白い夏の日

ぺんさん

白い夏の日

 また、夏がやって来た。


 太陽が全てを焼く季節、つまらない仕事を早退してやって来た病院で、受付を顔パスで通り抜けていつもの病室へ歩く。足取りは軽くはない。暑さの疲れ、仕事の疲れ、それから精神的な疲れで背中を丸くして歩く。

 目的の病室、静かに扉を開け、こんこんと眠り続ける人のベッドの隣に折り畳みの椅子を用意して腰かけた。

 白い病室の壁をさらに白く照らす夏の陽は強過ぎて、俺は思わず立ち上がって窓にかかっている白いカーテンを閉めた。カーテンは真っ白というよりは生成りのような色をしていた。淡い褐色の頬を照らしていた光をその薄い布で遮ると、彼の顔色は少し青褪めて見えた。

 点滴を交換に来た馴染みのナースが、

「今日はご機嫌そうですね」

 なんて本気か嘘か判らないことを言う。

 俺は曖昧に頷き、優一の顔をのぞき込んでみるのだが、どうしてもご機嫌そうにも不機嫌そうにも見えずに戸惑った。どうして俺にはこいつの感情が読み取れないのだろう、と首を傾げる。ナースよりはどう考えても優一との付き合いは長いはずなのに、起きていない彼の表情を俺は読み取れない。

 優一が眠ったまま目覚めなくなって、何年かが経った。三年より前は覚えていないから、少なくとも三年以上は経っているということだろう。俺の年齢から逆算することも出来るはずだが、それをしても虚しくなるだけなので、俺はいつも直近三年以上のことは忘れている。


 ほぼ毎日のように訪れる病室には、優一の私物はあまりなく、小型テレビのついているサイドテーブルの上には、俺の本やノート、暇つぶしのMP3プレーヤーなどが置いてあるばかりだ。家から持って来た揃いのマグカップも、ふたつとも持って来てはみたものの、実際使われるのはひとつだけ。俺のものだけだ。優一のマグカップはただ置かれているだけで、たまに気まぐれで俺が買って来る一輪だけの花を、短く切ってそこに花瓶代わりに活けたりしている。そんなものはすぐ枯れてしまうけれど。

 優一は喉の下に開けた穴から高カロリー輸液を入れられ、腕からは点滴を打たれ、そのままずっと眠り続けている。どうしてこうなったかは調べても判然としないらしい。これから彼が目覚めるかどうかも判らないらしい。詳しい話を聞いた気もするが、頭がいまいち理解を拒んでいるようで、全てが『らしい』のレベルになってしまっている。

 優一の家族は既に彼をほとんど諦め、全権を俺に委任している。もしも俺がこれ以上の延命を望まないなら、優一の命を俺が終わらせてもいいと頼まれてもいた。ごくたまにお見舞いに来るお姉さんも、最初のうちこそ希望を持った笑顔でいたが、最近は来る頻度も低くなり、来たとしても病室には入りたくないと悲壮な顔で言うほどに、寝ている優一を見るのを拒む。お父さんはひとり息子に起こった出来事が信じられず、そのまま精神を病んでしまった。お母さんはお父さんの世話をするのに必死で、病院にはほとんど来られていない。つら過ぎて来られないというのも実情だとは、お姉さんの談だ。

 俺はと言えば、わりと早いうちからつらいという感情が麻痺してしまっていて、どうして自分がここに通わなければならないのかすら見失いそうになることがある。

 エアコンの効いた部屋、ブランケットを膝にかけ、仕事のない日は日がな一日本を読んだり音楽を聞いたりしながら、そうしてベッドの脇に座っている。


 優一の横顔は笑いもしないが悲しみもせず、苦しい顔も見せはしない。

 俺のことも見ないが、その代わり、ほかの誰かによそ見することもない。まあ、優一に意識があったとしても、あいつは絶対によそ見なんてするような奴じゃないんだけれど。

 思い出した強いまなざしを寝ている優一に重ねてみても、決してそのまぶたは自然には開かない。


 ふと見ると優一の口唇が乾いている。俺はサイドテーブルの引き出しからワセリンを取り出し、自分の指で彼の口唇にそっと塗りつける。その口唇の温度、その柔らかさ、思い出すことはたくさんあるのに、その全てがぼんやりとしていて、掴み取れない記憶の渦が俺の中にたくさん生まれていく。

 初めてキスをした橋の上、みんなから隠れたビーチ、屋上のベンチ、口唇を重ねたいろんなシーンが渦の中にぐるぐると回っている。

 付き合い出してからの思い出は、夏がことのほか多い。優一のバイクに二人乗りして行った夜の海、たまにはアウトドアなことをしようなんて、虫の多い山の中で無理やり決行したキャンプ、初めて買った俺の車でビーチへ行くつもりが、途中でエンストしてふたりで汗だくになったなんてこともあった。

 水族館みたいに頭の中に泳ぐ記憶をひとつひとつ捕まえて確認するたびに、俺はひとりで笑ってしまう。

 ひとしきり思い出を楽しんだあとに必ず訪れるのは、初めて病院に来たとき、じりじりと強い夏の陽に焼けたアスファルト、それから陽の光を無情に照らし返す巨大な白い建物、その後ろに控える場違いな青空の光景だ。

 もしかしたら二度と目覚めないかも知れない優一の元に通い続けるのは、どんなに低い確率でも彼が目覚める可能性があるならば、彼が目覚めて最初に見る人間が俺でありたいと思うからだ。

 時が経ち、優一を囲むものが全て変わってしまっていたとしても、家族さえ変わってしまっていたとしても、俺だけは変わらず優一のそばにいたと安心させてやりたいからだ。

 だから俺は、絶望の淵にいるときも、そこから飛び降りることは絶対にしないし、存在意義があやふやになることがあってもここへ通うのをやめない。


 たまに、伸びた髭をシェーバーで剃ってやる。

「かっこよくなったな」

 やつれた頬を撫で、手を握る。その手に頬を寄せるが、涙はもう枯れた。笑顔もそろそろ枯れそうだ。

 俺は淡々とそんな日を繰り返している。三年よりもっと。

 夏の日に、エアコンの壊れた部屋で交わったときの彼の重み、滴った互いの汗。

「涼」

 行為のときだけ変わる呼び名、その声が頭の奥底にずっと響いている。

 俺も優一も、痩せてしまって交わした指輪がぶかぶかだ。サイドテーブルの引き出しに、ケースに並べてしまってあるそれを、暇に任せて眺めることもある。


 夏の陽はカーテン越しにも俺の髪を焼いた。そして俺の心も夏に焼かれた。

 静かすぎる病室は、俺の描く夏の思い出で満たされた。

 美術館のようにその思い出ひとつひとつを額に入れて、白い壁に飾る。

 いつでもいい。このどれかの中に帰れるならば、俺は悪魔の誘いにだって乗る覚悟があるのに、悪魔も天使も俺たちを避けて通って行く。


「優一」

『どうしたんです、涼先輩?』

 返事はない。

 それでも聞こえる気がして呼びかける。

 あと何度呼びかければ、優一に届くだろうか。

 いつかお前ともう一度、スニーカーの底が溶けそうに熱い夏のアスファルトを踏んで笑い合える日が来るとしたら。過去に戻りたいと思わない日はないが、俺はこれからのお前を待とうと思う。


 お前が目覚めて俺を見たら、お前のいないあいだにあったことを、面白おかしく話してやろう。つらかったことも、苦しかったこともなんにもなかったことにして、お前をただただ笑わせてやりたい。

 そのときは俺も、笑顔も涙も取り戻して、お前にいろんな顔を見せてやりたい。俺もお前のいろんな顔が久々に見たいから。

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