第四章-夏目信二の場合-
家族とは尊くて大切なものなのだと教えられてきた。
誰かに直接そう説かれた訳ではない。この世界の教育や、歌や映画だってそうだ。
家族は大事にするもの、両親には恩返しをするもの。それが世の『常識』なのだ。
一口に『家族』と言っても色々あるとは思う。だがいわゆる血縁というものは、そう簡単には切れない鎖ではなかろうか。それは前向きな意味でも、後ろ向きな意味でも。
メールの着信音で目が覚めた。父からの「そろそろ帰ってこい」という旨のメールだった。
俺はそれに簡単な返信を済ませて上体を起こした。時計を見て「今日にするか」と呟く。
前々から「たまには実家に帰ってこい」としつこいほど言われていた。
それもそうだろう、最後に実家に帰ったのはいつだったか思い出せない程だ。
ついには携帯電話をむりやり持たされた始末。携帯電話は嫌いだ。これは人間を縛る鎖のようなものに感じる。勿論、利便性で人の生活を支えているのは承知の上でやはり好きになれない。
顔を洗ってから朝食を食べる為に一〇一号室に向かう。
一〇一号室の前まで来ると、東雲が扉の前でウロウロしていて邪魔だった。
「おい、入れない」
その言葉で俺の存在に気が付いた東雲は、小さく「ん」とだけ言って扉の前から退いた。
何がしたいのかわからんが、無視して部屋に入った。いつも通り岬さんが出迎えてくれる。
「おはよう夏目くん。奈月ちゃんも来てくれたのね」
岬さんの言葉を受け振り返ると、東雲と目が合った。同じタイミングで入って来たようだ。
「なんだよ」
「別に」
東雲と一緒に居間へと向かうと、日葵と雪乃が咲いたような笑顔を見せた。
「奈月先輩っ! 来てくれたんですね!」「奈月さ〜ん!」
二人の歓迎を受け東雲は露骨な舌打ちをしていたが、その表情はまんざらでもなさそうだった。
それにしても、ここ最近女子組がやけに一緒に居るとは思っていたが、下の名前で呼ぶほどにまで打ち解けていたのか。全てではないだろうが、海斗が上手く潤滑油として立ち回ってくれているのだろう。俺が携帯を買うなり部屋に籠って慣れない設定にあくせくしている内も、俺との約束をしっかり果たしてくれているらしい。やはり海斗は俺が期待した通りの人材だった。
そんなことを考えながら俺の定位置に座る。すると海斗に話しかけられた。
「夏目さん、どうかしました?」
「どうかって?」
「いや、いつもよりどことなく暗いような……」
「寝起きだからな、余計な詮索をしようとするな」
「そうですよね、すみません」
本当に、海斗は厄介なほど他人の心情の機微に敏感だった。こいつの前では気を抜けない。
「ちょっと夏目先輩! 日向先輩は心配して聞いてくれたのに、なんですかその態度は!」
「雪乃、お前はいい加減告白でもしたらどうだ」
「なっ、ななにを告白するってんですか⁉」
雪乃は、茶化すとこうして簡単にテンパってくれるので楽だ。すぐに日葵がなだめていた。
すると、岬さんが朝食を運んできた。いつもニコニコしている岬さんだが、今日はいつにも増して嬉しそうな気がする。同じことを考えたのか、川上が珍しく声を発していた。
「岬さん、なにか良いことがあったのですか?」
「うん、今日はね……日輪荘の住人が全員揃った最初の日なのよ」
そう言われて気が付いた。そうか、ずっと居なかった成瀬と東雲が参加したことでついに全員が揃ったわけだ。本当にこんな日が来るとは思わなかった。まだみんな少しぎこちない気もするが、きっとすぐに馴染むのだろう。
「そっか……じゃあ今日は日輪荘の記念日ですね!」
雪乃の言葉に日葵が「たしかに!」と反応する。岬さんが「じゃあ今日は軽いパーティーでもする?」と言ったので、俺は手を挙げる。
「あー、俺は今日実家に帰ろうかなと思ってるんで」
「あら、そうなの? 確かにもう随分帰ってないもんね?」
「ええ、なのでパーティーは不参加で」
俺の言葉に、日葵と岬さんは残念そうだった。雪乃がこちらを睨んでいたが無視した。
俺だって日輪荘に居たいが、仕方ないんだ。そう言いたかったが我慢した。
食事を済ませ、今日も各々の一日が始まる。女子組が談笑している横を通って部屋を出る。
「夏目くん、いってらっしゃい。ご家族にもよろしくね」
部屋を出る前、岬さんに声を掛けられたので「いってきます」と返した。
一度自室に戻り、簡単に荷物をまとめる。部屋を出ると廊下に海斗が居た。
「いってらっしゃい、夏目さん」
「海斗、もうすっかり日輪荘に慣れたな」
「なんですか、急に」
「いや、なんとなくそう思っただけだ。いってくる」
そう言って俺は歩き出す。
「気を付けてくださいね。今日の夏目さん、やっぱり少し変ですから」
振り返らず、右手を挙げて答えた。少し心配させしまったか。
空を見上げてみると曇り空が一面に広がっていて、俺の心を映しているようだった。
日輪荘から三十分ほど歩いた場所に実家はある。三階建ての一軒家だ。今は両親二人と兄の三人で住んでいる。俺は大学に入学するタイミングでこの家を出て、以来全くと言っていいほど帰ってきていない。つい最近まで携帯も持っていなかったので連絡もほぼ取っていなかった。
深呼吸を一つしてから、呼び鈴を鳴らした。カメラ付きなので一々名乗らなくても良い。
特にやり取りもなく、玄関の扉が開いた。
「信二、お帰りなさい」
「ただいま」
母が出迎えてくれた。俺の顔を見て嬉しそうに微笑んでいた。その顔を見ると、これまでほぼ帰ってこなかったことをほんの少し申し訳なく思った。
家の中に入り、自分の部屋まで行って荷物を置いた。リビングに向かおうとする途中、兄に遭遇する。会いたくなかったが、彼がここに住んでいる以上、それが不可能なのは覚悟していた。
「よう信二、逃げ帰って来たのか?」
「母さんが顔を見せに来いってうるさいから来ただけだよ」
兄は俺の答えには興味なさそうに「ふーん」とだけ言ってリビングに向かった。
兄には幼い頃からずっといじめられて育ってきた。年齢が離れているということもあり、俺は彼に逆らう術を持たない。向き合うだけで緊張してしまう。
兄の姿が見えなくなるのを確認してから、俺はようやく動き出した。
リビングに行くと母がお茶とお菓子を出してくれた。
「最近はどうなの、勉強は頑張ってる?」
「まあ問題ないよ」
「就活は?」
「それは言わないでくれ……」
母との久々の会話は夜まで続いた。あらかじめ買い物を済ませていたらしく、料理に取り掛かる。俺は母の料理を少しだけ手伝う。母は嬉しそうだったが、俺の心中は穏やかではなかった。
料理が完成する頃、丁度良く父が仕事から帰って来た。
「信二、帰ってたか。もっと頻繁に帰ってきたらどうなんだ」
「まあまあお父さん、とりあえず晩御飯にしましょ」
父が席に着き、母が夕食を食卓に並べる。食卓に並ぶ菜食料理の数々。俺が中学生になった頃からこの家の食卓に肉料理が並ぶことは無くなった。白米もない。それは宗教上の理由だった。
そしてこの家には、テレビもない。この家の人間は昔からテレビに興味などなかった。
俺は小さい頃からお笑い番組が好きだったが、父と兄はそれを「時間の無駄だ」と嫌っていた。
食事中によく会話をする家庭でもないので、静かなまま食事を採り続ける。野菜だけの料理も悪くはない。母は料理が上手だと思う。
だがやはり、俺は岬さんの肉料理を恋しく思ってしまうのだった。
食事を食べ終わると、母が俺に「
部屋に入り、俺は一直線にそこを目指して歩く。そこには、今は亡き妹の遺影が置かれていた。
俺には妹が居た。恐らく、この家で最も可愛がられていたと思う。俺が中学校に上がる前に交通事故で亡くなった。凛香はその時まだ小学三年生だった。俺はもちろんだが、それ以上に両親は嘆き悲しんだ。もう立ち直れないのではないか、と子供ながらに思ったほどには。
葬儀で話しかけて来た親戚の勧誘をきっかけに、両親はとある宗教に入信する。
それからだろうか、この家の歯車が狂い始めたのは。
聞いたこともない名前の宗教。家に増えていく怪しい道具。そして同時に減っていく家電。
家の食卓からは肉料理が消え、テレビを付けていると怒鳴られた。特にお笑い番組とスポーツ中継は、俺以外の家族が誰も興味が無かったらしく見ることを禁じられた。凛香はどっちも好きで、生前はよく一緒に見たものだ。
それから両親は、いわゆる『陰謀論』というものを信じるようになった。
簡単に言えば、世界のどこかにこの世界を支配する悪の元凶が居て、そいつらのせいでこの世は腐敗に進んでいるという考えを信じ始めた。現代医学なども「あれはデタラメだ」と否定するようになった。
当然だが、俺はそんなものを信じてはいない。だが、俺を除いた家族三人はその怪しい宗教と陰謀論を強く信仰するようになった。だがそれを強く信じるようになってからの家族は、確かに凛香を亡くした悲しみから立ち直れたと言えるだろう。俺の心境は複雑だった。
「信二、こっちに来い。話がある」
凛香の遺影を見詰めながら思考を巡らせていた俺に、父が後ろから話しかける。話とはなんだろうか。
リビングに戻ると、両親が俺を待って座っていたので向かい合うように腰を降ろした。
「なあ信二、お前この家に戻ってこい」
「……つまり?」
「あのアパートでの一人暮らしを辞めて、実家暮らしをしろということだ」
「どうして」
「……母さんが寂しがる」
その言葉を受け母の方に視線を向けると、母が申し訳なさそうな顔で黙り込んでいた。
確かに母は昔から、家族みんなで一緒に過ごすことにこだわっていた。家族というものを心から愛している人だ。父の言葉に嘘はないだろう。
「お前が集まりに参加してくれたら、他のみなさんも喜ぶだろう」
父の言う集まりというのは、彼らが信仰する宗教の会合のようなもののことだ。
そして『みさなん』と呼んだのはそれに参加する他の信仰者の人たちのことだろう。
正直に言えば、嫌だ。俺はその宗教を信仰していないし、これからするつもりもない。
宗教自体を否定するわけではない。実際俺の家族はその宗教に救われたのだから。だが、俺には必要ないと思っているし、心の底から信じることが出来る自信も無い。
「すぐには戻ってこなくても良いが、そのつもりで考えておけ」
なにも言わない俺に父は釘をさすようにそう言った。今まで父にも逆らったことは無い。
その言葉を最後に、両親はその場を後にする。一人残された俺は、ただ頭を抱えるのみだった。
自室に戻ろうとする途中、廊下に兄が待ち構えていた。俺に気付き話しかけてくる。
「おい、信二。お前どうせ俺たちの宗教を怪しいもんだと思ってんだろ」
やはり兄にはお見通しだったか。いや、両親もなんとなくそう思っているかもしれない。
「神を信じない人間は、いつまでもこの地獄で何万年も苦しみ続けるだけだぞ。特に日本人は世界中の国のモルモットとして薬漬けにされ続けるだけだ。お前も信仰しないならゴミのように死んで行くだけだぞ」
昔から散々聞かされて覚えてしまった文言をまた浴びせられる。いい加減聞き飽きた。
「それから、お前がここに住めば、俺がイラついたときに殴れるサンドバッグが出来て便利だ」
そう言ってゲラゲラと笑い出した。さすがに少しイラついて睨み返すと、兄が一気に間合いを詰めてくる。反応する隙もなく、彼は俺の腹を思い切り殴りつけた。
「ぐぅっ……はぁっ!」
「なに睨んでんだよ、うぜぇな」
その場にしゃがみ込む俺を最後に蹴りつけて、兄はその場を後にした。
彼には昔から暴力を振るわれながら生きて来た。俺は一度もやり返したことは無い。
それは決して、俺が優しくて心が広いからではない。年齢が離れていて幼い俺に反抗する力がなかっただけだ。両親に言いつけても、兄は最初の子供と言うこともあり強く可愛がられていたので、俺の訴えを両親が信じたことは一度もない。両親に言いつけた直後はいつもより殴られる数が増えるので、それによって恐怖が植えつけられ訴えることも無くなった。
何度も、何度も殺したいと思った。俺に優しさなんかない。ただ無力で臆病なだけだった。
だが、その思いも今ではなくなった。彼には彼なりの苦しみがあると知ったからだ。
兄も昔から不幸続きの人生だった。やる事なすこと全て上手くいかず、身体の軽度の障害にも苦しんでいた。そんな彼の苦悩を間近で見て来たからこそわかる。彼は何かに縋らなければ、きっととっくに精神が崩壊していただろう。陰謀論に縋る理由もわかる。何かのせいにしなければ、自身に降りかかって来たあらゆる不幸の説明がつかないのだ。何かのせいにしなければ、もう彼は生きてはいけないのだ。そして縋るだけでは発散できない鬱憤を俺に暴力という形でぶつける。それが彼の唯一の命綱なのだ。俺には彼の命綱を切ることは出来ない。
いや、兄だけではない。両親もそうなんだ。妹を轢いたのは飲酒運転の車だった。
まだまだ人生もこれからで、この世界の楽しいことも嬉しいことも、全然味わえないまま死んでしまったのは絶対におかしいと思うしかなかったのだ。何かのせいにするしかなかったんだ。
なるほど確かに、天国と地獄が実在するのなら、この世が地獄だとするのは自然かもしれない。
俺はお腹を抑えて廊下にしゃがみ込みながら、頬を伝い落ちて来た涙を舐めた。
自分の部屋のベッドで目が覚めた。天井を見て少し違和感を覚えたが、すぐに理解する。
昨日は実家に帰ってきて、ここで寝たのだった。暫く見ていなかった天井に戸惑ってしまった。
俺は起きてリビングに向かう。テーブルには作られた朝食が置かれていた。俺以外の三人は隣の部屋で何かをぶつぶつと唱えている。いわゆるお経のようなものだろうか。
その朗誦を聞きながら、俺は一人で朝食を食べた。こんなにも悲しい朝はいつ振りだろうか。
俺はさっさと食事を済ませて荷物をまとめる。「また来るよ」という書置きを残して、速足で家を出た。外に飛び出て空を見上げると、幼い頃の記憶が蘇ってきてしまった。
楽しかったあの頃の記憶。みんな明るくて、何一つ狂っていなかったあの頃のことを。
違うんだ。今の彼らを否定するわけじゃないんだ。何かに縋ることを悪く言うつもりもない。
ただ単純に、あの頃の記憶が眩しすぎて涙が滲んだだけだ。なんだ、俺だって過去の思い出というものに縋っているじゃないか。彼らとなにも違わない。だからこそ、余計辛かった。
この心境のまま日輪荘に帰る訳にもいかず、町を少し歩いて落ち着いてから帰ることにした。
普段はあまり行かない、人通りの多い駅前の方へと向かった。そこなら日輪荘のやつらに遭遇する可能性も低いと感じたから。東雲にも言われたが、日輪荘の住人……特に海斗と雪乃にはこんなにも暗い『夏目信二』を見せるわけにはいかなかった。海斗と雪乃の二人は特に俺を慕ってくれていると感じているから、あいつらの俺への印象を壊したくはなかった。
いつだったか、凛香と一緒にお笑い番組を見ていた時だ。凛香が「この人かっこいい!」と指さした芸人さんが居た。その瞬間から、俺の中での理想の男性像はその芸人になった。
そしていつからか、人前ではその人物像を演じるようになっていった。面白くてどこか頼りないのだが、決める時には決める、そんな虚栄を張るようになった。
実際の俺は、兄一人に逆らう度胸もなければ、人生で一度も両親に逆らったこともない小心者でしかない。俺のこんな本性を知ったら、きっと海斗と雪乃はがっかりするだろう。
そんなことばかり頭の中を巡って、またひとつ大きなため息が零れた。周りには沢山の通行人が歩いていたが、どうでも良かった。他人の目にどう映ろうと関係なかった。
また涙が瞼に溜まってきて、零れる前に拭った。
すると、後ろから肩を叩かれた。
「おい」
驚いてすぐに後ろを振り返ると、そこには見知った顔が立っていて驚いてしまう。
「な、成瀬⁉」
「やっぱり夏目か。なんでこんなところに居るんだ」
俺は焦る心を落ち着かせながら、潤んだ瞳をなるべく彼に見せないようにしながら続ける。
「お前こそなんで朝っぱらからこんな所に居るんだよ、無職かよ」
「無職だよ……力仕事だったから引き継ぎもほとんどなかったし、会社も俺をなんとも思っていなかったからな、二週間で辞められた。だからこうして職探してんだろうが」
「仕事って町を歩いて探すものなのか……なんか前時代的だな」
「いや、一度町を歩いて色んな職業を『感じて』みようと思ってな」
「職業を、感じる?」
「おう、俺はこれまで狭い世界で生きて来たから実感が薄かったけど、俺たちって色々な職業に支えられて生きてるだろ? どんな職種にも存在意義があって、それぞれのやりがいや面白さみたいなものがあるだろうからな、次の仕事は心からやりたいと思えるものにしたいんだよ」
成瀬の言葉を聞いて、俺は少なからず驚いてしまった。内容ではなく、その口数にだ。
こんなにも喋れる人だったのか、成瀬は。これまで彼を縛っていた鎖の強さを肌で感じた。
「……一年で仕事辞めた奴に、そんな職業選択の自由度あるのか?」
「おい、やめろ。そういうこと言うな。夢ぐらい見させろ」
「はは、悪い悪い」
成瀬と話していて少し落ち着いてきて、あることが俺の頭を過った。
「なあ、成瀬……話があるんだが」
俺の突然の真面目そうな調子に、成瀬は一瞬驚いたが、すぐに合わせてくれた。
「おう、丁度いいからそこの喫茶店にでも入るか。奢るぞ」
成瀬の提案に乗り、二人で喫茶店に入った。
時刻的にはもう朝食という時間でもないが、お客さんはそれなりに入っている。
空いていた窓際のテーブル席に向かい合って座り、飲み物の注文だけ済ませる。
「で、話って?」
「……もし俺が日輪荘から出ていくって言ったら、どうする?」
「どうするもなにも、お前がそうしたいんだとしたら、他人にそれを止める権利はねえだろ」
それはそうだ。思った通りの返答だった。俺はなんでこんなことを聞いたのだろうか。成瀬に引き留めてでも欲しかったのだろうか。
「でも、とりあえず日向と月見里は泣いて嫌がるんじゃないか」と、成瀬は続けた。
「……まあ、そうかもな。でも、きっと大丈夫だと思うぞ」
「……なぜ?」
「あの二人もすっかりお前に懐いてるじゃねぇか。俺が居なくなったとしても、お前が居る」
「夏目……お前、なんかあったのか?」
「……もしかしたら、日輪荘を出るかもしれない」
「それは、お前の意思じゃなくってことか?」
「……ああ」
自分でも驚くほど自然に、弱さのようなものを見せてしまっている自分が居た。それほど精神的に追い込まれているのだろうか。
「……そうか、ならお前は、日輪荘を出たくないんだな?」
「多分、そうだと思う」
「ならそれを勝ち取るしかないんじゃないか」
「勝ち取るって、家族と戦ったことなんて今まで一度もないんだぞ……」
「誰も、戦えなんて言ってないけどな」
「え?」
その言葉を受け、俺は成瀬の顔を見詰めた。その言葉の真意を知りたかったから。
「俺だって戦ったわけじゃない。逃げ出したんだよ。まあそれはある意味戦いでもあるのかも知れないけどな」
「ある意味戦いってどういうことだ?」
「あまり深く考えすぎるな、要するに考え方次第ってことだ。お前にとって戦うことと逃げることはどう違う?」
「……とりあえず、戦うって選択肢がナシだってことだけは確かだ」
「なら、答えは決まってるな」
「決まってるなって、そんな簡単に言いやがって……」
「簡単だよ、お前が思ってるよりは」
俺は成瀬のそのすべてを理解しているつもりのような口調に憤りを感じてしまった。会社を辞めることと、家族との縁を切るようなこと、確実に重さが違うはずだ。
「……ならあんたが俺の立場だったら、家族との縁を切れるのかよ?」
「それはお前の立場になってみないと答えられないな……でも、『家族だから』とかじゃなく、単純に自分にとってより大切な方を選べばいいだけなんじゃないか?」
そう言ってくる成瀬の真っすぐな瞳に、俺はなにも言えずに俯いた。そんなに簡単な話なのだろうか。曲がりなりにも、やはり家族だ。もう一度一緒に住む話を断ったら、今度こそ大きな溝が生まれるだろう。この選択は、俺と家族にとって最も重大なものだと言えると思う。
運ばれてきた飲み物を口に運び、成瀬と目が合った。彼は俺の返事を急かすわけでもなく、同じように飲み物を片手に静かに微笑んでいた。
「成瀬、聞いてくれてありがとう」
「まあ、ゆっくり考えろ」
その会話を最後に、俺たちはコップが空になるまで何も話さなかった。喫茶店の時間の流れ方は、俺の心を驚くほど落ち着かせたのだった。
店を出て、成瀬と別れた。
気付けば時刻は正午をまわっている。時間を忘れられるほど考え込んでいたことに驚いたのと同時に、飲み物一つで長居してしまったことへの罪悪感が生まれて来たので、今度誰かを連れて来て、その時は食べ物も注文しようと密かに決意した。
このまま日輪荘に帰っても退屈なので、ついでに町を歩いてから帰ることにした。
昔から、足を動かしていると頭も回る気がする。気がするだけだが。
家族のことを考えながら歩いていると、忘れかけていたこの町への愛を思い出す。この町には、家族との思い出が数えきれないほど転がっている。
三十分ほど歩いて、とある公園に到着した。自然とここへ来てしまった。
この公園は人工地盤の上に作られた自然豊かな公園で、大きな池があったりテニスコートや野球場があったりと、運動施設も充実している。
小さい頃はここに連れて来てもらえるだけで一大イベントだったが、今ではこうして散歩のついでに来れる距離に感じる。広いようで狭い世界で生きてきたのだと痛感する。
公園の入口は坂を上った先にある。公園のすぐそばには、路面電車の駅がポツンと隠れるように点在している。その寂れた駅を横目に見つつ、俺は公園の中に足を踏み入れた。
ランニングをしていた人とぶつかりそうになる。池の周りを囲むようにランニングコースが敷かれている。公園のほぼ真ん中にある池の少し先に行くと、遊具などが置かれたスペースがある。昔、母にここへ連れて来てもらった記憶が蘇る。
夕方まで遊びつくして、母が「もう帰ろうね」と言ったとき、俺は帰りたくなくて大泣きした。
当時父と母は共働きで、母と一日中遊べることなんて滅多になかったから、それが嫌で大声で泣いた。でも母はそうは思わなかったらしく、俺がこの公園をよっぽど気に入ったと思ったのか「また連れて来てあげるからね」と言って俺のことを抱っこした。
俺は母に抱かれながら、幼いながらに「そういうことじゃないんだよ」と思った気がする。
そこまで思い出して、ようやく俺の葛藤の正体がわかった。
そうか、俺はあの家族が好きなんじゃない。妹亡き今、俺が好きなのは母だけなのだと。
そしてその母が俺に戻ってきて欲しいと思っている。だがあの家には嫌いな父と兄が居る。
こんなにも難しい選択が、今までの自分の人生の中であっただろうか。
だが、俺の心はもう決まりかけていた。
どんなに嫌いな兄が居ても、怪しい宗教に染まった父が居ても、それでも母のそばに居たいと思った。俺は、日輪荘を出て行く。
ベンチに座ってただただ公園を眺めていると、五時のチャイムが鳴った。
それだけ長く、母との思い出に浸っていた。またいつか、母とここに来たいと思う。
公園を出て、日輪荘まで歩く。帰ったらまずは岬さんに伝えよう。俺は実家に戻りますと。
日輪荘に到着すると、庭先に日葵が立っていた。いつものように向日葵を愛でているのだろう。
このすっかりお馴染みになった光景とも、もうお別れだ。そう思うと、少しだけ夕空が滲んだ。
「あっ、夏目さんだ〜お帰りなさい」
俺に気付いた日葵はやけに嬉しそうだった。これは何かを企んでいるときの顔だった。
「さあさあ、一〇一号室に行きますよ」
「いや、まずは荷物を置いてくる」
「いいからいいから〜」と言って日葵は俺の腕を掴んだ。俺は大人しく連行される。
一〇一号室の扉を開け、日葵が大きな声で「夏目さんのご帰宅で〜す」と言った。
そうして日葵に背中を押されるまま、いつもみんなで食事している居間に入る。
すると、破裂音のようなものが鳴り、紙吹雪のようなものが俺の眼前を舞った。クラッカーだ。
見渡すと、日輪荘の住人が全員集合していて、部屋も簡単な飾りつけが施されている。
「……俺の誕生日って、今日じゃないんだが」
「何言ってるんですか夏目先輩! 昨日できなかったお祝いですよ!」
雪乃が言っているのは、日輪荘の住人が全員揃ったことのお祝いの話だろう。
「……これじゃあ俺が主役みたいじゃねえか。てか、昨日やらなかったのかよ」
「全員揃ってないのにお祝いするのは、変でしょう?」
そう言った岬さんの言葉に、とりあえず納得した。海斗が手招きしていたので、いつもの定位置に腰を降ろす。すると、何故か川上が立ち上がって仕切り始めた。
「えー、ではこれで全員揃いました。みなさんグラスをお持ちください」
川上の半分ふざけた喋り方に女性陣から野次が飛んだ。
「ではでは……乾杯っ!」
「かんぱ〜い!」という声が部屋に響く。少し出遅れて俺も口にした。
がやがやしている一〇一号室を見渡して、俺はつい感動してしまった。これは、俺がずっと思い描いていた日輪荘の光景ではないか。みんな揃って、くだらない話題に花を咲かせるのだ。
「今日はみんなの好きな物が一品ずつ並んでるはずだからね〜」
岬さんの言葉に住人達は歓喜の声を上げる。食卓を見渡してみると、確かにおかずのバランスが偏っているような気がした。そして俺の好物もしっかりと並んでいる。
「そうそう、今日は見たかった番組があるんですよ! 岬さんテレビつけてもいいですか?」
雪乃の問いに岬さんが「いいわよ〜」と答えると、雪乃は嬉しそうにテレビを点けた。
お笑い番組が流れ始め、みんなでそれを見ながら食事をとる。
テレビ番組に時折東雲が難癖をつけ、それに対して川上や日葵が反論する。
雪乃は海斗にこの番組の面白さを力説していた。
成瀬は求人誌らしきものを膝の上に広げながら食事をして、たまにテレビを流し見していた。
そしてその光景を、岬さんがそれはそれは嬉しそうに見守っている。
……この空間が、驚くほど暖かくて、居心地が良い。俺の理想的な家庭の在り方だった。
だがこいつらは本当の家族ではない。俺には血のつながった本当の家族が居るのだ。
その家族を差し置いて、ここに居続けたいとは思ってはいけない。そう心の中で唱えた。
ふと視線を感じて部屋を見渡すと、岬さんがこちらを心配そうに見つめていた。実家に戻ることを、今この瞬間みんなの前で伝えようかとも思ったが、この楽しい場に水を差すのはよくないと思った。あとで岬さんだけに伝えに来よう。
「なーにしけた顔してるんですか、夏目先輩」
「そんな顔してない、お前は海斗にくっついてろ」
「だって〜日向先輩いま奈月先輩と川上先輩の三人で話してるんですもん」
「混ざればいいだろ」
「私の知らない話なんですもん」
「まあ、そのメンバーなら小説の話だろうな……日葵は?」
「成瀬先輩に勉強を教わってるみたいですね、ほらあそこ」
「もう食べ終わったのかよ……というか地味に珍しい組み合わせだな」
「まあそういうわけなんで、なにか面白いこと言ってください」
「お前それ最低最悪なパスの出し方だからな……テレビでも見てろよ、お前が点けたんだぞ」
「見たかった部分は終わったので。そう言えば最近、夏目先輩と日向先輩の漫才見てないなぁ」
「漫才ではないけどな、海斗とはいつかちゃんとした漫才を練習したいぜ」
「おぉ〜良いじゃないですか、これからの目標が出来ましたねっ!」
そう言って笑顔を見せた後、雪乃は俺にこう言った。
「だから、元気出してくださいね」
そう言ったときの雪乃の表情は、いつもの抜けたものとは違い、珍しく真剣なものだった。
「……海斗に似て来たな、お前」
「本当ですか? やったぁ!」
雪乃はまたいつもの調子に戻り、今度は岬さんに絡みに行った。
俺は雪乃に心配されてしまうほど切羽詰まっていそうな表情をしていたのだろうか。
いや違う、雪乃がそれほど他人の感情の浮き沈みに敏感になったのだ。そしてそれをさり気なくフォローすることが出来るような人間になったということだ。これも主に海斗の影響だろう。
俺は感慨深い気持ちに浸りながら、飲み物をちびちびと口にする。
窓から見える今宵の向日葵は、格別に綺麗だと感じた。
お祝いのパーティーが終わり、みんなで協力して片付けをした。準備もみんなでやったらしく、それに参加しなかった俺は気持ち多めに働かされた。だが俺がそれに対して文句を言わずに受け入れたものだから、みんなは俺になにかあったのではないかと心配した。心配してくれるのは嬉しかったが、普段の俺はみんなの目にどう映っているのだろうか……。
片付けが終わった後、一同は解散し各々の部屋に戻っていった。俺は残って岬さんと話そうかとも思ったが、そもそもこの部屋には日葵も居る。出来れば岬さんにだけ話したいと思っているので日葵が寝ているであろう時間になったら出直そうと思った。
部屋に戻り、床に横になる。あまりにも暇なので、天井を向いたまま隣の部屋に居るであろう海斗に向かって話しかけた。
「海斗、聞こえるか?」
「相変わらず壁には穴が開いたままですからね、嫌でも聞こえますよ」
「……楽しかったな、パーティー」
「そうですね、途中からは各自ばらばらに過ごしてましたけど」
「それでも同じ空間に居るだけで一体感はあるよな」
「はい、人が多いのも悪くないと思いました」
「……海斗、お前が頑張った成果だ。最初に俺たち二人で打ち立てた『みんなの心の傷を癒す』って目標も、もう達成したと言っても良いんじゃないか」
「……まだ、夏目さんが残ってますよ」
海斗のその言葉を受け、俺は反応に困ってしまう。結局隠し通すことは出来なかったらしい。
「……海斗、もし俺が日輪荘を出ていくって言ったらどうする?」
「それは、夏目さんが決めることですから……」
「出て行って欲しいか欲しくないかで言ったら?」
「なんですかそれ……言いませんからね」
「冷てえなぁ」
それ以降海斗は本当に何も言わなくなってしまった。寝たのだろうか。
日葵が寝たであろう時間になったので、岬さんと話すために一〇一号室に向かう。
部屋の前まで来て、部屋の明かりがまだ点いていることを確認した。
日葵を起こさないようにそっと形だけのノックをしてから、部屋に入った。
「岬さん、こんばんは」
「あら、夏目くん……そろそろ来ると思った」
「超能力者ですか」
「うふふ、そうかもね」
岬さんが手招きしていたので、それに従って居間に腰を降ろした。
「お茶淹れるね」と言って岬さんは台所へ。その背中を見ながら、俺は自分が日輪荘へと引っ越してきた時のことを思い出した。確か初めてここへ越してきた日も、こうしてこの部屋に招かれてお茶を振る舞われた。あれからもう三年以上か、感慨深い。
「夏目くんが引っ越してきたばかりの頃は、よくこうして二人でお茶したよね」
そう言いながら岬さんはテーブルにお茶を置いた。
「俺も同じことを考えてましたよ、なんか、今日まであっという間でした」
「あら、まるで卒業する学生みたいなこと言ってる」
「そのことなんですけど……俺、実家に戻ろうかと思いまして」
「ふーん、ここが嫌になっちゃったの? みんなが嫌いになった?」
「まさか。父が、戻ってこいと……母が寂しがっているらしくて」
「あら、そんなこと言ったら、夏目くんが居なくなったら私も寂しがるわよ?」
「それは嬉しいですけど、ほら、家族を優先するべきかと思って……」
「私たちは家族じゃないんだ」
「え? いや、だって血のつながりなんてないじゃないですか」
「血のつながりだけが、家族の条件なの?」
「岬さんの言うことは、たまに難しいですよ……」
「じゃあ、夏目くんの気持ちはどうなの? 帰りたいの?」
「……母のことは大好きですから、なるべく側にいてあげたいですよ」
「ならどうしてそんなに、苦しそうに喋るの?」
「……母は、本当に大好きです。でも父と兄は……正直言ってしまうと、嫌いなんです。それはもう、殺してしまいたいぐらいには」
「そっか……夏目くんがそこまで言うなんて、よっぽどなのね。それで悩んでるんだ」
「はい……」
「でもさ、お母さんは夏目くんが居ないと幸せになれないの?」
「どういう、ことですか?」
岬さんのその言葉が、俺の中で妙に引っかかった。その言葉の意味を考える。
「お母さんは、不幸そうだった?」
「……いえ、俺が居ないことを寂しがってはいましたけど、それ以外は順調だと思いますよ」
そこまで言って、俺は合点がいく。ああ、そうか。母は俺が居なくても生きていけるじゃないか。俺の大嫌いな兄と父が、母を支えていてくれる。母を幸せにするのは、俺の役目ではないのではないか。あの家に、俺は必要ないのではないか。
「……夏目くん、今日はみんなのお祝いパーティーだったけどね、みんな夏目くんの心配をしてたのよ……私たちは夏目くんが大好きよ」
俺は岬さんの顔を少しだけ見詰めた。それが、俺が大好きだった母のあの微笑みと重なる。
「私が言いたいのは、もうそれだけ」
岬さんの言葉を受けて、俺の中でようやく決心がついた気がした。
本当は最初からわかっていたはずだけど、どうしてもそれを認めたくなかったのだろう。
俺は岬さんに一言挨拶を済ませ部屋を出る。日輪荘の裏手側にまわった。ここなら誰も来ない。
俺はポケットから携帯電話を取り出す。登録している連絡先は一つしかなかった。
数秒間、耳元で発信音が鳴り続ける。その数秒がえらく長いものに感じる。
この時間ならもう寝てしまっている可能性もあったが、はやる気持ちを一刻でも早く伝えるべきだと思った。
まだ頭の中で言葉が整っていないうちに、電話の向こうから声が聞こえた。心臓が跳ねる。
「もしもし、俺、信二だけど」
「おう、どうしたこんな時間に。それにしても珍しいな」
電話をかけたのは実家の固定電話、父がそれを取った。父の声は少し嬉しそうだった。俺からの連絡で喜んでくれるのは、やはり親心というものなのだろうか。
「……あのさ、話があって。実家に戻るかどうかって話」
「おお、もう決めてくれたのか? それで、どうだ、帰って来るよな?」
父の語気が僅かに強まった気がした。ふと、この人の意見に反対したことなどないなと思った。
「いや、俺……実家には戻らない」
俺の、人生で初めての反発の言葉が、日輪荘の裏庭に響いた。少し声が大きくなってしまった。
「……とりあえず理由を聞こうか」
俺は思い浮かべた言葉を伝えるべきか悩んで、生唾を飲み込んだ。言おう、前に進むために。
「……俺、この家がずっと嫌だった。もう戻りたくない」
「なにがだ? 野菜しか食べられないのが嫌か、俺たち家族を救ってくれた宗教が嫌か、言わないとわからないだろ。お前の悪い所だ」
「全部だよ……凛香が亡くなってから変わった全てがだよ……」
「なんだ、もしかしてテレビを見せなくなったことに対して怒ってるのか? テレビは単なる洗脳装置なんだとあれだけ説明しただろう! あんなものを見ていてもなにも利益などない。しょうもないものを見る暇があるなら、もう少し世界の真実に目を向けたらどうなんだ!」
「違うんだ……違うんだよ、父さん……」
「なにが違うんだ? お前のためを思って言ってるんだぞ。確かお前は野球を見るのも好きだったな。スポーツなんて最も無駄なものだろう」
「俺は、それが憧れだったんだ」
「どれだ?」
父はあからさまにイラついているが、俺は父の言葉を聞けば聞くほどむしろ落ち着いて行った。
そうだ、これは決して暴力じゃない。父なりの愛なのだと、それを忘れてはいけない。
「その、しょうもないことで笑える家族でありたかったんだ……くだらないお笑い番組を見てみんなで笑って、休みの日は家族で公園に出掛けて、親子でキャッチボールとかをしてみたかった……たまの贅沢に良いお肉を食べて、そんな風に過ごしてみたかったんだ……世界の裏側や、真実なんてどうでもいい、世界の支配者の正体なんて興味ない……ただ、しょうもない家族でありたかったんだよ……」
言いながら、俺は溢れる涙を抑えきれなかった。途中何度か詰まりながらも、俺はずっと心にためていたものを吐き出せたと思う。震える声で、言い切った。
「……信二、さっきも言ったが、俺は優しさで……」
「わかってる。わかってるよ……ただ、優しさのカタチが違うだけなんだよ……ただ一つの、『本当の優しさ』なんてない。色々な優しさがあるだけなんだよな……」
「信二、何を言ってるんだ……俺はただ、一家の大黒柱としてみんなを支えたくて……」
「頑張ってくれてたんだろ……本当はわかってる、父さんも母さんも頑張ったよ……」
「……勝手に納得するな、母さんの気持ちはどうなるんだ……」
その言葉への返事を考えていると、電話の向こうで父が誰かと話し始めた。
「……信二、聞こえる?」
それは母の声だった。父から半ば強引に受話器を取ったらしい。母らしくないと思った。
「話、聞いてたよ」
「……そっか、ごめん、帰れない……帰りたくないんだ。出来れば、もう二度と……」
「うん……ずっと我慢してたんだね、ごめんね……私たちの優しさを押し付けちゃって」
「……こっちこそ、ついて行けなくてごめん」
暫く無言が続いて、お互いに何を言えばいいのか分からなくなる。
「……また、連絡くらいはするから」
「うん、そうして」
「じゃあ、切るよ」
「……うん」
最後、母が洟をすする音が微かに聞こえた。俺はそれを聞いて通話を終わらせることを一瞬ためらったけれど、俺自身が前へ進むために、通話を切った。
言いたいことは全部言えたと思う。普通の家族でありたかったという俺の告白は、両親を傷つけてしまっただろうか。
半ば放心状態の俺を、相も変わらず見守ってくれている夜の向日葵たちと目が合う。
その出で立ちに在りし日の母を重ねてしまい、今度こそ自分のしたことを自覚する。
もう、あの家には帰れないかもしれない。
帰ったとしても俺の居場所は今度こそなくなっているだろう。
あれほど距離を置きたいと望んでいたのに、不思議なほど虚しかった。
暫くその場から動けずに居た俺の背中に、声が投げかけられた。
「夏目さん、ここに居たんですね」
振り返れば、そこには海斗が立っていた。まだ起きていたのか。
「……さっきの質問、まだ答えていなかったので」
さっきの質問と言うのは、壁越しに聞いた「出て行って欲しいか欲しくないか」というものだろう。なぜ今それを言いに来たのだろう。
「どちらかと言えば、出て行って欲しくないですよ。日輪荘は夏目さんが居ないと……」
「居ないと?」
「面白くないです」
「面白くない、か。俺はお笑い担当として必要ってことか」
「というか、日輪荘を一番支えてる柱的な存在じゃないですか。自覚ないんですか?」
「俺だけじゃ不十分だろ、俺は、本当はただの臆病者だぞ……もう気付いてるだろ」
「夏目さんだけでは不十分な箇所は、別の人で支えるだけですから……人にはどうしても向き不向きがありますから、だから人は組織を作りたがるんじゃないですかね、支え合うために」
妙に達観しているような海斗を見ていると、俺はつい弱さを見せてしまう。
「……俺は、家族を捨てたんだ。いや、俺が捨てられたのかもな」
俺の唐突な呟きで、海斗は反応に困っていた。こうしてはっきりと弱みを見せるのは初めてかもしれない。海斗や雪乃の前では強くありたいと思っていたのに。
二人して黙り込んでいると、俺でも海斗でもない声が聞こえて来た。
「先輩たち、こんな時間にここでなにしてるですか?」
「夏目の声が部屋まで聞こえて来たぞ」
雪乃と成瀬だった。俺の電話の声が筒抜けだったらしい。
「部屋まで聞こえてたって、喋ってる内容もか……?」
「おう、ここは基本壁が薄いしな」
「そうか……」
俺はまた黙り込んでしまう。今まで被って来た皮を剝がされたような気分だった。
「……私達、みんな似た者同士ですね」
雪乃の言葉で、俺たちは視線を交差させ合う。
「みんな少なからず、どこかで自分を繕ってるんです。ほら、私達ってみんな無様じゃないですか。でも、無様でも良いと思うんです。負け犬同士、傷を舐め合いながら生きましょうよ」
「……家族ってことか?」
「というよりも、『群れ』ですかね……家族って言葉に縛られ過ぎですよ、夏目先輩は」
群れ。その言葉が、やけにしっくり来た。そうか、俺は家族に縛られていたのか。
きっと、家族というものは神聖で素敵なものなのだと、信じてやまなかったのだろう。
だが世の中には、家族という鎖から逃れることを望む者も居る。
世界には、家族の素晴らしさを訴えるようなメッセージが溢れているけれど、きっと例外は存在する。俺もそれに該当するのだろうか。
いや、しない。俺も両親も、お互いを思う気持ちだけは一緒だったはずだ。
ただ道が違っただけなんだ。目指す場所はきっと同じ。この世界はそんなすれ違いで溢れている気がする。無理に道を一つにする必要はない。別々の場所で、一定の距離を保ちながら生きて行けばいい。……そしていつか、別々の場所で、同時に幸せになれたら良い。そう思った。
「夏目先輩、そろそろ戻りましょ」
「……あぁ」
俺はようやくその場から動き出した。
一瞬、家族みんなで過ごした楽しい記憶がフラッシュバックした。もう戻れないあの頃を想う。
だが、こいつらが一緒に歩いてくれるのなら、俺はまだ生きていける気がする。
「夏目」
歩き出した俺に近付いて、成瀬が笑顔で話しかけてくる。
「群れって、美しいんだぞ」
「……何の話だ?」
「いや、深くは考えなくていい」
この成瀬の言葉の意味が、いつ理解できる日が来るのだろうか。
だが今はとりあえず、視界に映る向日葵がやけに美しかった。
家族とは尊くて大切なものなのだと教えられてきた。
誰かに直接そう説かれた訳ではない。この世界の教育や、歌や映画だってそうだ。
家族は大事にするもの、両親には恩返しをするもの。それが世の『常識』なのだ。
一口に『家族』と言っても色々あるとは思う。だがいわゆる血縁というものは、そう簡単には切れない鎖ではなかろうか。それは前向きな意味でも、後ろ向きな意味でも。
だが今なら思う。切る必要なんてない。伸ばせばいいんだ。引っ張ってでも、継ぎ足してでも。
距離を置いて、いつかもしかしたら、鎖を切りたいという気持ちも変わるかもしれない。
それまでは、負け犬たちで群れてみようと思う。
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