あんなに海が蒼かった、夏の・・・

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あんなに海が蒼かった、夏の・・・

 

 午前中の部活がはねて、僕は一目散に海岸へとチャリンコを飛ばす。

 季節は八月を迎え、所謂、夏真っ盛りってヤツだ。

 今日も太陽は僕の肌をチリチリと、痛いくらいに刺し続けるし、時折吹く砂の匂いの混じった熱風は、体中の汗腺を刺激して汗を噴き出させる。

 海岸通りの街路樹の木陰でラムネを売る、麦わら帽のおじさんの脇を掠め、僕は兎に角大慌てで最後の直線100m、思い切りペダルを踏み込んだ。

 防波堤から砂浜に降りる手前の駐輪所に、チャリンコを放り出すように停めると、そのまま走って目指すはブルーにペイントされた海の家『蒼い渚』。

「遅くなりましたぁっ」

 店に駆け込んだ僕は、お客で一杯の店内をそのまますり抜け、キッチン裏の小さな更衣室に飛び込んだ。

 直ぐに学校の制服の開襟シャツを脱いでバックに詰め、それから代わりに取り出した白のタンクトップを頭から被り、そして学生ズボンの裾を膝の上までたくし上げる。

 革靴と靴下を脱ぎ捨てると、ビーチサンダルに履き替えて、今度は洗面台に向かって両手をジャバジャバと水に浸し、その手にハードジェルを伸ばして、そのまま手櫛で髪をオールバックに整えた。

 準備完了。

「おはようございます。入りまーす」

 そう声を掛けた視線の先に怜奈れいなさんを確認し、少し上目づかいに彼女が僕の遅刻に対して腹を立てていないかを確認する。

 怜奈さんはニッコリと微笑み、目だけで「おはよう」と返してきた様に見えた。

 どうやら怒っていないみたいだ、多分。

「おい、卓也、ボーっとしてないで、3番テーブルにコレ、運んでくれ」

 背後のキッチンカウンターからマスターの声が飛んできて、僕は慌てて「あ、はい」と返事をする。あちゃあ、こっちは絶対に怒っている。

 僕はカウンターに置かれた何だかよく分からない、海老やらイカの乗った赤い色をしたパスタみたいな物をトレイに乗せ、もう一度振り返り、怜奈さんの居るバーカウンターに目を遣ると、怜奈さんは何やらお客と可笑しそうに談笑しながら、手元のグラスをマドラーでかき混ぜていた。

 今日も怜奈さん、かあいいなぁ、くぅーっ、たまらんっ。

「おい、卓也っ、早くいけって!」

「あっ、はいっ、さーせんっ」

 やっばい。マジでマスター・ゴリパンダ、怒ってる。

 僕はトレイを手にして3番テーブルにすっ飛んでいく。

    ◇


「おつかれ~」

「お疲れさんでーす」

「おつかれっすぅ」

 午後八時、閉店の時間。

 皆が一様にそれぞれの終業の声を掛け合って、椅子にへたり込む者、流しで頭から水を被る者、更衣室に直行する者、様々な動きなのだが、皆が同じなのは、心地良い労働の疲労感の後にやって来る爽やかな笑顔であること。

「今日も忙しかったっすねぇ」

 僕は流しに頭を突っ込んでジャバジャバと水を被るさとしさんに話し掛ける。(諭さんは、文字が『論』に似てるからなのか、ロン毛だからなのか、分からないけど、皆から「ロン」と呼ばれていた)

「だなぁ。けど、昼過ぎになっても、お前が来ないからさ、バックレたかと思って、マジ笑えなかったよ。マジ、頼むよ、ランチ時間の遅刻とか、勘弁な」

 そう言って笑う諭さんに、僕は「バックレるって、んなこと、する訳ないじゃないっすか」そう答えたが、実はそれは諭さんにではなく、すぐ背後に気配を感じた怜奈さんに聞こえるように声を張り上げていた。

 すると、思惑通り、怜奈さんが「おつかれさま」と僕等に声を掛けてくれ、僕は慌てて振り返る。

 怜奈さんはにこりと微笑んで、「ロンくん、あんまり卓ちゃん苛めちゃダメだよ。卓ちゃん、部活も忙しいんだから」、そう言って、僕に「ねぇ」と視線を向けてくる。

 怜奈さんと目が合った瞬間、僕はもうドギマギしてしまって、直ぐに視線を逸らそうとしてしまうのだ。

 しかし、大きく視線を逸らせばいいものを、あまり大袈裟な動きをするのは、それはそれで恥ずかしく、少しだけ下の方に逸らした視線のその先には、店のユニフォームの白いタンクトップに包まれた、怜奈さんの胸の膨らみがあった。

 ダメだこりゃ。

 結局、反射的に大きく首を明後日の方向に向けてしまう僕。

 もうねぇ、恐らくは色々とバレバレのような気もするのだけれど、僕はそれでも一生懸命に、自らの感情を覆い隠そうとしていた。

 大人になってから考えると、その行動の大部分は恥ずかしいのだが、少しだけ、微笑ましく、あの頃の純粋さを、もう一度思い出しても良いかな、そう思うこともある。

 そんな僕の様子が、多分、可笑しくて仕方ないのだろう。諭さんが揶揄い気味に怜奈さんに答える。

「怜奈ちゃんこそ、ダメだよ、甘やかしちゃ。怜奈ちゃんが甘やかすと、卓は色々と勘違い甚だしい大人になっちゃうかもしれないし」

 明らかに僕をおもちゃにして遊んでいる感じなのだが、別に悪い気はしない。

 何だか二人が僕の姉とか、兄だったら良かったのに、なんて思ったりもする。

 この二人の関係って、果たしてどういったものなのだろう?

 周りの人達の会話を小耳に挟んだ内容からすると、どうやら二人が付き合っているのだということは分かる。

 だがしかし、僕が想像する男女の付き合いっていうのとは、何だか違うものを感じてもいたのも確かだ。何なのだろう、この不思議に思える二人の関係って・・・。

 そんな事を考えてみたところで、当時まだ17歳の僕にとっては、『恋人同士』という概念は、何だか甘ったるいけど、酸っぱいような、それでいてフワフワとボンヤリなイメージしか出来なかった。

 確か当時、怜奈さんも諭さんも僕より五つ年上だったので、22~23歳だった筈だ。

 怜奈さんと諭さんは地元の高校の同級生で、僕の先輩にあたる。もちろん歳が五つも離れているので、僕が高校に入学した頃には既に卒業していたのだが、怜奈さんは高校卒業後、家業の喫茶店の手伝いをしながら、夏には、これも彼女の実家が経営権を持つ海の家「蒼い渚」でホール長兼バーテンダーをやっていた。(因みに、ゴリラでパンダなマスターは怜奈さんの実の兄だ。何をどう考えても二人が血縁だなんて思えないし、信じたくないのだが・・・)

 諭さんはというと、やはり地元に残って、フリーター兼ナンパなサーファーとして、地元ではちょっとした有名人でもあった。夏になると、ビーチの監視員と「蒼い渚」のスタッフ、冬は温水プールの監視員で生活費を稼ぎ、春と秋にはバリ島へ渡り、波乗り三昧という生活を、三年ほど続けているらしい。

 そんな彼らに憧れの眼差しを向ける僕は、実際に彼等から見た自分がどんな存在なのだろうか、そして出来ることならこの先も一緒に居たい、そう思い、彼らに認めて貰えるくらいに面白いことを言おうと空回りしたり、背伸びをしてみるのだった。

 勿論空回りしている自分や、背伸びして変な空気になる瞬間を、自分自身でも感じることはある。

 そんな時、怜奈さんは必ず、僕を包み込むように笑ってくれるし、諭さんは揶揄い半分だが、僕にむける眼差しはいつも優しかった。

 『蒼い渚』で彼等と一緒に過ごす時間は、僕自身も二人に可愛がって貰っている実感が確かにあって、それが何とも心地好いのだ。

 それでも夏が過ぎ、この海の家でのアルバイト生活が終わるのと同時に、彼等との関係も終わってしまうのだろうな、そう考えると、切なかった。

 夏休みも折り返しを迎え、あと残り半分・・・、夏の終わり=別れに近付いていく感覚は、それを何とか引き延ばし、阻止しようと、僕を焦らせる。

    ◇


 八月十五日。

 流石に部活も補習もお盆の十三日~十五日は休みだったが、海の家のアルバイトは通常通りシフトインしていた。

 うちのばあちゃんが言う『お盆を境に秋が訪れる』、そんなのは嘘だと思っていたし、その日も恐ろしい程に容赦なくギラギラと照りつける真昼の太陽は、この夏はいつまでも続く、そして終わることはない、そう思わせるのには充分なくらいの熱量があったと記憶している。

 そして、そう、僕はこの夏が『終わらないこと』を願ってもいた・・・。

    ◇


「今日はもう閉店にするぞ」

 ゴリパンダのぶっきら棒な声がカウンターから飛んでくる。

 え?もう?

 今しがた店を出ていったお客で、店内には従業員だけになっていたが、それでも時間はまだ夕方の五時だった。

 僕はそそくさと店頭オープンカフェのテーブルを片付ける為に店の外に向かう諭さんの後を追う。

「卓、お前、そっちの端持ってくれるか」

「あ、はい」

 僕の不思議そうな表情に気付いた諭さんが言う。

「そっか、卓は今年初めてだもんな。毎年八月十五日はこんなもんなんだよ。そんで、明日からは、まぁ今日ほど早くはないけどさ、お客が引けた時点でお店閉めるんだよ。今日は特別。今日はこの後、精霊流しがあるからな。ん?卓は見物行かないのか?」

 なるほど、そういうことか。

 そういえば、三日前の補習の後、部活に向かおうとしているところで、同じクラスで幼なじみの麻美に誘われていた。『精霊流し、一緒に見に行こうよ』と。

 僕はバイトがあるから多分無理だと答えたが、麻美は『じゃ、早く上がれたら、声掛けてよ。待ってるよ』、ニコリと笑顔でそう言い残して行ってしまったのだった。そうなのだ、麻美の家は僕の家から三軒となりのご近所さんで、僕らは兄弟(いや、姉弟きょうだいだな。彼女が僕より三月ほど生まれが早い)のような付き合いだ。

 僕がボンヤリとそんなことを思い出していると、諭さんが「どうした?」と声を掛けて来た。

「あ、いえ、俺も行きますよ」

「お、彼女と、か?」

「そんなんじゃないです」

 僕は強く否定した。何故なら、テーブルを運び入れる僕らの右の背中の後方に、怜奈さんの気配を感じたからに他ならない。

「ロンくん、卓ちゃん、お疲れさま。あとはあたしと兄貴でやっておくから、上がって良いわよ」

「お、そうか。んじゃ、あとは怜奈ちゃん宜しく。じゃ、マスター、あがりまーす」

「おう、お疲れさん」

 ゴリパンダの野太い声に、諭さんは右手を挙げて応えると、「おい、行くぞ」と、僕を促す。

 僕は促されるままにキッチン裏の更衣室に向かうのだが、ある意味折角の暇なのだ。もうちょっと怜奈さんとお喋りでもしたかった。

 予定外に早く上がらされると、それはそれで消化不良みたいな感じがするし、後ろ髪引かれる想いで、僕の運ぶ足は重い。

「おい、早く進め」

 諭さんに小突かれて、僕の心の中が見透かされているようで少し恥ずかしい。そんな僕を知ってか知らずか、クスクス笑う怜奈さんを見て、更に穴があったら入りたくなる僕・・・。

    ◇


 派手な灯篭に飾られた最後の精霊船を見送りながら、時刻は午後九時を少し回ったところだった。

 艶やかな灯りの中にうら寂しさを孕んだ、この地方特有のお盆の儀式であり、祭りでもある。初盆に還って来た霊魂たましいを、再び、盛大に送る儀式・・・。

 艶やかといえば、麻美の浴衣姿に、こんなにもドギマギしてしまうとは、全く以て不覚以外の何物でもなかった。

 然も、となりを歩いていると仄かに鼻をくすぐる石鹸の香りに、僕はまともに麻美の方を向くことが出来ない。僕は不謹慎か?

 僕はどうしてしまったんだろう?

 いや、麻美がどうしちゃったんだろう?が、正解なのか?

「ねぇ、卓也ぁ、聞いてる?」

 麻美の声にハッと我に返ったものの、一瞬チラッと彼女の方を見て、直ぐに首を明後日の方向に向けてしまう。

 ハッキリ言うと、僕は麻美の視線が痛いのだ。いや、怖いのだ。

 怖さの原因が何なのか、明確に分かっている訳ではない。何となくだ。

 僕だって薄々は感付いている。麻美は恐らく僕のことを・・・。でも、違ったら、格好悪いな・・・。

「ん?え、何?」

 本当は聞こえていた。麻美が『ねぇ、海岸の方に行ってみない?』、そう言ったのを。

「もうっ」

 少し怒った風に口を尖らす麻美の表情を右目の端に感じながら、「あ、いや、ちゃんと聞こえてたよ。海の方だろ?良いよ、行ってみようか」、そう正直に答え直すと、麻美はもう一度『もうっ』と言ったが、今度はそんなに怒っている感じはしなかった。

    ◇


 松の防風林を抜けると砂浜だ。

 麻美と僕が砂浜に一歩踏み出す手前で、僕らより先に、既に先客が居ることに気付いた。

 昇り始めた月明りに照らされた男女のシルエットを目にした僕が足を止めると、麻美も慌てて息を潜め、僕の背中に隠れるようにしながら覗き込む。

 少し離れていたシルエットの二人だったが、瞬間、女性の影が男に駆け寄るようにして、そして、男の胸に抱き着く。

 男がその手を女性の顔の辺りに運ぶと、女性の顎がクイッと上がり・・・。

 麻美が僕の背中で「あっ」と、小さく声を上げた。

 僕には分かっていた。

 そのシルエットの二人が、怜奈さんと諭さんだということが。

 何故だか麻美が僕の左腕に自分の腕を絡ませてきて、僕の身体にも緊張が走る。

 僕は思わず、自分の足元で軽く踏んでいた松の落ち枝を、力強く踏み込んだ。


 バキッ


 自分でも驚くくらいの枝の折れる大きな音が響き、


 シルエットの二人がその音に気付き、こちらに顔を向ける。


 暗がりの中、僕と麻美は後ずさりをしながら数歩下がり、それから小走りに今来た道を逃げるように戻るのだった。

    ◇


「なんか、すごいの、見ちゃったね」

「ああ・・・」

「ちょっと、ドキドキしちゃったよ、あたし」

「ああ・・・、そうだね・・・」

「でもさ、あんなタイミングで、枝とか踏む?しかもあんなに大きな音立てちゃって」

 そう言って笑う麻美に、僕も笑うしかない。

 なんて言える筈もないのだから・・・。

「なぁ、コーラ、飲みたくないか?」

「え、どうしたの?急に」

「いや、喉渇いたからさ、あそこの自販機で買って来るけど、コーラで良い?」

「うん、良いよ」


 自動販売機からコカ・コーラの缶を取り出し、プルタブを押し開けて、麻美に手渡して、そして、言う。

「先に飲んでいいよ」

「え、良いの?」

「ああ」

 麻美がコカ・コーラの缶に口を付けた時、ゆるやかに、風が吹いた。

 アスファルトを掠めて舞い上がった風に、花火の後の火薬のにおい、そして、さっき見た灯篭の朧気な残像を感じる。


 少しだけ、涼しい…。

 そんな、気がした。




                おしまい

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