【88歳】とある師匠の後悔

ながる

私の師匠

 ガシャン、と派手な音に振り返った。

 師匠がまたカップを落としたようだ。

 じっと自分の手を見下ろす師匠の顔は、私とそう変わらない若さで、並んで歩いているとよく恋人や兄妹に間違われる。


「『禍の移し身、幸いに拝礼』」


 割れたカップにペコリと頭を下げて、掃除道具を取りに行く。


「ほらほら、師匠! ぼんやりしてないで、ちゃんとまじない唱えてくださいよ!」

「わざわいのうつしみ、さいわいにはいれー……」


 この地方では焼き物が特産で、だからなのか日々使う食器は焼き物を使う。特に飲み物を入れるカップは使う頻度が高いので、よく割れたりもするのだが、それは持ち主にかかる禍を代わりに受けてくれたのだと、呪いを唱えて丁寧に土に返す風習が根付いている。

 お気に入りの物を大切に使う人も多い中で、うちの師匠はがすぎるというものだ。

 とはいえ、彼は有名人。逆恨みをされていないとも限らない。カップが砕けるくらいで彼が守られているのなら、安いものだろう。


「お怪我はありませんか? そろそろ横になった方がよろしいのでは」


 こくりと頷く師匠は、思えばちょっと様子がおかしかったのかもしれない。


 □


 師匠は朝が弱い。

 弱いというのか、一晩中星を見上げているので仕方ない話ではあるのだが。

 天文学と天文占星学で師匠の右に出る者はいない。国の盛衰、作物の出来、井戸を掘る場所、いなくなった者、無くなった物の行方。たくさん弟子も取って、今では大きな仕事は弟子たちに譲って、片田舎の街で私のように教えを乞うものに師匠の見えているものを伝えてくれている。

 見た目が若いので疑われたりもするのだが、私の親が子供の頃にはすでに有名で、その頃から十代後半のその容姿は変わっていないのだと。


 海の果ての南の島の住人のように黒い瞳、黒い髪。それにしては白い肌。パステルカラーでカラフルなこの辺りの住人たちとは明らかに違う出で立ちはとても目立つのに、伴侶も家族もいない。

 それでも昔はそれなりに相手がいたらしい。「子供でもできていれば何か違ったのかもなぁ」などと、穏やかに笑う姿は確かに年寄りっぽい。

 師匠の寝息を聞きながら昨夜の復習をしようとノートを開いたら、独り言のような師匠の声がした。


「歳は取りたくないと思ってたんだ。爺ちゃんや婆ちゃんみたいにしわくちゃになって、あっちが痛いこっちが悪いって言いながら生きていたくなかった。何が楽しくてまだ生きてるんだろうって、誕生日ごとに祝われても、ある時からは嬉しくないんじゃないかって」


 そっと振り返ると、師匠はじっと天井に目を向けていた。


「私の国では米寿といって八十八歳でするお祝いがあったんだ」

「八十八!?」


 嘘だ、と思った。この国での寿命は長くて六十歳くらいだ。


「そのお祝いのプレゼントをあんたが考えなさいって親に言われて。面倒くさくて、何がいいのかもわからなくて、なんか適当にネットで出てきた木製のマグカップにしたんだ。そうしたら、なんか、やたらと喜んで、ちょっと落としても割れないのがいいとか、中身が冷めづらいとか……適当に選んだのが申し訳なくなるくらいで。でも、結局、次の年の誕生日は迎えられなかった」


 師匠の話の中に判らない言葉が紛れ込んでいた。聞いたことのない単語は師匠の国の言葉なんだろうか。


「こちらに来て、もらった才能を活かして何とかやってきたけど、ここに辿り着いて考えるようになったんだよね。婆ちゃんは禍の身代わりになってくれるものが無くなったから、死んでしまったんじゃないかって。本当はもう少し生きられるはずだったんじゃないかって」

「でも、八十八ですよ? どちらかというと、それまでに貯まった幸運がそこまで生かしてくれたんじゃないです?」

「そうだといいんだけど。というか、私もね、さっきもう割れないものが欲しいなって、思ったんだ。いつも選んでくれる人に申し訳ないからね」

「師匠の禍を受けてくれるものですからね。しっかり選ぶのは当たり前ですよ」

「うん。そういう気持ちも嬉しいんだけどね。君たちが、しっかりと育っている。それが見られれば、それだけで幸せなのかなって……」

「師匠?」


 話すだけ話して、師匠は眠ってしまった。

 なんだろう。遠回しに木製のカップが欲しいという話だろうか。師匠が言うならと、少しデザインを考えてみる。持ち手はほうき星を模してやろう。




 復習を終わらせて、私も仮眠をとって、いつものように夕食を作ってから師匠を起こしに行く。

 けれど、師匠はそれきり目覚めなかった。

 彼の歩みを辿った伝記には、八十八歳没と記されている。




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