終章

日輪荘に引っ越してきてから、早いことに一か月と少しが過ぎた。

春先に大好きな母を亡くして、生きるということへの気力を失っていた。心のどこかで自分が一番不幸なんだと思っていた節がある。

でもそうじゃない。人はみな、何かしらの傷を負っている。小さいものでも、大きいものでも。

日輪荘に来て、ここの住人たちと触れ合っていく過程で、僕はそれを学んだ。

夏目さんに「一緒にここの住人の傷を癒して行って欲しい」と誘われて、それに尽力してきた。

最初は乗り気じゃなかったけれど、母が僕に教えてくれた「人に優しく」という教えを裏切りたくなかった。でも、僕はそんな善人ではないと思う。

そんなことを考えていると、部屋の扉がノックされた。開けるとそこには岬さんが立っている。

「日向くん、お父さんから電話よ」

「父さんから……?」

部屋を出て廊下を進み、保留になったままの共用電話の受話器を取った。

「もしもし」

「おお、海斗か。久々だな、日輪荘はどうだ?」

「まあ、なんとかやってるよ」

「そうか。今日はなにか予定はあるのか?」

「ないけど、どうして?」

「一緒に母さんのお墓参りに行かないか」

一瞬考えたが、断る理由もなかった。何か僕に話があるのだろう。これはそんな時の語調だ。

短く了承すると、父から集合場所と時間を伝えられる。それをメモして、電話を切った。

母の墓はここから歩いて二十分もかからない霊園にある。部屋に戻って支度を済ませた。

霊園に向かおうと部屋を出ると、庭先で日葵さんと雪乃ちゃんが談笑していた。

「あれ、日向先輩どこに行くんですか? 一緒に行ってもいいですか?」

「もう、なんで雪乃ちゃんはすぐ日向くんにくっつこうとするかなー……」

「ごめんね、雪乃ちゃん。今から母さんのお墓参りだから」

「あ、そうなんですね……それは邪魔できないです。気を付けて行ってきてくださいねっ」

「日向くん、いってらっしゃい」

二人に見送られながら、僕は日輪荘を出発した。

庭先の向日葵を見ればなんとなくわかる。この夏も、もうすぐ終わりを迎えようとしている。

迷うことなく歩みを進める。この町にもすっかり慣れた。知り合いも出来たし、この町の少し古びた景色も気に入っている。いつか、この景色がなくなってしまった後の世界のことを思うと、不思議な感情に襲われる。この感情を上手く形容できる言葉を探して、やっぱりやめた。

この気持ちは、表現出来ないことそのものに価値があるのではないかと思ったから。

処暑の道を歩いて、母が眠る霊園に辿り着いた。

父と落ち合う予定の場所まで移動すると、既に父はそこに立っていた。

「久しぶり」

「おう、早かったな」

「もしかして、ここから電話をかけたの?」

「どっちでもいいだろ、行こうぜ」

「少し持つよ」

「助かる」

父と二人、微かに秋めいてきた霊園の道を並んで歩いた。こうして二人になるのが久々過ぎて、元々どんな会話をしていたかも思い出せない。父も話題を探しているように見えた。

結局母のお墓の前に辿り着くまで、言葉は生まれなかった。

「少し雑草抜くか」

「うん」

手分けして墓石の周りの雑草を抜いて、お墓参りの礼儀作法に倣って打ち水をする。

そして、父がずっと持っていた向日葵を花立に入れる。

「……その向日葵、少し萎れてるよ」

「萎れても綺麗だろ、向日葵っていう花は……」

「……うん、そうかも」

父は水鉢に水を入れて、僕はお線香に火をつけて置いた。

墓前に座り直し、手を合わせて母を想う。母はもう居ないのだと嫌でも再確認できる。

「……海斗、日輪荘はどうだ。良い人ばかりだろ」

「うん」

「あそこはな、俺と母さんが初めて出逢った場所なんだ」

父の言葉に、僕は少し考えた。父と母が日輪荘で出会った……聞いたこともなかった。

「当時の俺は本当に疲れてたなぁ……生きることに。だが、それがあったから母さんに出逢えたんだと思うと、傷付くってのも案外悪くないんじゃないか、とか思う訳だ」

「……日輪荘は、心に傷を負った人しか入居できないって聞いた」

「そりゃあ、当時の大家さんの意向だな。疲れた人の休める場所を作りたいってのに由来する」

「……でもさ、父さん。傷ついていない人なんて、居ないんじゃないかな」

「つまり、本当は誰でもウェルカムってことなのかもな」

「深いね」

「深いな」

父と今日初めて目を合わせて、少し安心した。母が亡くなったばかりの時の父を思い出すと、元気になっているようで良かった。でも、それも取り繕っているだけかもしれないが。

「岬に聞いたぞ、海斗。住人の支えになっているらしいじゃないか」

「大袈裟だよ……みんな、最後は自分の力で前に進んでる。僕の力じゃない」

「似てるなぁ……」

「なに?」

「はは、なんでもない」

笑って誤魔化そうとする父が一瞬見せた切なげな表情を、僕は見逃さなかったけれど、それについて聞くことは出来なかった。すると父は、僕の方をしっかりと向き直す。

「海斗、お前……父さんのこと、嫌いだろ」

「なに急に……そんなことないけど」

「嫌いは言い過ぎか。いやほら、母さんが大好きだっただろ?」

「そりゃあね……」

「だから、あの……これからは、海斗と父さんは前より歩み寄るべきだと思う訳だ」

「つまり?」

「もう一度、一緒に暮らさないか……」

「……考えとく」

その会話を最後に、僕らの間にはまたしても静寂が訪れる。

霊園の出入り口まで一緒に歩いて、そこで別れる。

「たまには海斗から連絡してくれよ」

父に言葉に頷きだけで返し、振り返りもせずに家路につく。

少し歩いて振り向くと、父はまだ僕を見守っていた。


日輪荘に帰る道。暫く歩いてから立ち止まった。

僕は後ろを向き、霊園への道を再度歩き始める。何を考えている訳でもなく、ただ無性にあそこへ戻りたくなった。

歩みは早歩きになり、最後には走り出していた。

さっきまで居たはずの霊園にまた戻って来た。父が居ないことを確認する。

そして母のお墓の前まで戻って来た。まだお線香からは細い煙が生まれ続けている。

お墓の前に座り込んだ。さっき言いたかったのに言えなかったことを告白する。

「……母さん、僕、みんなの役に立ってるんだってさ……母さんが教えてくれたこと、守ってるよ。でも……別に僕は優しいわけじゃない。ただ、誰かに優しくしていれば、こんな自分でも、生きていてもいいのかもって思えるから……人の為なんかじゃない、自分の為だけに親切にしていただけだ……僕は母さんと違って、どうしようもないろくでなしだよ……」

胸の内に隠していたことを、告解のように漏らした。先程は父が居たから言えなかった。

昔はこうして弱さを見せれば、母が抱きしめて頭を撫でてくれた。でももうそれは叶わない。

僕は誰かに優しくすることで、自分の存在意義を辛うじて見出してきた。

勝手に他人を自分の生きる理由にして来た。日輪荘の住人たちを土台にしていた。

でも、それももう終わる。日輪荘のみんなは自分の力で歩き始めた。

もう、僕なんかが必要とされることはない。ようやく見つけた生きる理由とやらにも、終わりが訪れた。他人の背中に寄りかかっていただけなんだと痛感する。

また生きる意味を、失くしてしまった。

墓前に座り込んだまま、久々に涙が溢れて来た。泣くのなんていつ振りだろうか。

いつも、母がこの涙を拭ってくれていた。それが好きで、泣くのも悪くないと思っていた。

日輪荘のみんなは優しい。でも、やっぱり母を失った穴を埋めることは出来そうになかった。

雨が降り始めた。この時期なら、もう秋雨だろうか。

傘なんて持って来ていないから、僕は無抵抗にうたれるだけだった。

それでもここから離れるという選択肢はなかった。母の側に居たかったから。

お墓なんかには私は居ないから、そこで泣かないでという内容の歌を聞いたことがある。

だが、ならば問いたい。ここで泣いてはいけないのなら、どこで泣けというのか。


そのまま、僕は墓の前で泣き続けた。

どれだけ時間が経ったのかわからない。

ただ、霊園はすっかり夕闇に包まれていた。

外灯が少ないからとはいえ、この薄暗さならもう晩御飯の時間だろう。

みんな心配しているかもしれない。いや、それとも気にもしていないかもしれない。

そろそろ帰った方が良いかも知れない。でも、足がここから動こうとしない。

雨は変わらず僕をうち続けて、ずぶ濡れになった服が重かった。

このまま、ここから動けないのだろうかと考えていた時だった。僕をめがけて落ちて来ていた雨の感触がわからなくなる。雨音は変わらずに鳴っている。止んだわけではない。

空を見上げようとすると、そこに傘が浮いていることに気がついた。母が差し出してくれたのだと、本気で思った。だが違った。そこには自身を濡らしながら僕に傘を差しだす成瀬さんが居た。見渡すと、夏目さんも居た。雪乃ちゃんも居た。車椅子の東雲さんも、川上さんと岬さんも、日葵さんも。日輪荘の住人、全員がそこに居た。

「成瀬さん……どうしてここに?」

「帰ってこないから、探しに来ただけだ」

「こんな大勢で……?」

「まあ、あれだ……人手は多い方がいいだろ」

みんなの顔を順番に見る。

岬さんが微笑んでから、言葉を続けた。

「みんなで日向くんのお母さんに挨拶しましょう」

その言葉を合図に、みんなが僕の横に並んで、手を合わせた。

僕の右隣に座る雪乃ちゃんがお墓に話しかけ始めた。

「日向先輩のお母さま、日向先輩を生んでくれて、本当にありがとうございます」

「雪乃ちゃん……」

「えへへ、なんか言いたくなっちゃいました」

雪乃ちゃんを見詰めていると、唐突に夏目先輩に頭を撫でられた。

「うわっ、わかってたけどびちゃびちゃだな……」

「もう秋も近いし、風邪ひくかもしれんぞ」と川上さん。

「ったく、なんでよりによって雨の日に黄昏てんだよ」と東雲さん。

「夏の終わりを告げる雨が、人をそうさせるのかも知れないね……」と日葵さん。

「……日向くん、そろそろ帰りましょ?」

岬さんのその言葉に、僕は自然と頷いていた。成瀬さんが傘に入れてくれた。

「……成瀬さん、ありがとうございます」

「苗字って、なんかむずがゆいよな」

「……はい?」

「……お前のこと海斗って呼ぶから、お前も俺のこと涼真って呼べよ……いいな?」

「……うん」

涼真さんは僕の方を見ていなかったけど、別に嫌じゃなかった。

そのままくっ付いて、日輪荘まで歩いた。


日輪荘の前まで来て、岬さんが僕に「お風呂入ってきたら?」と言うので、従った。

日輪荘のお風呂は共用だった。普段は誰が入るか時間が決まっているが、今日はそれも関係なくシャワーを浴びさせてもらった。

お風呂場から出て、一〇一号室に行く。みんな先に食事をとっているだろう。

部屋に入ると、みんな食事を前に手をつけないまま僕を待っていた。

「先に食べていて良かったのに」

「みんなで一緒に食べ始めたいでしょ?」と笑う岬さんに、僕はなにも言い返せない。

席に座り、いつものように食事が始まった。みんな僕が何をしていたのかとかを聞いてこない。

それが居心地よく感じた。きっとみんな、僕の心情をなんとなく察して余計な詮索はして来ないのだろう。箸を進めながら、岬さんと何度も目が合った。

「えっと……岬さん、なにか?」

「私はね、珍しく怒ってるのよ」

「……晩御飯の時間までに帰ってこれなくて、ごめんなさい」

「岬さんを怒らせるとは、やるなぁ海斗」

「もう、夏目くん。茶化さないの」

「まあいいじゃないですか、海斗もこうして反省していることですし」

「……もう二度と、雨に長時間うたれるなんて馬鹿なことしないのよ? わかった?」

「……はい」

「わかればいいの。ほら、食べて食べて」

真面目な顔からいつもの微笑みに戻った岬さんを見て、少し安心した。

「でももう夏も終わりが近いって思うと、あっという間ですよね〜」

「夏が終わる前に、なにか思い出を残しておきたいな」

「川上先輩がそういうこと言うのってなんか意外です!」

「これでも未来の文豪だからな、どんなことでも経験しておきたい」

「自分で文豪とか言うなよ……そういう所だぞ」

「東雲、その汚物を見るような視線は何なんだ?」

「そのままの意味だぞ」

「奈月さん、容赦ない」

住人達の会話を岬さんは優しく見守っていた。そして、閃いたように手を叩く。

「そうだ、バーベキューパーティーでもしましょうよ! 夏の思い出に!」

「バーベキューですか……どこでやるんです?」

「ここの庭でっ。みんな呼びたい人を呼んでもいいから、ね? やりましょう?」

「私は良いですけど……ここは岬さんの次に最年長の川上先輩に決めてもらいましょう」

「うむ、俺は一向に構わんが……東雲はどうだ?」

「なんで私に振るんだよ……日葵、代わりに答えろ」

「あはは、楽しそうだからやりたいな。夏目さんは?」

「岬さんがやりたいって言ってんならやるしかないだろ、なあ成瀬」

「おう、海斗もそう思うよな」

「結局僕にもまわって来るんですね……」

「みんなの意見を平等に聞かないとね」

岬さんがキラキラした目で僕を見詰めてくるもんだから、それに抵抗する術はもはや無かった。

「……やりましょう、バーベキュー」

「やった〜、これで全員の了承を得たわね」

その後、そのままの流れで日時を決めた。岬さん曰く、みんな必ず一人は誰かしらを誘うように、とのことだった。誰も誘う人なんて居ないのに、どうしたものか。

みんなもそれには困っているようだった。ああでもないこうでもないと話し合っている。

その夜は、僕が日輪荘に来てからこれまでで一番賑わった夜だと思う。


数日後、バーベキューパーティーの当日があっという間に訪れた。

岬さんを筆頭に、朝から楽しそうに準備に追われている。バーベキューは夕方からだ。

僕も雪乃ちゃんと買い物に行ったりして過ごした。

時間が過ぎるのが早く感じる。買い物から帰って来ると、もう庭先での準備がほぼ完了していた。夏目さんと涼真さんが張りきったようだった。

「帰って来たか。あとはみんなが呼んだ客が全員揃えば始めていいよな? 岬さん」

「そうね〜、夜は買って来た花火もあるから早めに食べちゃいたいわね〜」

「花火って……下手したらこのボロアパート燃えちまいそうだな、気を付けろよ」

「ボロアパートって……酷いわ奈月ちゃん……」

「ボロいのは事実だろ」

それから、各々好きなように時間を潰した。夏目さんはもうお肉を焼き始めてるし、もう開始の合図もなにもない。

僕は折りたたみ椅子に座って、みんなを眺めていた。

すると、そんな僕を見つけた雪乃ちゃんが隣に座って来た。

「せーんぱいっ、そろそろ始まりますね」

「うん、雪乃ちゃんは誰を招待したの?」

「えへへ〜、誰でしょうね?」

そう笑って誤魔化す今日の雪乃ちゃんは、いつもより大人びて見えた気がする。

彼女は僕を見詰めたまま、一呼吸置いて言葉を探していた。僕はそれを待つ。

「……なんて言えばいいのか分からないんですけど、私、先輩に会えて本当に良かったと思ってるんですよ。先輩は自分の力じゃないとか思ってそうですけど、そんなことないんですから」

「なにが理由であれ、雪乃ちゃんが前に進めるなら何でもいいよ」

「はい、ありがとうございます!」

二人で遠くを見ていると、こちらに向かってくる人影が見える。誰かが呼んだお客さんだろう。

そして、次第に近付いてくるその人影に、僕は見覚えがあった。

「……雪乃ちゃん、あの子って、雪乃ちゃんを虐めてた……」

「来たみたいですね……私、別にやられたからってやり返したいとかは思わないんです」

雪乃ちゃんは椅子から立ち上がり、僕の方を向いた。

「ただ、友達になりたいなって」

そう言って歩き出す雪乃ちゃんの背中は、もう僕が押してあげなくても大丈夫なくらい、強い。

「あっ、そうだ……日向先輩っ」

「うん?」

「私、日向先輩に恋してるみたいです。よければお付き合いしてください。返事はいつでもいいです。ではっ」

そう言って、雪乃ちゃんは自分が呼んだお客さんの対応に向かった。

突然だったけれど、そういう経験が皆無の僕ですらなんとなく察していたことなので、今更驚きはなかった。でも、告白するときの彼女のあの表情と、ほんの少し震えていた声色を反芻すると、真剣に返事をしなければならないと、僕は思った。


次は涼真さんが僕の隣に座った。飲み物を手渡される。

「海斗、俺がいつか言ったこと、覚えてるか?」

「人に優しくするのは、母さんがどうしても僕に託したかった生き方だから……それを忘れてしまったら、僕のお母さんは本当の意味で死んでしまう……という言葉の意味を考えろって」

それは、以前涼真さんに言われた言葉だった。僕はこの言葉の意味がわからなかったけれど、その意味は自分で考えて気が付かないと意味が無いと言われたままだった。

「それだ……その答え、自分なりにでも見つけられたか?」

「……僕が生き続ければ、母もまだ現世に存在していると同義なんですよね。

僕が生きたいというよりも、母をまだ死なせたくない……僕が母の想いを繋ぎ留めれば、それはきっと、一緒に歩むことと同じなんです……死ぬとか、生きるとか、そうじゃない。身体は、入れ物でしかない……」

「おう、良い答えなんじゃないかな」

「えっと、正解はなんだったんですか?」

「そんなもんないだろ。いや、人の数だけあるんだろうな……それを押し付けるような無粋な真似はしたくない。みんないつか勝手に辿り着くんだろ、自分なりの答えに」

そう言って、涼真さんは席を立つ。彼の視線の先には、見覚えのある顔があった。彼の母だ。

「海斗……俺は真っすぐな道だけが正しいと信じて来た。でもこれからは、たまに逃げたり、たまに休んだりしながら、俺なりの蛇行を続けるよ」

「蛇行、ですか?」

「お前が教えてくれたことだ」

そう言って、涼真さんはお母さんの元へと歩き出した。


次に、夏目さんが隣に座った。焼いたお肉を一足先に食べている。

「なあ海斗、俺は納得いかないんだよ」

「なにがですか?」

「成瀬のこと、名前で呼んでるだろ」

「はい、苗字はなんかむずがゆいからって言われて……」

「別にいいよ? 仲が深まるのは良いことだ。でもな、隣人であるこの俺を差し置いて名前呼び第一号が成瀬ってのが気に入らん」

「名前呼び第一号は多分雪乃ちゃんですよ……あ、岬さんか日葵さんかも?」

「どちらにせよ俺が未だに『夏目さん』なのは気に入らん」

「じゃあ……信二さん?」

「さん付けと敬語をやめろって言ったんだよ!」

「言ってたかなぁ……」

「試しに言ってみてくれ、それで満足するから」

「じゃあ……信二、僕の分の肉焼いてこいよ」

「おお、いいな! ……あれ? 今なんか失礼なこと言わなかったか?」

「あはは。……そう言えば、信二は誰を招待したの?」

「……俺は誰も呼べなかった。家族なんて呼べないし、友達も居ないしな」

「嫌いなものを好きになるって、案外シンプルだったりするんだってさ……信二が一番嫌いな家族って誰なの?」

「兄、だな……」

「そんなに嫌いなんだ」

「ああ……でもな、本当は知ってるんだ。あいつにはあいつなりの苦悩があるんだって。他者を傷つけるのは自分を守るためだって……あいつの苦悩を、一番近くで見ていたから……。

殺したいほど憎いあいつも、きっと死にたいほど苦しんだんだろうよ」

「……いつか、分かり合えるといいですね」

「だな、その準備が整うまでは距離を置いてみるよ……今の俺には負け犬連合もついてるしな」

「なんか嫌な響きだなぁ……」

「ははっ、じゃあ海斗の分の肉を焼いてくるとしますかね」

「うん、ありがとう」

信二は、前よりほんの少し明るくなったと思う。

決して演じている訳じゃなくて、あれが本当の夏目信二なんだ。

僕はどんな夏目信二でも、きっと好きになれるけれど。


次に僕の隣に座ったのは、日葵さんだった。

「やっほー、なんか夏目さんと楽しそうに話してたね」

「はい、なんか下の名前で呼べとかなんとか……」

「仲良しだね〜、まあお隣さん同士だしね」

「確かに嫌でも距離は縮みましたよ……壁には穴が開いてるし」

「あはは、少し羨ましいな。そういえば私と日向くんってあんまり遊べてないよね? 今度どこかに行かない?」

「いいですけど……大学入試があるんじゃ……?」

「それは言わないで」

「すぐ目の前まで迫ってる現実は見ましょうよ……」

僕がそう言うと、日葵さんは笑った。

「そう言えば、ずっと気になってたことがあるんです」

「なに?」

「初めて日葵さんと日輪荘の庭先で会ったとき、僕の顔を見て逃げ出しましたよね? いくら人見知りって言っても、さすがに逃げ出すなんて尋常じゃないと思うんですけど」

「あー、それは……なんていうか、さ」

日葵さんは困ったように人差し指で頬をかいてから、僕には目を合わさずにこう言った。

「日向くんの顔が……タイプだったから……」

「えっと……どういうことですか?」

「だから、かっこいいな〜って思ったら、なんか恥ずかしくて逃げちゃったの!」

「……なるほど」

「もう、なんなのその大人びた反応は。そこは慌てふためいたりしてよ」

「今日はもう驚けそうにないです……」

そう言うと、彼女は立ち上がりこの場を離れ始める。

「とにかく、雪乃ちゃんには負けないからね!」

日葵さんが初対面で逃げ出した理由を知れて良かったけれど、予想外だった。

どちらにせよ、今の彼女が取り掛かるべき課題は、僕なんかじゃなく入試だろう。

しかし彼女が言ったように、これからはもっと積極的に話しかけてみても良いかも知れない。

まず関わってみないことには、その人の一抹も理解できない。


次は岬さんが隣に座った。

「日向くん、日葵ちゃんと何話してたの?」

「まあ、秘密です」

「けちんぼ」

そう言って岬さんは頬を膨らませる。相変わらず可愛らしい大人だと思った。

「……日向くん、改めてお礼を言わせて」

「何かしましたっけ」

「沢山してくれたでしょう……日輪荘へ来て、みんなのこと支えてくれた」

「それを言うなら、岬さんの功績の方が大きいんじゃないですか?」

「ううん……だって私、踏み込むのが怖いんだもの。みんながなんとなく悲しんでるのはわかっても、それをどうにかしてあげれたことなんか一度もないの。助けたいと思っても、実際に行動に起こしたことはないの。卑怯よね、私って」

「岬さんが自覚してないだけで、みんな散々救われてますよ。それに、この日輪荘という場所を守り続けているだけすごいじゃないですか」

「……うふふ、ありがとう。やっぱり日向くんは頼りになるわ……日葵ちゃんともすぐ仲良くなっちゃったし……」

「岬さんと日葵さんは仲良くないと?」

僕の言葉に、岬さんは観念したように話し始める。

「日向くんには言ってないわよね……私と日葵はね、血がつながってないの」

「……そうなんですか?」

「うん。私には、将来を約束した男性が居たんだけどね、私が不妊症だということが判明した直後、捨てられちゃった」

「そんなの……あんまりです」

「うふふ……私ね、家族っていうものに、強く、強く憧れていたから……知り合いに教えてもらった日葵を養子に貰ったわ……あの子も親に捨てられて、なにか通ずるものを感じたのよね。でも、それを知ってからあの子は……私と距離を取るようになったわ……心の距離を。難しいわね、家族って……」

岬さんの話を聞いて、いつか日葵さんが岬さんのことを『母』ではなく『岬さん』と他人行儀に呼んでいたことを思い出した。

「岬さん……日葵さんはいつか必ず、あなたの家族になれた幸せを知ると思いますよ」

「そうだといいなぁ……でもね、日葵ちゃんだけじゃないのよ? みんなも、日向くんだって、私の大事な家族なんですからね?」

「はい、ありがとうございます」

「ふふ、じゃあ食べ物焼いてくるから、取りに来てね」

そう言って岬さんは離れていく。

彼女にも僕が知らない事情が沢山あって、今でもそれと戦いながら生きている。

傍から見たら抜けている人だけど、人は外見だけでは判断できない。


次は東雲さんが車椅子で僕の隣まで近付いてきた。

「食わないのか?」

「いや、そろそろ食べようかなと……って、東雲さんも食べてないじゃないですか」

「ああ、私が呼んだ客が来てから食べようかなと思ってな……」

そう言うと、東雲さんは膝の上に置いていたタブレットを操作し始めた。

オンライン上で無料公開されている小説を読むのが好きなら、どこでも持ち運べるタブレットがあれば便利だろう、と日輪荘のみんなでプレゼントしたものだった。

彼女は僕にお構いなしに小説を読み始める。

「気に入ってくれているようでよかったです」

「便利だから使ってるだけだからな」

「わかってますよ。今は何を読んでるんですか?」

「……太宰治、『葉』」

「ああ、いいですね」

「知ってんのかよ」

「冒頭の一連の文章がとても素敵ですよね」

「……ったく、お前と趣味が近いなんてな」

「というか、みんな好きなんじゃないですかね。有名だし」

僕の言葉に、東雲さんは小さく「まあな」と呟いた。

「そう言えば、川上さんが書いてる小説、結局完成したんですか?」

「知らん。言われた通り私の人生観は提示したから、あとはあいつ次第だろ」

「どんな思想なんですか?」

「……生きるとは『許す』ということ」

「へぇ……良いと思います」

「どんな思想も自由だってのはわかってるんだけどさ、私はやっぱり、『優しさ』にしか答えはないと思うんだよ。暴力的な愛なんて、私は認められない。色々な形の優しさがあるなんて言うけど、誰かを傷付けちまうならそれはもう本質的な意味での優しさではねぇだろ……と思う」

「東雲さんは優しいなぁ」

「馬鹿にしてねぇか?」

「してませんよ」

「ったく……おっと、私の客が来たらしい」

東雲さんの視線の先を追うと、僕の知らない女性がこちらに歩いて来ていた。

「あれ、どなたですか?」

「親友だ」

東雲さんはこちらには視線を向けずに彼女の元へと動き出しながらそう言った。

あの人はきっと、僕が思っているよりずっと繊細な女性なのだと思う。


次は川上さんが僕の隣に座った。

「日向、東雲と何について話していたんだ?」

「川上さんの小説、完成したのかなぁって話してました」

「うむ、まだだ」

「まだなんですね……」

「まあ待て、もう完成間近なんだ」

「川上さんは一つの作品にとてつもない拘りと情熱を注いでいるんですね」

「うむ……恥ずかしいものは書きたくないからな」

「そもそも、どうして小説家を目指し始めたんですか?」

「日向には言ってなかったな。俺は元々夢が無くてな、目標のない人生に辟易しながら生きていた……だが、ある日なんとなく読んだ小説に衝撃を受けてな……始めて俺にもやってみたいと思えることが出来たんだ。まあ、お陰で今こうして苦労してるがな」

「物語に人生を彩ってもらえたんですね」

「うむ、物語には、人ひとりの人生を変えるほどの力があると、俺は信じている」

そう言うと、川上さんは立ち上がった。

「さて、俺の呼んだ客が来たようだ」

視線の先におばあさんが立っていた。以前雪乃ちゃんと一緒に行った駄菓子屋のおばあさんだ。

そして、そのおばあさんの隣には男性が連れ添うように歩いている。

「む、あの男性は……?」

「僕が呼んだ人です」

「なるほど」

短くそう反応して、川上さんはおばあさんの元へと向かった。

おばあさんは両手になにか大きめの荷物を持っているように見える。あれは一体なんだろうか。

そして、隣にいる男性……僕の父が、僕に気が付いて右手を上げる。

そろそろ僕もみんなの所へ行こうと思い、ようやく椅子から腰を上げた。

庭先では、おばあさんが雪乃ちゃんと日葵さんに話しかけている。

涼真さんのお母さんが野菜を焼いて、お肉ばかり食べている涼真さんの皿に野菜を乗せている。

岬さんが日葵さんに話しかけて、頑張って話題を繋げようとしている。

東雲さんは、さっき親友と呼んでいたあの女性にタブレットを見せて何かを熱弁している。

そして川上さんと信二は食材を焼きながら何か言い争いをしていた。

あの二人の口喧嘩も久々に見た気がして、少し笑ってしまう。


そして僕は、父の目の前に立った。

「よう」

「うん」

「変わんないな……ここは」

「ねえ、父さん……」

「ん?」

「母さんの話を、聞かせて……」

「……ああ、長くなるぞ」


生きる意味が無かった。

言ってしまえば、この夏が来る前に死んでしまおうとさえ思っていた。

だけど、ここへ来て色々な人たちと関わって、自分の小ささを痛感し、母の偉大さも痛感した。

人の数だけ苦しみがあって、人の数だけ価値観もあった。

そして母が生前、僕に口酸っぱく説いていた『人に優しく』という教えを守った。

結果的に、他人を支えることが出来たし、何よりもそれで自分自身が救われた。

今では日輪荘のみんなのことが好きだし、これからも一緒に居たいと思う。

その瞬間、僕の横を通り過ぎて行った涼やかな風に、秋の訪れを感じる。

結局、死ねないまま夏の終わりが来てしまった。


ふと、雪乃ちゃんと日葵さんの楽しそうな笑い声が聞こえて来たので、そちらの方に視線をやると、着物を手に持ち、自分の身体に当てていた。

どうやら、駄菓子屋のおばあさんが二人にあげようと持ってきたようだ。

着物の生地は恐らく麻だろう。

片方は鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。

もう片方は、紺色の生地の上に大きく向日葵が花を咲かせているものだった。

あれはきっと、夏に着る着物だろう。だがこの夏はもう、終わりを迎えてしまう。

来年の夏まで、生きていようと思った。

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日輪荘、本日も晴天です! かぐやうさぎ @Kiyokun

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