KAC20224 誤算のセカンドチャンス

斜偲泳(ななしの えい)

第1話

 こんなはずじゃなかったのに。


 ブラック企業に務める冴えない中年、名楼慶なろう けいは疲れた身体を引きずる様に真夜中の家路を歩いていた。


 駅前のコンビニで買ったストゼロを勢いよくあおるが、中身はほとんど空っぽで、蝉の小便のような雫が僅かに口に流れるだけだ。耐えがたい現実を忘れる為には酔いが足らず、かと言って二本目を買えるほど裕福でもない。やりきれず、名楼は頭の上で缶を逆さにして猛烈に揺さぶった。


 飛び散った酒が目に入って悶絶する。

 そんな彼を、通りすがりの若者が「うわぁ」「だせぇ」「馬鹿じゃねぇの」と嘲笑う。怒る程の勇気もプライドも、今の名楼は持ち合わせていなかった。


 そんなものはとっくに砕けて塵になり、現実という無慈悲な風に吹き飛ばされた。

 今の名楼は抜け殻だ。死んでいないだけで生きてもいない。

 朝早くに起きて、怒られながらなんのやりがいもない仕事を深夜までこなし、家に帰って眠るだけ。ただその繰り返しである。


 こんなはずじゃなかったのに。


 毎朝毎夜思うのだ。出勤の度、帰宅の度、僅かに残った理性が彼を責め立てる。

 今でこそこんな様だが、名楼にだって人生が輝いていた時期はあるのである。


 二十代の頃、彼はとあるラノベの新人賞で佳作を取り、本を出した。売れ行きは今ひとつで重版もかからず、続刊どころか新作を出す事も叶わなかったが。

 それでもあの頃の自分は輝いていた。夢と希望に溢れ、未来に挑むガッツもあった。


 今はどうだ? 足元を見つめて歩くように、ただこの瞬間だけを生きている。未来がないのなら、前を向いても虚しいだけだ。今この瞬間を耐え、その連続でどうにか生きながらえている。


 けれど、満員電車から押し出され、真夜中の寂れた道を酒を片手に歩いていると、不意に未来が襲ってくる。死ぬまで続く灰色の未来、なんの希望もない無慈悲な現実、楽しみはなく、明日もきっと嫌な事が待っている。


 これ以上生きる意味はあるのか? 問いかけるまでもない。

 死にたいわけではない。けれど、生きる意味がない。

 だったら死ぬしかないじゃないか。

 そんな勇気もないのだが。


 けれど、雨水が桶を満たすように、絶望はゆっくりと彼を満たしていった。

 いつかそれが溢れたら、きっと自分は死ぬのだろう。

 恐らくその時は、そう遠くない。


「誰か! 助けて!」


 夜の静寂を女の悲鳴が切り裂いた。

 顔を上げると、少し先の坂道を、六人乗りの大型ベビーカーが猛スピードで下っていた。

 その後ろには、なにやら妙に色気のある格好をした若い女が青ざめた顔でそちらに手を伸ばしている。

 下り坂の終わりは十字路で、その先には名楼がいた。


 右手からは、女神のように美しい青髪の美女が運転する大型トラックが、猛スピードで進んでいた。女はハンドルを枕にして、気持ちよさそうに眠っている。


 名楼の心臓がドクンと高鳴った。

 異世界転生チャンス。

 酔いと絶望と唯一の楽しみであるネット小説が彼の心を蝕んだのだろう。

 どうせ死んでも悔いはない。万が一にもチャンスがあるなら、やってみるべきだ!

 そう思って走り出す。

 この瞬間、名楼は自分が人生の主人公である事を思いだした。


 間一髪で間に合い、体当たりで大型ベビーカーの軌道を道路沿いの植え込みにそらす。

 その瞬間、名楼は見てしまった。

 大型ベビーカーの中にはオムツを履いておしゃぶりを咥えた裸の中年男性が納まっていた。


 ……プレイかよ!?


 突っ込む暇もなく、変態の乗ったベビーカーに弾かれた名楼はカウンター気味に大型トラックにはねられ宙を舞った。トラックで人間を跳ね飛ばすスポーツがあったなら、ギネス級の飛距離だろう。

 当然名楼は死んだ。

 そして、お約束の白い世界で女神と出会ったのだった。

 

 †


 目覚ましの音で飛び起きる。

 懐かしいその部屋は、二十代の頃に借りていた安アパートだった。

 茫然としながら枕元の携帯を探す。細長いボディーはスマホではなく、ガラケーと呼ばれるタイプの物だ。

 操作方法に四苦八苦しながらカレンダーを確認する。

 それによれば、二十年ほど遡っていた。

 名楼が一作目で失敗し、二作目のやり取りを編集と行っていた頃である。


 †


「ごめんなさい! 居眠りしてましたぁ~!」


 暴走トラックを運転していた青髪の女神が涙目で土下座する。

 彼女はBL本を読む為に人間に紛れて暮らしていた。

 女神と言えど金はいるので、普通にトラック運転手として社畜しているらしい。


 それについて名楼は特に何も言わなかった。女神だって趣味の一つくらいあるだろう。もとから死にたかったわけだから、居眠り運転ではねられた事についても怒りはない。


 それよりも異世界転生だ。

 悪いと思うなら是非、チート付きでファンタジーな世界に転生させて欲しい。


「すみません……そういうのはちょっと。この世界と似た別の世界のあなたに意識を同期させる事は出来るんですけど」


 疑似的な蘇生という事らしいが、それでは意味がない。

 似た世界では、名楼は同じような人生を送っている。だからこそ意識を同期出来るそうだが、それでは骨折り損ならぬ死に損だ。

 名楼は今の自分が嫌だから自殺紛いの人助けをしたのだ。


「じゃあ、別の世界の過去のあなたと意識を同期するというのはどうですか? もとは同じあなたなので、それなら可能ですよ?」


 過去に戻ってやり直せるという事らしい。異世界転生には劣るが、それはそれでアリな気もする。というか、現状の選択肢ならそれが最善だろう。


 色々考えて、名楼は一作目を出した後の自分と同期して貰う事にした。一作目を出す前にしようかとも思ったが、元より才能のない名楼である。やり直した所で賞を取れるかは怪しい所だ。一作目を出した後なら編集と繋がりがあるので、転生チートじみた事が出来る。妄想逞しい名楼には、こんな時の為に温めておいた秘策があるのだった。


 †


「というわけです! どうですかこれ? 絶対売れますよ!」


 印刷してきた企画書を指先で叩きながら名楼が熱弁する。

 某出版社の近くにあるファミレスで、向かいの席に座る担当編集のS氏と二作目の打ち合わせを行っていた。


 前の時は全く企画が通らず、その内に疎遠になってしまった。

 だが、今回は違う。

 名楼には秘策があった。


 書き手としては三流の名楼だが、読者としてはかなりのオタクだった。

 特に定番の異世界転生物が大好きで、メジャーどころは暗記するレベルで読み込んでいる。


 だから、それをそのまま自分の企画として提出したのだ。

 二十年も前だから、それらの作品はネットの海にすら存在しない。それを今のうちに発表して、自分の物にするつもりだ。

 勿論、時代のニーズというものがあるだろうが、暗記している作品は沢山ある。一つくらいは引っかかるだろう。


 前の人生で散々な目にあった名楼には、既に作家のプライドなどありはしなかった。

 頭にあるのは、もう二度とあんな惨めな人生は送りたくない。

 ただそれだけである。


 ところが、S氏の反応は芳しくない。

 というか、悪い。

 全く食いつかない。

 それどころか、救いようのないアホを見るような目で名楼を見ている。


「……えっと、ダメですか?」

「ダメに決まってるでしょ。全然意味わかんないし。俺だって暇じゃないんだから、こんなの持って来られても困るんだよね」


 苛立たし気に煙草を灰皿い押し付けると、いそいそとS氏が立ち上がる。


「ど、どの辺がダメだったんですか? トラックに轢かれて異世界転生って、結構面白いと思うんですけど……」


 先程までの自信はどこへやら。

 しどろもどろになって名楼は言った。


「どの辺がって、まさにそこだよ。トラックに轢かれて死ぬだって? 全く、意味が分からない! ギャグにしたってナンセンスだよ!」


 それで話は終わりというように、S氏は去って行った。


 †


 こんなはずじゃなかったのに。

 失意に打ちひしがれて、名楼は帰り道を歩いていた。

 今度こそやり直せるはずだったのに。

 輝ける未来を掴んだはずだったのに。

 どうしてこんな事に?


 女神は、この世界が元の世界と似た別の世界だと言っていた。

 その、僅かなズレのせいなのだろうか?

 そう考えると、この世界には奇妙な違和感があった。

 それがなにかは分からない。

 ともあれ、名楼は絶望していた。

 さっき死んだばかりなのに、もう死にたくなっている。

 すっかり諦め癖がついているのだ。


「誰か! 助けて!」


 またしても、夜の帰り道に女の悲鳴が轟いた。

 エッチなお姉さんに大型のベビーカー。

 十字路と、女神っぽい運転手が居眠りする大型トラック。


 転生チャンスだ!

 もう一回死んでやり直そう!

 深く考えず、名楼は駆けだした。


 変態の乗った大型ベビーカーに体当たりし、その反動で弾かれて、大型トラック跳ね飛ばされる。


 ドゴーン!


 と凄まじい音がして、名楼は高く飛んだ。

 前回の記録を大幅更新。


 中指と薬指を曲げ、親指と人差し指と小指を伸ばしたがに股の、奇妙な格好である。

 なんでそんなポーズを取ったのか分からない。

 当たり前のように、気づいたらそんな姿勢になっていた。

 そのまま頭から道路に突き刺さる。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫なわけないだろ!?」


 下りてきた運転手の女性に言い返し、名楼はハッとした。


「え……なんで死んでないんだ?」


 大型トラックに思いきり跳ね飛ばされ、頭からアスファルトに激突したのに。

 頭からはあり得ない量の血液が噴き出して、握りこぶしよりも巨大なたんこぶが出来ている。


 ……握りこぶしよりも大きなたんこぶだって?


「大袈裟な人ですね。トラックに轢かれたぐらいで死ぬわけないじゃないですか。あははは」


 運転手が気さくに笑う。

 困惑する名楼の心の中に、不意に女神の声が響いてきた。


(言い忘れましたけど、その世界はコメディな世界なので。トラックに轢かれたくらいじゃ死なないので、安心してくださいね~)

 

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