夏の午後の物語

つちやすばる

ただの小説

 日本文芸小説賞の受賞式に参加するために、僕は春もやのたちはじめた強烈な光のさす歩道橋を、紺いろのスーツで汗をかきかき、乗り換えのためにとくに混んでいる人混みをさけながら歩いていた。こういうときはタクシーを使うべき。そんな声が担当の声で自分の頭に浮かんだ。なんとなく人に会いたくない気分だ。こうして歩いてれば、そのうち気が晴れる。自分なりの算段で、時間に余裕を持って会場に向かっていた。

 会場はここ数年で巨大な施設へと変容したアクアシティの43階にある。S駅の地下鉄からエレベーターで直結していて、いくつかある最寄り駅からは、中2階にある遊歩道を経由すればビルはすぐそばだ。僕はわざわざ街道沿いにぽつんとあるY公園駅まえから歩いていった。なぜならS駅がきらいだからだ。根拠はなし。

 43の数字のボタンをおし、エレベーターのドアがやけにスローモーションで閉じたかと思ったら、すぐに14、15、16とつきつぎと数字がオレンジ色のまま変化していく。少し急いだせいか汗だくで、ヘアスタイルも乱れて、紺いろのスーツと相まって新入社員研修に参加したあとのサラリーマンみたいだ。新入社員。そういえばきのう家の近所で見かけたひとたちは、夕方になっても新鮮なレタスのようにきちんとして、仲間とお行儀よくケーキ屋のガラスケースのまえに並んでいた。30代くらいのシャツの腕を捲った男性はそれを、なんとなく見つめていたっけ。穏やかで優しい光景。顔には出てなかったが、新人には優しいのかもしれない。いやそんなことはわからないが。

 こんなに汗をかいてたら、誰かに指摘されるかもしれない。どうでもよいことだが、指摘されるまえに直したほうが気分的にもラクだ。会場に入るまえにトイレよっとこ、と僕はみんなで数字のランプを見るのをやめて(どうして一緒になっておなじことをしてしまうのか)、頭を横に反らして、自分の小ぶりで細長い革靴を眺めた。まるで、外国のこどもみたいな靴だ。古い映画に出てくるような。ふだん履いてる白いズックのスニーカーとはちがう真新しさ。たっぷりと時間をかけて眺めていると、43階まであっというまにたどり着いた。エレベーターも革靴も毎日見てたら発狂するだろうな、と僕はあらためてまわりのメンバーを見回したが、一見しただけではそれはわからなかった。第一、このあたりの会社はからっぽの本社ばかりだ。誰も汗だくで働いてなどいない。平日の昼間からこの近くの文化施設はちらほらと会員証をぶら下げたひとが絵を見上げていたりする。つまり、そういうところなのだ。

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