春を呼ぶ

甲池 幸

第1話

 月の綺麗な夜だった。真冬というほど寒くはなくて、でもシャツ一枚で外にいるにはまだ少し寒すぎる、そんな冬の終わりの夜。白く濁ることのなくなった息を吐き出して、春瀬はるせは公園のベンチに横たわる。見上げた夜空は満月のせいで星が霞んでいて、願うことすら許されないのかと自嘲気味に笑う。

「わたし、きっとあなたを殺すのよ」

 声に出してみる。愛おしい、あなた。やさしい、あなた。それでも、許せないあなた。心臓に冷たい空気が染み入るように、心が白く痛んだ。

「それでも、きっと僕は君を愛すよ」

 届いた声にゆっくりと体を起こす。ふわふわのニットに、細身の体を包んだ雪羅せつらが立っていた。その柔和な笑みを見るだけで、胸が詰まって泣きそうになる。息も出来ないくらい、鮮烈に、恋をしていた。せめて笑っている顔を覚えていて欲しくて、どうにか顔を歪める。

「わたし、あなたを一番に愛せないの」

 雪羅が優しく春瀬の薄紅色の髪を撫でつける。細い髪の間をすり抜けていく指が好きだった。

「うん。知ってる」

 雪羅の指が春瀬の頬を撫でる。雪のように冷たい、冬を呼ぶ彼特有の温度。凍傷にならないように、彼は絶対に同じところに長い時間は触れない。傷すら残してくれない薄情なところが嫌いで、そんなところまで全部好きだった。

「わたし、あなたが好きよ」

 この世界の誰よりも。

「それでも、わたしはあなたを許せない」

 雪羅が雪羅であるというだけで、春瀬は彼を許容できない。

「いいよ」

 雪羅はなんでもないことのように、春瀬を許す。その甘くて、優しくて、とびきり残酷な声も、どうしたって嫌いにはなれなかった。

「いいよ、春瀬」

 雪羅がまるい声で春瀬を呼ぶ。それだけで世界の誰より幸せだと思えた。悲しくないのに涙が溢れて、春瀬は俯く。拭われた雫が彼の指先で氷になるのが綺麗で、思わず見惚れた。

「君は、これが好きだね」

 雪羅が可笑しそうに笑う。その笑顔をせめて脳裏に焼き付けたいと思うのに、涙で視界が滲んで、そんな些細な願いすら叶いそうになかった。

「馬鹿ね、あなたが好きなのよ」

 茶化して言えば、今度こそ雪羅の顔も歪んだ。涙は零れる前に氷に変わってきらきらと宙を舞う。泣きながら互いに手を伸ばしあう二人を、満月だけが密かに照らす。春に芽吹く若葉の匂いと、新雪の済んだ匂いが二人の間でつかの間交わって、空気に溶けていく。春瀬は少し背伸びをして、雪羅の頬に触れた。蕩けるように視線が絡む。

「僕も、君が好きだよ」

 知ってるわ、と返そうとして、それは蛇足だと飲み込んだ。ゆっくりと目を閉じる。冷たい唇の気配がして、ゆっくりと重なって、春瀬は目を開く。

 目の前で桜が咲く。

 役目を終えた雪羅の体は春に殺されて、全身が桜の花びらに変わる。舞い落ちる花びらを風が攫って、とおく、とおく、春を運んでいく。満月の下、公園の桜が一斉に咲き始める。街が薄紅色に色付いて、冬が、春に塗り替えられていく。優しい声も、冷たい温度も、もうどこにも無い。

 全身でむせび泣きながら、それでも春瀬は歓喜していた。浅ましく、醜い、欲望が満ちていく。春が来た。それだけで、生涯に一度の恋も、愛おしい人も、すべて掛ける価値がある。価値があったと春の匂いを浴びながら思う。

 愛おしい、あなた。やさしい、あなた。

 今年も、春は美しく、あなたを喰らって芽吹くのです。

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