題は、簡単だ」


 ヨハンはその一部始終をまるで、芸術品を見るときの様に眺めていた。

 恐怖も現実感もなく、ただ端正な極地をなぞり体験しているような、恍惚とした刹那。


「––––––『レゾナンス』」


 少年が白銀の剣を振り抜くと、音とも風ともつかぬ振動が空気を揺らし、後には真っ二つになって息絶えた獣が残った。

 騎士団と冒険者が、一丸となって歯が立たなかった厄災が、終わった。

 ヨハンは、自分が息を忘れていたことを思い出した。


「勇者召喚は失敗じゃなかったって、伝えておいて下さい」


 少年はヨハンにそう言った。全ての後始末がヨハンの背にのしかかったわけだが、一度は死を覚悟した彼にとってそれはさほど重くはなかった。

 だがそれよりも恩人に何も出来ないことの方が、彼には堪えた。


「待ってくれ! せめて名前だけでも......君は、何者だ?」


 少年は困った顔をした後、不器用な微笑みを浮かべて言う。


「通りすがりの漂流者、で十分かな......?」


 ヨハンにはその様子が、すぐに消えてしまいそうなほど儚いものに見え、それ以上何かを聞くことができなかった。

 高度な転移魔法の詠唱とともに、少年は嘘の様に消え去った。

 ヨハンの視界の中、獣の亡骸だけが、あの少年がいたことを証明している。


 <>


「速報だよー! たった今魔獣が討伐されたって通達が入ったよー!」


 城下町はその話題で持ちきりだった。酒場は活気を取り戻し、通りは談笑する人だかりで溢れている。まるでそれ以外の危機など知らないかの様だ。


 場末を歩く奏多は、その様子を嬉しそうに眺めていた。数刻前に初めてここに訪れたときは、それこそ地球最後の日を思わせる惨憺さだった。無意味に転移に巻き込まれる体質だからこそ、せめて勇者らしい行いをすることで、その世界に来た意味が作れると奏多は思っていた。


(イノシシおっきかったね〜)

(モニア。僕はこの世界に後どれくらいの時間いられるかな?)


 まだこの世界に来てから、二時間と経っていない。余った時間を想像した奏多は、通りをキョロキョロと見渡しながら、そわそわとし始める。


(三時間くらいはだいじょうぶだと思うよ?)


 三時間、それは一つの世界にいられる時間としては恐ろしく短いが、奏多にとっては十分な長さだった。

 脳裏のモニアと目が合う。その表情を見た奏多は、自分も同じ顔をしていることを分かっていた。

 思いは一つ。呼吸も一つ。彼らは口を揃えて叫んだ。


「(ご飯だ!!!」)


 奏多は、きっと誰よりもたくさんの異世界を度している。だからこそ、異世界召喚の楽しみ方を知っているのだ。

 異世界召喚の最も純粋な楽しみは、その世界特有の文化に触れること。

 その世界独自の自然法則が生み出した風景に、そこで暮らす生命、それらとの交流を経て学ぶこと。

 そして、短時間で触れられてもっとも風土を感じられる文化は、そう、食事なのである。


 普段と違う空気に囲まれて、初めてのものを食べる喜び。それをただの旅行でなく異世界転移で行えるのは奏多の特権とも言える。


 感覚共有で奏多と同じものを味わうモニアは、期待に唾液を滲ませる。


(ねえ! あのお店とかどうかなあ? ああでもあっちのお店もいいなあ......!)

(迷ってると時間がなくなっちゃうぞ)

(奏多には言われたくない!)


 翻訳にかけても想像のつかないメニューや素材の列を行ったり来たりしながら、奏多は道を歩く。店の中に目をやると、この祭り騒ぎのおかげもあってか、場末とは思えないほどの賑わいで溢れていた。


「食事ってものはやっぱり静かなものじゃないと」


 言葉とは裏腹に、奏多がその賑わいを好ましく思っていることをモニアは気づいていた。

 活気から逃げる様に歩いた先で、奏多は一つの酒場を見つける。

 いかにも場末の酒場という様相で、中心街にあった冒険者ギルドの酒場とは比べようがないほどに寂れていた。

 だが、その地元の憩いの場という雰囲気が、奏多には絶え難く魅力的に映ったのだった。


「今日はどんな料理に巡り合えるのかな」


 期待をごくりと喉に通して、奏多は酒場のスイングドアを通り抜ける。

 バタンと空気の匂いが変わる音がした。


 <>


 酒場『星の息吹』

 城下町の最南端の一角に居を構えたそれは、客入りも少なくほとんどマスターの趣味として成り立っていた。裏に広がる畑の方が本業とでもいった様子で、中に入ると常連のオヤジが一人、マスターの代わりに番をしてくつろいでいる。

 それでも商売が続くのは、畑で取れる野菜とマスターの評判があってのことだった。


 背後から聞こえるスイングドアの振り子の音を感じながら、奏多は酒場の空気を吸い込む。木と少しの埃の匂い。それは日本で暮らしていたころの記憶を呼び覚まして、奏多は懐かしさをぐっと堪えながらカウンターの隅の席に着いた。


(だれもいないね)

(もしかして今日は休みだったのかな......)


 運悪く誰もいない時間に来てしまった。営業時間などが奏多の頭を過ぎったが、バックヤードから近づいてくる足音によってそれはすぐに杞憂だと分かる。


「悪い、待たせたな!」


 熊の様な大男が、きさくに、しかし酒場中に響く声を轟かせる。


「いえ、ちょうど今きたばかりなので」


 奏多の返事に大男は目を丸くする。常連客以外が来ることが珍しかったからだ。


「ここは酒場だぞ。ガキの来る場所じゃない」

「これでも十六ですから......立派な大人です」


 返事に見栄を張るものの、この世界の成人年齢についてモニアに尋ねながらだったから不自然な間が空いた。モニアの声は奏多意外には聞こえない。


「じゃあ酒は飲めるんだな!」

「いえ......えと、あんまり、好きじゃない、です」


 マスターの豪快な誘いに硬直し、奏多は目を泳がす。飲むことはできる。『祝福』も『スキル』も、奏多に完全な毒耐性を与えており、正常でない状態にすることを許さない。だが、故郷で培った日本人の道徳感が、お酒は二十歳になってから、というキャッチコピーをこだまさせる。

 奏多は迷った時、その違和感を信じることが自分をまっすぐ貫ける方法だと思っていた。


 結局、グラスに注がれた一杯のミルクをすすり、奏多はマスターからその日作れる料理について聞いていた。


 やはりというか、魔法などがあっても地球と似た世界だ。収斂的進化によって、文化のところどころに地球の面影がある。

 似ている、と思えば違うところばかりに目が行くものだが、奏多は違うものに触れようという思いに阻まれて、似ているものばかりに目が吸い込まれる。


(何を食べられるのか楽しみだな〜。人がいる世界なんてひさしぶりだもんね、奏多!)

(うん。そうだね)


 マスターは奏多を眺めていた。まさか頭の中で女神と交信をしているなどとは思わず、人目見ていた時から気になっていたことを尋ねる。


「しかし、珍しい服装だな。どこから来たのか?」

「誰も知らない遠くから旅をしていて、これは故郷の服なんです」


 聞かれ慣れていたその言葉に、言い慣れている返事をする。それなのに今回、奏多はその言葉を吐き出すことに抵抗を感じた。


 日本の高校の制服。奏多が最初に召喚されていたときに着ていた服だ。もちろん、オリジナルはすでに失われており、今着ているものはアーティファクトの姿を全く同じ形に変更したものだった。


「どんな場所なんだ? 旅人なんて滅多に来ないもんでな。よかったら教えてくれ」


 奏多は故郷を愛していた。だから故郷の話をするのも大好きで、今回も意気揚々に話し始めようとする。


「僕の故郷は––––––」


 息が詰まった。そんなことはこれまで一度たりともなかったというのに。


(ねえ......奏多、だいじょうぶ?)


 奏多は鼻をすすり、息を整えながら、目頭から流れる滴を掌で受け止める。

 奏多は、自分が抱えている気持ちが、喜びではなかったことに初めて気づいた。


 <>


 全ての仕事を終えたヨハンは、城下町の最南端に来ていた。

 そこは彼の生まれ故郷であったが、家族と喧嘩をして家出し、その後は中心街のギルドで冒険者をしていたために、その土を踏むのは数年振りであった。


 だが、今日そこに帰ってきたことはそれとは関係がなかった。

 自分を助けてくれた少年––奏多が去り際に詠唱した転移魔法。その行き先がこの地を指し示しているとわかったからだ。

 それはモニアの翻訳が行き過ぎた結果だったが、とにかくヨハンは恩人の手がかりを追って、故郷の敷居を跨いだ。


 背には報酬の一部としてもらったあの猪の肉がある。王国の騎士団も力自慢の冒険者も敵わなかったあの肉体だ。引き締まった筋肉には大自然の恵みが積もった旨みが乗っていることだろう。


 ヨハンは道ゆく人々に、変わった服装の少年を見なかったか尋ねるが、曖昧な返事しか返されない。自分でも思い出してみようとするが、まるで記憶に霧がかかった様に、はっきりと思い出すことができない。


 全ては奏多にかけられた『呪い』の効果であるのだが、それは相反する『祝福』などと複雑に絡まり合い、完全には効果を発揮していない。


 荷物を背負う縄が、ヨハンの肩に食い込んで痛みを発する。


 一度荷物を下ろそうと思い、実家に向かうとした時だった。視界にも入れたくなかった実家の、酒場側のスイングドア越し––『星の息吹』のカウンターに彼が見えた。


 考える間もなく、体が動く。

 ヨハンは、それまで感じていた気まずさや懐かしさを全て忘れて実家のドアを越えた。


 <>


 故郷について聞かれた少年が泣き出した。

 マスターは自分が何か威圧したのではないかと考えるが、そうは思えなかった。最初から彼は気を張り過ぎている様に見えた。まるで身の丈に合わない大役を負わされてしまったものの様だ。


 けむくじゃらの手で彼をさすろうとするが、その手を見て体が強張った。今更父親みたいな真似。


 ドアが弾かれる音がして、伸ばした手を引っ込める。


「親父......何やってるんだよ!?」


 喧嘩別れして数年、妻が死んでも顔を出さなかったヨハンがそこに立っている。

 誤解だ。数年ぶりの父子の再会で、最初に思ったことはそれだった。


 積もる話も多くあったが、話題の中心はこの少年だった。

 騎士団も冒険者も壊滅したなか、颯爽と現れた勇者奏多。埃を被っていない英雄譚は、生命の光を強く主張して語られる。

 隠すこともなくなったのか、それとも涙の言い訳か、奏多も積極的に話に参加する。異世界を転々としながら、故郷を探していること。見てきた世界の数々、不思議な出来事を語る彼は年相応に生き生きとしていた。


「しかし、なんだ。珍しいものが食べたくてここに来たのか......」


 生憎ここには珍しいものなどない。そうマスターが言おうとしたとき、ヨハンが背中に抱えた肉を見せる。


「ここに珍しい食材がひとつ......!」


 それを見たマスターに電撃が走る。せっかく命の恩人が来ているのだ。二人はできる限りのもてなしをしたいと思っていた。それの後押しに奏多が一言。


「この世界の食べ物、なんにも知りません!」


 異世界から来た奏多にとって、全てのものは未知のものだ。地球の面影を重ねようともそれには知らない顔があり、奏多はそれを楽しみにしているのだった。

 彼らは顔を合わせて、互いの掌を叩いた。意見が一致した瞬間である。


「決まりだ! 久々に鍋を作るぞ!」


 奏多の語る異世界の料理はどれも奇抜で興味深いものだった。だが、今の奏多に必要なのは、家庭料理なのだとマスターは思った。


「ヨハン! 積もる話は全部後だ、畑行っていいやつ取ってこい!」


「わかった!」


『星の息吹』に、数年ぶりの火が灯る。


 奏多はそれに、異世界に来てから感じることのなかった安心感を覚える。

 故郷から遠く離れた場所にも人が息づいている。それががどれほど素晴らしいことなのかと気付くと、凝り固まった頭が解れる様な気がした。

 それを眺めていたモニアは、少し寂しそうに微笑んだ。


 <>


 カウンターから円卓に移動した三人は、ぐつぐつと煮える鍋を取り囲んでいる。


 その鍋の中は、まるで一つの世界だった。

 マスターが中の状態を確認し、逸る気持ちを抑えられない二人を目で牽制する。

 まだだ。奏多はそれがまるで永遠の様に感じられ、湧き立つあぶくから目が離せない。

 マスターが汁をすすり頷く。ヨハンの目に灯った光を、奏多は見逃さなかった。

 その瞬間、奏多の瞳に映る鍋が、鮮やかに主張を始める。


「完成だ! 名付けて『〜故郷の息吹鍋〜』」


 名前の語感など関係が無かった。今ここに鍋がある、それそのものが重要な命題なのだ。


「「「(いただきます!」」」)


 鍋の中に所狭しと埋まっている具を、選ばずに取って口に運んだ。

 野菜の甘みが口の中いっぱいに広がり、奏多はハフハフと熱を口から逃す。


(おいし〜い!! 奏多! 早くもっと食べようよ!)


 五感を共有するモニアが歓声を上げる。奏多は彼女の嬉しそうな心に触れると、自分一人で食べる時よりも幸せな気分になれるのだ。


 ゴロゴロと転がる大きな具材の中から、あの魔獣の肉を取り出した。呪われたものは食材にはならないと思っていたものだが、調理過程で呪いが変質して無害化されている。いや、それどころか旨そうだと奏多は思った。


「............!」


 堪えきれずに頬張ると、淡白な肉から鍋全体の旨みが溢れ出てくる。噛むたびに肉汁とスープが舌をとろかし、懲りずに熱を逃がしながらも、次の一口へと手が伸びる。


(おいしいね!)

「うん......美味い!」


 奏多は口の中から味がしなくなる状態を寂しいと思った。肉を、野菜を、スープを、口の中に運ぶたびにその気持ちは大きくなり、そして幸福感も大きくなってゆくのを実感する。


 魔獣の肉など初めて触れる素材だったろうに、マスターは完璧に鍋の中を見渡し、調和を完成させていた。


「この甘味の強い根菜はなんですか?」

「うまいだろ。それはうちで採れたマンドレイクだ」

(マンドレイク!?)


 モニアが驚いた声を上げる。無理もない。それは呪いを蓄積して人の命を奪う悲鳴を上げる植物という意味だ。しかし、この実態はそれとは大きく異なっている。


「呪いはどうしたんですか?」

「俺が愛情込めて育ててるんだから、呪いなんて溜まるかよ!」

「土や瘴気に気をつけて育てれば、安全な野菜に育つんだ。親父、恩人に適当なことを吹き込むなよ」


 ヨハンが呆れながら補足する。その二人の様子に、この鍋がおいしい理由がこれ以上なくこもっている。


「この変わった形の野菜は?」

「それはフラクタだ。面白い形をしてるだろ? どこまで拡大しても同じ形をしているんだぜ。もちろん俺の畑で採った!」

「主張が激しいぞ親父! 奏多も。頷くんじゃない」


 奏多は食べる手を止めずに、二人の様子を眺める。脳裏ではモニアがおいしいおいしいと幸せそうに味わっており、奏多の目に再び涙が溢れてくる。


 故郷の思い出が、重なる。女手一つで育ててくれた母の、具だくさんのスープを頬張る幼少の記憶。

 泣いているというのに、何故だかとても満たされている様だった。


「奏多ごめん。大丈夫か?」


 ヨハンが心配そうに背中を撫でる。初めて会った時の様な心の距離は、もう感じられない。

 父や兄妹がいたら、もしかしたらこんな思い出があったのかもしれないと、奏多は思う。


「いえ、すごく幸せです。おいしいです......!」


 三人の食べる手は止まらず、ついには鍋にはスープの海だけが残った。キラキラと光る油の粒が、水面をまるで星空の様に演出する。


 このままスープを飲んで終わり。二人はもうすでに食べ終わったつもりで片付けを始めようとしている。

 奏多はそれを見て、名残惜しさに気付いた。そして二人の手を止めて、立ち上がる。

 二人は奏多のそのただごとではない様子に気付いて、言葉を待つ。

 目と目を通じ合わせて、頷き、奏多は口を開いた。


「......僕の故郷には、鍋のシメっていう文化があるんです」


 奏多は何もない空間から、炊飯器を取り出した。蓋を開けるとそこから白い湯気が立ち上り、艶々の白米が姿を現す。もちろん全て、奏多が異世界の道中で作ったものだ。


「––まだ、鍋は終わっていません!」


「「「(うおおおおお!!!」」」)


 四人の声が共鳴する。

 奏多の故郷と異世界が初めて異文化交流を果たした。その、産声だった。


 <>


(おいしかったね〜)


 膨らんだ腹を抑えて椅子の背にもたれかかる三人は、恍惚と満足感に浸っている。


(スープがあれだけおいしいんだから、雑炊が旨くないわけないじゃないか......)


 奏多はその場を動きたくなかった。それは他の二人も同じだろう。しかし、時間は刻一刻と迫っている。


(......モニア)

(どうしたの?)

(はじめてなんだ。この世界にもっといたいって思ってる)

(うん)

(でも、僕らはその方法を持たない。こんなに........................悔しいんだね)

(奏多......)


 奏多はこれまで異世界に興味を持とうとしなかった。奏多が一つの世界にいられる時間は数時間か良くて半日。それすらも、平均を取るとだんだん短くなっている。


 思い入れを持つ方が損だ。大切なのは故郷だけでいい。奏多がモニアに出会う前の口癖だった。


 モニアは女神とはいえ、そんな奏多にかける言葉が見つからない。一蓮托生の仲、奏多の力不足はモニアにとっても歯痒いことだった。自分では奏多の役に立たないという悲しさが、何よりも悔しかった。


「......さて。そろそろ僕は行きます。この世界の通貨は持っていないので何か価値のあるもので払わせてください」


 奏多が立ち上がると、満腹に溺れる二人は現実に引き戻される。


「この国の恩人、いや息子の命の恩人だ。金はいらない。それに、いろいろな話も聞いたしコメも食わせてもらったからな。ガキがそんなこと気にするな」

「いや、あれはそういうものとは違って......」

「奏多のおかげで俺は生きてこの国に帰れたんだ。それに、この家に帰れたのはお前のおかげだ。遠慮なんかしないでくれ」

「そんな。ヨハンさんは僕がいなくてもきっと」

「喧嘩して家を飛び出して帰り方を迷っているうちに、お袋が死んだ知らせが入って、俺には帰り道が見えなくなっていた。奏多が助けてくれり寸前に、俺に見えていたのは家族だった。恋人でも生き延びることでもなく、この親父だったんだよ。奏多のおかげで、俺はこれから悔いなく生きられるんだ」


 ヨハンは奏多の手を取った。暖かい。奏多より少し長く生きている、未来ある力強い手だった。


「改めて言わせてくれ、ありがとう! 奏多は俺の勇者だ!」


(奏多......素直になっていいんだよ)


 モニアにそっと背中を押される。奏多は少しだけ勇気を出して、心に絡まったものを振り切った。


「わかりました。でもせめて、僕の故郷の......いえ、母の言葉を送らせてください」


 ずっと面影を追い続けていた。しかしそれは、最初から奏多の中にあった。使い古された言葉には、いつも愛着がこもっているものだ。奏多はその熱を思い出す。


「料理を美味しくするのは愛情だって」

「そんなこと、最初から分かってたっての」


 マスターはニヤリと笑い、ヨハンを見る。その様子が癪に障ったのか、ヨハンは恥ずかしそうに父親をど突く。


「そういうことにしてやるよ......」


 がはは、とマスターが笑った。


 <>


 奏多は自らの足で『星の息吹』を後にする。


 後ろ髪を引かれる思いで、一歩、また一歩と距離は離れてゆく。川が見えたあたりで、奏多を激励する声は聞こえなくなる。

 それでも、「きっと帰れる」という一言は、強く奏多の心に響いてまだ残っている。


 奏多はまた、ひとりで立っていた。

 モニアは、まだ奏多に声をかけることができなかった。


(いつからだろう。いろいろなことがどうでもよくなっていたのは)


 奏多は、そんなモニアに気付いていた。


(行こうか。次の世界へ)


 奏多は存在そのものの力を抜く。

 視界が欠けてゆく。世界が、欠けてゆく。

 存在を世界に繋ぎ止める作用が全て失われる。全てが黒く塗り変わり、世界と世界の狭間に奏多の体は落ちてゆく。

 数多の『祝福』と『スキル』に守られているからこそ、奏多は世界との繋がりを失ってなお、存在を続けられる。


 上も下も、音も光も、残像の残す残像すらも原型を失って消えてゆく。

 奏多の五感が失われ、感覚を共有するモニアは、自分の中から奏多が離れてゆく感覚を代わりに受け止める。

 あらゆるものが関連せず、存在が離散を続ける世界の外側。次元の狭間。

 モニアの前に、奏多が帰ってくる。


 彼らはまた、ふたりで立っていた。


 世界に巻き込まれるまでの、二人だけの世界。

 奏多は眼前で瞼を赤く腫らす少女の肩に手を乗せる。


「今回もありがとう。助かったよ」


 涙目のモニアは、首を横に振った。


「わたし、奏多の役に立てないんだ」


 次元の狭間の暗闇の中で、ずっと一人ぼっちだったモニアを救ったのは奏多だった。だから、モニアは奏多の味方でありたかった。しかし、今回の旅で、自分がついていながらも奏多が孤独に蝕まれていたことを知った。モニアは、自分の無力感に耐えられなくなった。


 奏多は、モニアの真似をする様に首を振った。


「モニアがいるから、僕はここまでこられたんだ......一人だったら、もっと昔に心がボロボロになっている」


 次元の狭間でモニアを見つけたとき、救われたのは奏多の方でもあるのだ。

 最初の召喚のときから、奏多は他者の都合に振り回されていた。ずっと見知らぬ世界のために戦いを強いられ、時には酷く利己的な命令で召喚されることすらあった。

 他人のために力を奮い、そして真っ暗な虚無に帰ることの繰り返し。

 自分の大切なものを守ろうと思っても、そんなものは一つも思い浮かばない。


 モニアは、そんな奏多を喜んで受け入れてくれたのだ。

 痛いときはいたいと言って、煩いときはうるさいと言って、美味しいときはおいしいと言って、世界を、眩しいと言ってくれた。

 モニアと出会って、奏多の世界は輪郭を取り戻した。

 故郷を探す勇気も、世界を救う動機も、モニアがいたから湧いてきたものだった。


「わたしだって、奏多がいたから」

「うん。だから、これからもよろしくね。モニア」


 奏多は、憑物が落ちたような純粋な笑顔をモニアに向ける。

 それはモニアが今までみたことのない、真っ直ぐな表情だった。


「............うんっ!」


 頷いた彼女の髪が、大きく揺れる。それは奏多の手を撫でる様にもとの場所に戻ってゆく。

 これまでも辛くなかったのは、きっとモニアがいたからなのだろうと奏多は思う。

 異世界召喚に楽しみを見出そうとしたきっかけも、彼女が世界を感じて、震わせる心があったからだ。


「さて、次の世界に行く前に、今日の想い出をまとめようか」


 奏多は懐から手帳を出す。次元の狭間でもその存在を壊さないそれは、奏多の持つ『アーティファクト』の一つである。

 表紙には『異世界美食録』と書かれており、中にはそれまでが二人が味わってきた異世界料理とその想い出が記されている。


 それがまた一ページ。進もうとしている。


「次の世界の食べ物も楽しみだね」

「いつか、奏多の故郷の料理も食べようね!」


 これは、長い永い帰路の物語。


 遥か彼方に想いを馳せて、奏多は手帳を開いた。

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