Life Goes On

常陸乃ひかる

88th birthday

 今どき、八十八歳まで生きたいと思っている若者は少なそうです。

 とはいえ、昔に比べて長命の時代になっているので、自決や病死を望まない人は、諦めて資産運用をしましょう。

 そういえば、米寿にまつわる小話がひとつ。

 が二十代半ばの時、ある旅先で出会ったのは、立派な老人でした。



 あす、八十八歳を迎える男が居る。

 名は腕木うでぎと言い、戦中を生き抜いてきた猛者だが、今でこそ左手で黒漆くろうるしつえをつく老いぼれになってしまった。

 腕木は昨今、生まれ育った『昭和商店街』が、文字どおり昭和の軸で止まり続けていることに懸念を覚え、すっかり治安が悪くなった商店街の再開発を望んでいた。

 そうして本日も、薄暗い赤提灯がその役目を果たす刻がやってくる。

 腕木にできることは自警団のひとりとして、町を見回ることくらい。今夜も、相棒でもある黒漆の杖を携えて昭和商店街へと足を運んだ。五分もすると、小柄な男といかついモブ男が対峙している場面に出くわした。

 どちらも余所者の顔である。片方は観光客、片方は流れてきたチンピラか。金属バットを持ったチンピラがキャンキャン騒ぎ、小柄な男はポケットに手を突っこんだまま睨みを利かしている。


 まったく、他人の喧嘩はいつ見ても気分が悪くなる。

「なあ、お前さんたち。やるならワシとやろうや」

 腕木は喧嘩両成敗をモットーに、ゆったりとふたりの若者へ近寄った。

「邪魔すんなジジイ! てめえからぶちのめすぞ!」

 すると我先に、チンピラが喧々と金属バットを振り上げ、腕木に迫ってきたではないか。が、場数が違いすぎる。チンピラの動きはまるで子供だった。バットを振り下ろすのに合わせ、左手で握っていた黒漆のグリップを右手で掴むと同時に、仕込み杖からの一閃が生温い夜気を裂いた。

 その場に残ったのは金属同士の余韻と、両手で握られたバットのグリップだけで、ヘッド部分は悠々と宙を舞っていた。シワの多い右手はすでに返され、峰が鞘の上を滑り、金属が地面へと転がる時にはもう切先が鞘に収まっていた。

「おぉ、仕込みですか。わっちも持ってますよ」

 ゆっくりと納刀のうとうしてゆく最中、小柄な男がぼそっとつぶやくと、呆然と立ち尽くすチンピラの背後へ忍び寄り、その背中へとスマートフォンを押し当てた。すると、たちまち大きな体は崩れ落ちてしまった。

「これ、スマホカバー型のスタンガンです」

 へらへら笑いながらタネを明かし、チンピラの体が跳ね上がる。何度も、何度も。

「やめとけ。本当に死ぬぞ」

「ゴミに命なんてありませんよ」

 小柄な男は真顔でチンピラを痛めつける。その目は、コーヒーをマグへ注ぐくらいの感情で、日常のごとく――

 腕木がふたたびグリップを握ると、小柄な男は殺気を感じたように、スタンガンのスイッチを切り、たちまち腕木との間合いを取ってしまった。

「わっちのスマホは斬らないでくださーい」

「な、なんだお前は……」

「わっちは美濃和みのわ。美濃ごんと呼んでください。どうでしょう、助けてもらったお礼に一杯奢らせてくださいよ」

「美濃ごん? ワシは腕木うでぎだ。奢りならその行為に甘えるまで。行きつけがある」

 恐ろしい奴だと思った。が、腕木はこれほど危機管理能力と度胸がある男にこそ、心底関わってみたいと思ってしまったのだ。


「――再開発ですか」

 壁に昭和のポスターが大量に貼られた、馴染みの酒場のカウンター。

 美濃和は猪口ちょこを両手で握りながらちょっとずつ、

「駅周辺は近代化してるが、この商店街だけ見捨てられて掃溜はきだめ状態。ワシが死ぬまでに、治安の良い昭和商店街を見たいもんだ」

 腕木はジョッキを片手で豪快に。

 ふたりは初対面とは思えないほど、あーだこーだと愚痴を言い合った。その中でも盛り上がったのが、商店街の事情である。

「商店街で誰かが襲われれば、市政も動くのでは? もしかして、わっちは被害者のひとりになり損ねた?」

「縁起でもねえこと言うな。誰かを犠牲にして平和になったって本望じゃねえ」

「誰かが犠牲になり多くが救われるなら、それはやるべきだと思いますがね」

「ははっ! 言ってくれるねえ! よしオヤジ、ビールもう一杯追加だ!」

「悪態に対する答えがタチの悪いのなんのって……」

 とはいえ、美濃和の言うことが尤もなのは心得ていた。

 今でこそ、十人ほどの年老いた有志が自警団として昭和商店街を守っているが、それもいつまで続くかわからない。十数年後に被害者が出て、初めて再開発計画が進むようでは――

「なあ、美濃ごん? いつまでこの町に居るんだ?」

 ふと、美濃和という男の素性が気になった。現在、有給休暇を使って一人旅をしていると言っていたが、どうもまともな人間には見えないのだ。

「飽きたら帰ります」

「そうか。実はあす、ワシのばーすでーなんだよ。自警団の仲間が祝ってくれるって言うんで、良かったら来てくれよ。夜、この店でテキトーにおっぱじめてっから」

 そうして腕木は、話すつもりのない内情までも口にしてしまった。

「それはおめでたい。では、都合が良い時間にお伺いします」

 美濃和という男は、どこまでも話しやすく、どこまでも聞き上手なのだ。


 翌晩。

 米寿にもなってお誕生日会なんて照れくさいが、同じくらいの仲間たちがドンチャン騒ぎし、それに交じって美濃和が減らず口を叩く構図が楽しくて仕方なかった。

「腕木さん、そんなに生きてたんですね」

「あぁ、人生はこれからも続く。ライフゴーズオーン? って言うんだろ?」

「いや、ちょっと意味が違います。“Life goes on.”の本来の意味は――」

 美濃和が生意気に英語の解説をしようとしたところ、店の外から雄叫びが聞こえてきた。汚い声に被さり、腕木の端末の着信音が鳴った。

「どうした……今の声は? なに、何人くらいだ? わかった、すぐ行く」

 電話に応じると、自警団メンバーからのヘルプ要請だった。

「不穏そうですね」と美濃和が目つきを変えるのに合わせ、腕木は杖を取ると席を立った。

「昨日のチンピラが仲間連れて、暴れ回ってるらしい」

「あのゴミクズですか。わっちも一緒に――」

「いや、昨晩の件がある。客人は隠れててくれや。なあ、美濃ごん?」

 美濃和の善意は嬉しかった。が、これは町の問題である。

 不服そうな彼を残し、腕木が商店街の一角に向かうと、二十人ほどの若い半グレたちがたむろしていた。が、半分はもうノックアウト状態でタイルに転がっている。どうやら先に到着していた自警団メンバーが、片づけてしまったようだ。

「ワシが出る幕がねえな」

 仲間たちが「大袈裟に言って悪かった」なんて笑っているうちに、残った半グレは逃げ出し、それをかき分けるように姿を現したのは例のチンピラだった。本日は武器を持っておらず、そうかと言って臨戦態勢を取ろうともしない。

「ガキが性懲りもなく。今度は本当にぶった切んぞ?」

 腕木が笑いながら挑発すると、

「死ぬのはてめえだクソジジイが!」

 昨晩と変わらぬ罵声が飛んできた。芸のない男だ――冷笑を返そうとしたところ、チンピラの懐から出てきたのは三十八口径のオートマチックだった。

 ――若い頃なら、振るった刀身で銃弾の軌道くらい変えられただろうか?

 そんな夢物語を考えた時点で、もう遅かった。脇腹が異常に熱いのだ。痛いのではなく、ただただ熱くて、両足で立っていることもできなくなっていた。

 腕木は膝から崩れ、杖を抱えるように横になってしまった。銃声があとからあとから聞こえてくる。

 チンピラが相変わらず、なにか叫んでいる。が、耳がよく聞こえない。

 自警団の仲間がチンピラを威嚇している。が、しっかり耳に入ってこない。


「――腕木さん! なんで……!」

 ただ、この男の声だけはやけにクリアに聞こえる。

 横たわった身体に響く駆け足が側で止まると、チンピラの脅威なんてお構いなしに、美濃和はしゃがみこんで、腕木の手を握って叫び続けていた。無感情な彼が、ここまで迫真の声が出せたなんて嬉しい発見である。

「う……撃たれちゃったよ、美濃ごん……」

「誕生日が命日なんて、今日日きょうび流行りませんよ!」

「なあ、これで……再開発も叶うかな? だったら、本望かもな……」

「そこまでして、ここにこだわる理由ってなんですか!」

「生まれた町を良くしたい。そう思うのは変なことかい? なあ、美濃ごん?」

 力強く握った相棒とともに逝けるのもまた本望かもしれない。

「わっちにはこだわりがないんで。ただ、ひとつわかるのは――」

 チンピラが後ろから近づいてくる。一歩、また一歩。銃口を美濃和に向けたまま、じっくりと狙いを定めている。

 美濃和はもう、死を覚悟しているのだろうか? いや、違う。

 その若い目には――感情がなかった。無感情の怒りが、ひしひしと宿っていた。だから、力強く手を握ってくれる彼の意志を悟った。

 腕木は抱えていた仕込み杖の角度を変えながら鯉口を切ると、ほどなくグリップが色白の手で握られ、後方を一切見ず、鞘走る刀身は宙で曲線を描き、それでもって無駄のない一閃となり、逆袈裟からチンピラの胸元を斬り裂いた。

「ゴミに命はないってことです」

 この時もう、腕木にほとんど意識はなかった。

「形見にさせてください……」

 けれど、美濃和には微笑みかけているつもりだった。

 孫ほどの男にねだられては、断るわけにもいかなかったのだ。


 数年後。

 昭和商店街は名前を変え、ショッピングモールとして生まれ変わった。

 けれど、その商業施設を利用する若者たちは、八十八歳でこの世を去った功労者の名なんて知りもしない。

 それを心に刻んでいるのは、彼の黒漆塗りの杖を持って、どこかをうろついているであろう、あの男くらいなものである。


 “Life goes on.”

 ――辛いことがあっても人生は続いてゆく。


                                   了

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