88歳、妻がすまほを買ってきた。

金澤流都

楽しいすまほデビュー

 私たちは年をとった。気がつけば、私は88歳、妻ももともと小学校の同級生なので、88歳になった。

 子供には恵まれず、世の中を恨んだこともあった。でも、そういう無理解の世の中でなくなることを信じて、毎日なるべく幸せに生きてきた。妻は若いころは小学校の教師で、私は定年まで町役場に勤めて、それなりにお金には不自由しないで生きている。

 妻は子供を持てないことが判ったとき、ひどく落ち込んでいた。私だってそうだ。親戚じゅうから別れろ別れろと言われたけれど、別れる気は起こらなかった。大人二人で、楽しく生きているのだから、それでいいじゃないか。それが私たちのいちばんの主張だった。

 年をとって、でも大きな病気もせず、のどかに二人でおいしいものを食べたり図書館から借りてきた本を読んだりする日々を過ごしていたある日、妻がなにかよくわからないが携帯電話会社の紙袋を下げて帰ってきた。どうせ電話する相手も年寄りなんだから、家の固定電話で十分、と、ずっと携帯電話なんか持たないつもりでいたのだが、妻は突然、あい……あいふぉん? とかいう携帯電話を買ってきたのである。


「これ映画も撮れるんですって」


 妻は嬉しそうに携帯電話を箱から取り出した。電話というより鏡みたいだ。なにやら百円ショップの袋から、それに対応した透明なカバーのようなものを取り出し、あいふぉんに取り付けた。それから少し悩んで、柄がかわいいからと取ってあった包装紙を切り抜いて、そのカバーのなかに入れた。


「映画を撮るのかい?」


「まさかあ。映画撮るような才能なんてないわよ。写真をとってえすえぬえすにアップするのよ」


「えすえぬえすって、最近新聞でよく見るやつかい」


「ええ。携帯電話屋さんの店員さんにお願いして、いんすたとかいうのを入れてもらったの。ほら」


 妻は携帯電話を私に見せてきた。なにやら若い人の好きそうなやつが入っている。妻はさっそく、趣味で作った刺繍の作品をカシャカシャ撮り始めた。


「で、こうやって……こう!」


 どうやらいんすたとかいうやつに投稿したらしい。

 その日一日、妻はとても楽しそうに写真を撮っていた。刺繍だけでなく、庭に咲いている花や、料理や、とにかくなんでもかんでも写真を撮ってはいんすたとやらに投稿している。なんでも、撮った写真に「いいね」とかいうのがつくらしい。それが楽しい、と妻は笑った。


「あいふぉんがあればあなたの好きな将棋も見放題なのよ」と、あべまてれびとかいうやつを見せてきた。まさしく結果が気になっていたタイトル戦をやっている。


 こうやって映像を見るのは何年ぶりだろうか、テレビが地デジとかいうのになったとき、買い替えるのも面倒で、我が家にはずっとテレビというものがなかった。妻はゆーちゅーぶとやらで可愛い小鳥の動画を観てニコニコしている。


「楽しそうだね」


「楽しいわよ。あなたも買えばいいじゃない。そうしたら病院まで迎えにきてってらいんできるわ」


「……考えておくよ。なんで突然そんなものを買ってきたんだい?」


「あと10年しないで死ぬでしょう、わたしたち」


 身も蓋もないがその通りだった。


「死んでしまう前に、世の中の楽しいことを、もっと見てみたかったのよ。変わらないことも素敵ではあるけど、変わっていくことも楽しいじゃない?」


 ふむ。


「変わっていくことも、楽しい……か。確かにそうかもしれない。一念発起して、なにか新しいことを始めてみようかな」


「いいじゃない! あなたも楽しいことしなさいよ! ただヨボヨボになるなんて御免だわ」


 次の日、時間だけは余っている高齢者なので、私もあいふぉんとやらを契約してきた。板切れをつついたらぼっと画面にきょうの日付が映し出された。

 私はそれで、楽しそうにえすえぬえすに興じる妻を毎日写真に撮ることにした。慣れるまで長そうだが、確かに妻のいう通り最高に面白いオモチャと言えた。

 その様子を妻も撮る。二人でずっと写真を撮り続けた。これだけ撮ったら遺影には困らないだろう。子供がいないぶん家族の思い出の写真というものが乏しいので、新しい思い出を紡いでいけるのが、とてもとても、楽しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

88歳、妻がすまほを買ってきた。 金澤流都 @kanezya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ