鯉太郎は龍になりたい
澁澤 初飴
第1話
滝を昇り切れば龍になる。
そんな伝説を知っているだろうか。
僕、鯉太郎(八十八歳)は少し前に人間がそんな話をしているのを聞いた。僕たちが水面でぱくぱくしているのは、何も麩のためだけではないのだ。
物知りの花子お姉さんに聞いたところ、それは中国の伝説で、中国にある急流を昇らなければならないらしい。
僕は池に住んでいるから、中国には行けない。もし川に出られても、日本は島国だから海を渡らなければならない。僕は淡水魚だから、おそらく泳いでは渡れないだろう。
龍とは、この池からも見える山門に彫られたカッコいい長いやつだ。いつも煙をまとっているから何だろうと思ったら、あれは雲を表現していて、龍は空を飛べるから雲を引き連れているらしい。
僕は空には詳しい。いつもよく見ているから。多分池の外は大部分が空だ。僕はたまに飛び跳ねて確認している。空に行きたいな、と思って頑張って飛び上がるけれど、まだ一度も空に届いたことがない。
だから、僕は龍になって空を飛びたい。きっと空の水は、ここと違った味がするだろう。
僕は取り敢えず、池に流れ込む滝を昇ることにした。しかし、いくら泳ごうとしてもこの小さな滝は泳ぐほどの水が流れてこない。
僕はまた派手に水飛沫を上げて池に落ちながら、どうしたものかと思案した。
二十年くらい前に、池が溢れて仲間が散り散りになる程の大雨が降った時は、滝もけっこうな水量になっていたっけ。あの時この伝説を聞き知っていたら。
空は青く、そううまく大雨は降りそうにない。
僕はまた飛び上がり、落ちた。
泳げるだけの水量さえあったなら、僕はどんな急流でも昇り切ってみせるのに。
飛び上がるだけではどうしても滝の上には届きそうにない。僕は諦め切れずにまたジャンプした。
その時だった。
最高点に達したと思った瞬間、体がぐっと空にさらわれた。
「わあ!」
もちろん心の声だが、僕は叫んだ。
何だ?何が起こった?
わからないけど僕、飛んでる!
いやっほう、とはならなかった。苦しい。空は苦しい!水は、水はどこだ。
僕はぱくぱくしながら、眼下に広がる信じられない風景を見た。
あれが僕が住んでいた池?あんなに小さい水溜まりが。まわりのものは何?わからないけれど、ものすごく、世界は広い!そして、それを取り巻く空って、ものすごくものすごく広い!あと苦しい。
僕は一体どうしたんだろうと思って上を見ると、鳥が僕をしっかり掴んでいた。
鳥!魚を食べるとは聞いていたが、鯉は食べないと思っていたのに!
ああ、僕はこんなに広い世界を知ったのに鳥に食べられるんだ。けれど、こんな広い世界を知れただけで幸せなのかもしれない。あと百年もあの小さな池を世界の全てだと思って生きるより、ずっと。
僕はせめて目に焼き付けようと世界を見た。もとよりまぶたなんてものはない。
世界は、なんて色々なものがあるんだろう。鳥はなんて速く高く飛べるんだろう。鯉はどうして空ではこんなに苦しいのだろう。そして龍は、長いなあ。
「鳥、せっかくのごはんを申し訳ないが、それは私の兄弟だ。離してやってくれないか」
鳥は目の前の龍に仰天し、僕を離した。僕は苦しさのあまり気が遠くなっていたから、助かって嬉しがることも、落下を怖がることもなかった。
落ちる僕に龍が話しかける。
「君が滝を昇ろうとしているのをずっと見ていたよ。応援しているよ。諦めないで、昇るんだ。僕もそうして龍になったよ」
どぼん、と体にものすごい衝撃があって、僕は我に返った。
ここは、もとの池だ。仲間が心配そうに寄ってくる。花子お姉さんも泣き出しそうだ。
僕は少しだけぼんやり腹を上にして浮いた後、こうしちゃいられないと思って滝を目指した。
僕は世界を見た。そして、龍を見た。
滝を昇り切れば、龍になれるんだ。
花子お姉さんが私はあなたの倍は長く生きているけれど、そんな鯉見たことも聞いたこともないわ、と呆れている。僕はそんな花子お姉さんに見せてあげよう。僕が龍になるところを。
だから、あなたが池でやけに飛び跳ねる鯉がいるなと思ったら、それが僕、鯉太郎です。
あなたも僕が龍になれるように応援してね。そうしたらあなたの目の前で僕は龍になれるかも。
鯉太郎は龍になりたい 澁澤 初飴 @azbora
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