次は一緒に歩きましょう
寺音
次は一緒に歩きましょう
母の誕生日の朝、私は二週間ぶりに実家を訪れた。何かあった時のために残しておいた合鍵を取り出そうとして、ふと違和感を覚える。視線を上げてすぐ違和感の正体に気づいた。
玄関の軒先にあるツバメの巣だ。以前訪れた時には、大きな口を明けて健気に餌をねだる雛がいたものだが、今その巣はもぬけの殻である。
『ああ、ツバメが巣作りをしているのか』
脳裏にふと声が
『巣ができて、そこに卵を産んで。その卵が産まれて雛が育って、やがて巣立って。あっという間だろうなぁ、楽しみだなぁ』
そう呟いていた掠れ声を思い出し、少し目頭が熱くなる。
「母さん、来たよ」
ガラガラと音を立て、私は扉を開けて中に入った。ひんやりとした空気が頬を撫でる。暗く冷たい板張りの廊下は、まるで幽霊屋敷のようだ。
母から返事が返ってくることはなかったが、私は気にせず家へと上がった。
母は今日で八十八歳になる。本来ならば盛大に米寿のお祝いをするところだが、二ヶ月ほど前に父が急逝してしまった。
一足先に米寿を迎えていた父は、数ヶ月後に迫った母のお祝いを非常に楽しみにしていた。しかし、風邪を拗らせてしまい、本当にあっという間だった。
喪中とは言え、身内だけのささやかなお祝いであれば出来そうなものだったが、肝心の母があの日からすっかり気力を失ってしまった。
せめて息子の自分だけでも、との想いから、今日私は母のお祝いに訪れたのだった。
軋む廊下を進み、リビングを覗く。母はそこで椅子に腰かけ庭を眺めていた。
父が生きていた頃は溌剌として生気に満ち溢れていた横顔が、すっかり
最近では一日中ぼんやりと過ごすことも多いのだと、様子をみてくれている妹の
「誕生日おめでとう。母さん、とうとう米寿だろう? 今日は都合が付かなかったけど、またみんなで集まってお祝いをしような。その時は
「ああ、そう言えば、そうだったねぇ」
ボソボソと口の中で転がす様に母は言う。分かっているのかいないのか、奇妙な相槌である。視線は未だに庭を見つめたままだ。
昔、父と植えた金木犀の枝が風に揺れている。その花の香りを父と嗅ぐことはもうない。
「そうだ。ツバメの雛はみんな無事に巣立ったみたいだよ。来年もまた戻ってきてくれると良いね。父さ」
父さんもツバメのことを気にかけていたね、と言おうとして慌てて口を噤む。まだ母の前で父の話を出すのは憚られた。
そう、少し前まで父は生きていて、巣作りをするツバメに温かい視線を注いでいたのだ。まるでひ孫を見守るような視線で。
今でも父はこの家の何処かにいるような気さえする。
私は母の隣に腰かけた。二週間前よりもさらにその背は小さく見え、このまま消えてなくなってしまうのではないかと言う考えすら浮かぶ。私は首を横に振って、その考えを打ち消した。
母が眺める窓の外へ視線を向けると、ふと、視界を素早い動きで横切る物を見つけた。
ツバメだ。
まだ、若いツバメに見えた。ここの巣から巣立ったツバメなのだろうか。
その一羽のツバメが奇妙な動きで空を飛んでいた。窓の外でぐるぐると旋回している。まだ飛ぶのが下手なだけかもしれないが、まるでその姿を私たちに見せているようにも見えた。
とっくに遠くへ行ってしまったのかと思っていたが、まだ近くにいたのか。
「ほら、母さん、ツバメだよ」
私は指でツバメを指しながら声をかけた。母は視線を動かし、その動きを目で追っている。
「変な飛び方だなぁ。はは、八の字飛びかな? 母さんの八十八歳のお祝いにピッタリだな」
母に少しでも反応があったことが嬉しくて、私は冗談混じりにそう言った。
「まるで母さんのお祝いをしに、戻って来てくれたみたいだね」
次の瞬間、母の目が大きく見開かれる。
「――ああ」
そして、小さく声を発した。母は目尻の皺を深くして、愛おしげにツバメを目で追っている。私は思わず目を疑った。突然母が、生気を取り戻したように見えたからだ。
母は、やけにはっきりとした声色で呟いた。
「そうね。私は飛べないから、次に会った時には一緒に歩きましょうね」
その言葉の意図は、私には分からなかった。けれど母は幸せそうに微笑んでいて、目尻には大粒の涙を浮かべている。
ツバメはやがて、空高く飛んで私たちの視界から消えた。
それを見上げて涙を流す母には、以前の温かさが戻ってきていて。
私はまた目頭が熱くなってしまった。
次は一緒に歩きましょう 寺音 @j-s-0730
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