88が怖い。【KAC20225 88歳】

雪うさこ

米寿




 人生には、様々な節目がある。特に厄年は有名だ。その年になると災厄が降りかかるというものだ。人はそういったものに敏感だ。厄年には、神社仏閣に出かけていって、お祓いなるものをしてもらう。そんなことが日常行われているものだ。


 それと併せて、長寿祝いというものがある。還暦、古希、喜寿……。厄年とは違い、こちらは喜ばしい行事になる。家族が集い、盛大な祝いをする人もいるということだった。


「ねえねえ、聞いた? 高村さんね。米寿だってお祝いして一週間くらいで、急に具合が悪くなってぽっくり逝ってしまったんですってよ」


「えー。そんなことってあるのかしら」


「あるみたいよ」


 地域のサロンで、女性たちが噂話をしていた。紙コップで茶を飲みながら、そんな話を耳にしていると、隣にいた鈴木さんが、私に言った。


「祝いなんてしてもらわないほうがいいんだ。この前、カミさんの母親がね。百歳になるって言うんで、親族一同で温泉旅行に泊まる計画をしていたんですよ。ところが、その一か月前になったらね。急に体調崩しちゃって。入院して、結局はそれっきりだ。カミさんと、祝いなんてするもんじゃないねえ、って言っていたところだ」


「なんだろうね。そういうのって。喜ばしいことなのにね」


「長寿の祝いって、なんだか不吉だね。——って。そろそろ齋藤さんは、米寿じゃないですか」


「あと二か月でね。八十八ですよ」


「気持ち確かにね。気をつけてくださいね」


 鈴木さんは笑みを見せていた。しかし——私の胸の内は不安しかない。この不安はなんだろうか。米寿がなんだ。別になんてことないじゃないか。誕生日など、何度も経験してきたが、なんの変哲もない、いつもと変わりのない一日に過ぎない。誕生日が来たからと言って、急にそこで階段を上がるように成長したり、老いたりするわけではない。緩やかな坂のように、少しずつ、少しずつ進んでいくのだ。


 しかし、この節目の誕生日というのは、格別だ。まるで、その日を迎えた途端に、その年齢として見られるのだ。


 ——私は米寿の誕生日が怖い。


 友人の藤田は、米寿の誕生日を越えてから、めっきり老け込んで認知症になった。今では、会っても私のことが誰だかわからないようだ。


 自宅に帰り、靴を脱いでいると、そばにあった黒電話が鳴った。受話器を持ち上げると、相手は息子だった。


「父さんの米寿の祝いの件なんだけど。光子が温泉を予約したっていうからさ。予定空けておいてよ。隆も東京から戻ってくるって。家族勢ぞろいになるぞ。楽しみにしていて」


「祝いなどいらん」


「なに言っているんだよ。みんなせっかく予定つけているんだぞ。そんなへそ曲がりなこと言わなくたって」


「いいや。米寿の祝いなんてされたくない。私はそんな年ではないんだから。お前たちだって忙しいんだ。無理に予定をつけてもらうなんて、そんなことはできん」


「父さん? あのねえ、せっかくの好意を無碍にするもんじゃないよ」


「そんな押しつけがましいことはいらん!」


 受話器を叩きつけると、チンと音が鳴った。その声に妻が奥から顔を出す。


「まあまあ、なんの騒ぎなんですか」


「哲也だ。私の米寿の祝いをするとかなんとか、余計な真似をしてくれる」


「哲也だって忙しいのに、骨を折ってくれているんですよ。米寿なんて、とっても喜ばしいことじゃないですか。せっかくなんですから、黙って好意を受け取ったほうがいいのではないですか」


「うるさい! 私はそんな年ではない!」


 ——そうだ。私は、まだまだ現役でいたいのだ。私は、大学で教鞭をふるっていた。まだできる。まだ現役だ。


 面白くない気持ちになった。妻ともそれっきり、口も利かなくなった。私は、書斎に引きこもるようになった。会う人全てが、私の米寿の話をする。もううんざりなのだ。年を重ねてきたことは、自分がよく理解している。人に祝ってもらう必要などない。八十八まで生きたことがめでたいなんて、誰が考えたことなのだろうか。長生きなどするものではない。ただ、老いを突き付けられているだけだった。



 ***



「父さんは?」


 扉の向こうから、哲也の声が聞える。妻が「また書斎なの」と答えた。二人は私が聞えていないと思っているのだろう。しかし、しっかりとその会話は耳に届いていた。


「最近、おかしいのよ。ずっとこもりきり。朝も昼も夜もわからないみたいで、好きな時に寝て、好きな時に起きて、食事もあまり摂らないの。私とも話をしてくれないし。町内会の方が心配してきてくれているのに、顔も出さないの。あんまり心配だからお医者さんに相談して、行政の人に来てもらおうかと思って——」


「来週、誕生日なのに。光子がまだ宿は押さえているんだけど。やっぱり無理かなあ。今日はその確認をしに来たんだけど」


 ——まだ言っているのか?


 私は扉を開けると、二人のところに駆けて行った。そのつもりだった。ところが、足が思うようには動かない。なにもないところなのに。足がもつれて、廊下に思い切り転がった。


「お父さん!?」


 二人が駆け寄ってくる。そうして、手を貸そうとするのだ。そんな年じゃない。私は、そんな年じゃないんだ。やめろ。手を貸すな。そんな年よりじみた対応はされたくない!


「離せ! 私は現役だ! なにが米寿だ。そんなもの、知ったことか。私は年寄りなんかじゃない! お前たちは、私を年寄り扱いして、どうしようというんだ!?」


「父さん! なに言っているんだよ? 被害妄想もいい加減にしろよ。みんな、父さんが元気で八十八まで元気で生きてこられたことを、喜んでいるんじゃないか!」


「それが余計な世話だというのだ! ふざけるな!」


 私は必死にからだを起こそうとするが、思うようにはいかなかった。


「お父さん! いい加減にして……お父さん! 脚が。脚がおかしいわよ」


「父さん。脚、折れているんじゃないか?」


「哲也、救急車」


 二人に指摘されて、自分の脚を見つめる。右足に力が入らない。そう自覚した瞬間、激痛も自覚した。痛みで眩暈がして、視界が霞んだ。ああ、痛い。ああ、痛い。


 私は何のために長生きをしているのだろうか。私は……。



***



 目が覚めたとき。私は病室にいた。妻や哲也、そして嫁の光子がそこにいた。


「お父さん。気がついた」


 妻が顔を伏せて泣き出した。


「父さん。右大腿骨頸部骨折だって。手術が終わったんだ。大丈夫だよ。寝たきりになんかならないさ。リハビリして、退院できるって」


 哲也は申し訳なさそうに頭を下げた。


「父さんごめん。おれ、喜ばしいことだと思って、父さんの気持ち考えなかったよ。確かに米寿の祝いなんてされたら、もう九十になるんだって、実感するよな。おれだってそうだ。父さんが米寿なら、おれは還暦だ。おれもいい歳になったんだなって思ったら、何だか急に老け込んだ気がするよ」


「今回はお父さんの米寿と、この人の還暦祝いとを一緒にやろうって話だったんですよ」


 光子が言った。


「でも。この人も還暦だなんて言われたくないって言い張って。自分のことは棚に上げて、お父さんのお祝いばかりでしょう? どうなのかなって思っていたんです」


 哲也も同じ思いをしていたのだな。私は三人を順番に見てから口を開いた。


「お前たちには迷惑をかけた。これもひとえに私の不甲斐なさからきたんだ。米寿がなんだ。そんなに恐れることでもないじゃないか。現に私はこうして無事なんだ。米寿の次は直ぐに卒寿だろう? こんなことでいちいち大騒ぎなどしていられるものか」


「父さんは、一体何歳まで生きるつもりなんだよ?」


 冗談混じりの問いに、私は「百寿までは生きたいなあ」と答える。


「なんて冗談だ。ただ、生きている間は、自分のことは自分で決めたり、自分の足で歩いたりしていたい。それだけが望みだ」


 そうだ。こんな老いぼれだ。先のことなど考えることなどない。ただ今を生きるのだ。こうして、飽きることなく、私の周りにいてくれる人たちを大切にする。これからどうなるかなんて、誰にもわからない。これは、若くても同じだ。年寄りに限った話ではないのだ。


 だから私は家族との対話を大事にしたい。こうして、家族と過ごせる日々。それが幸せというものだ。


「退院祝いをしてくれ。温泉でいい」


 妻と哲也、それから光子は顔を見合わせてから、笑みを見せた。


「じゃあ、リハビリ頑張らないとね。お父さん」


 妻の手が私の手を包み込む。ああ、生きていてよかった。米寿を迎えるその日は病院のベッドの上になってしまったが、まあまあ悪くない米寿を迎えられそうだった。








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88が怖い。【KAC20225 88歳】 雪うさこ @yuki_usako

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