恋愛生説
白川迷子
恋愛生説
かつてこの胸を満たしていたみずみずしい彩りに今、春の名をつけて仕舞うことに戸惑いをおぼえる。たちまち冬の落葉樹のように陰をうみ、頭をたれる様を自覚してしまいそうだから。
あなたの瞳に照らされて芽生えた高揚や葛藤や、独りよがりな心の縁からあふれてやまなかった欲求を、ひとえに生長の過程とくくってしまうことを私は苦する。それが必然性をもってうまれたわけではないと今だに確かめるように。
八十年余りある生のなかでひとは、わずか数年のあいだ性と欲に支配された春をすごす。喜怒哀楽、信仰、言語、死生……。恋愛とは要不用にかかわらず、意思をもち世をわたる生命にそなえられたある種の付加だ。と、後になって述べられることであり、当の時分は先のとおり性と欲に心をあやつられ、ついで四肢は単調をくりかえし言葉にならないままに惑わされていたのだから、どちらも同じ人物の物語であるにもかかわらず、一方は記憶のかなたに、他方は潤沢なる経験にもとづいた先のない未来を歩んでいく。頬の熱から目をそらし、うぶな少年期に蓋をするように。
脳が粟立つほどの熱にうかされた夜はたしかに実在し過去にあって、決して白紙のうえに霧散したわけではない。たれた目蓋をとじて、重力と枕に身をあずけたらば、この皺だれて乾いた手のひらがいつでも記憶をよびもどし、みえない湿度を形にかえる。若かりし日は過ぎさりし時にあっても、闇をみつめるたびにありありと肢体が象られる。虚空をなでる手が湿りを帯びる。
人知れず育んでいた私たちの関係は夕焼けた窓辺に始まり、完結していた。ご承知のとおり、相も変わらず私は奥手で、沈みゆく夕陽をうかがいながら今かいまかと手を握る機会を逃していた。やがて夕陽はぬらぬらと枝葉を縫いだし、通りをゆく焼き芋の歌が聴こえなくなったとき、あなたが私にふれた。その瞬間の満々た感情を当時うまく隠せていたか自信はないが、つまりあの数瞬、私はあなたに対する心の隔たりや直線的な感情に句点をもうけることができたのである。かくして私たちは電極さながらに皮膚一枚を通じて互いを恋人と認識できたのだから、夕暮れどきの密やかな逢瀬も今になって素敵な思い出として輝きつづけるのだ。
橙を塗りあげた歩道の果てに私の暮らす家はあった。とにもかくにも胸中はあなたの中に入りたい一心で染まりあげ、張りさけんばかりに赤らめた自身は今にもなきそうにあなたを見上げていた。とっておいた好物を見下すその眼は冷々と笑みをうかべ、猛禽類のごとく広げた腕と声のなかに私をつかみ沈めていった。二度と放してくれない、そう期待と畏怖を抱かせる意地のわるいひとだった。
隣に横たわるあなたの声を耳にしながら、とりわけ強く雨戸をたたく風のうなりが聴こえた。この夜のことをよく覚えている。恋愛関係に覚悟をまとわせたこと、目覚めた朝の匂いがちがったこと。大げさにならないように語るなら、あの夜を境に私はいまの私になったのである。ただそれだけの……されどそれだけの夜だった。窓のむこうに映える雪が朝に照らされてまぶしかったことは黙っておこうとも考えたが、せっかくなのでここに記すこととする。
雪が徐々にかさを降ろしていくあいだ、私たちは幾度となく肌と逢瀬を重ねていった。まもなく雪どけの候、私は自尊心が立つ程度にはあなたの隣が板についていた。このまま歳をとり、額に皺がうまれても隣にはあなたがいると根拠もなく確信していた。それがどれほど儚く愚かで幼稚な想像であるとも知らずに……。
現実は春。正門をはさんで拾う出会いがあれば、逆もまた然り。夕刻の引戸、馴染みのついた鼻をつく匂い、春につられ機嫌をなおした蛍光灯、そこかしこで巾木のういた床、そして、暮れた窓にうつる見知らぬ女性の横顔。
もう戻らないと悟ったとき、私はいまの妻と結婚した。子がうまれ、育ち、その子がまた子を産んだ。妻との時間の片隅に、あなたを置き忘れたことはない。これからもそう。忘れることも別れることもできずにあの日々を夢想して床につく。妻の横顔をうかがいながら暮らしていく。
「生きるとは誰かを愛することだ。愛されるとは誰かに殺されることだ。」恋愛感情は生命の歴史において何物にもあたらない付加機能で、ひとにより扱いかたが変わる。あの日あのときの私はあなたを愛していたが、決して愛し愛されたかったわけではなく、あなたを愛する権利を得た私を誰かに認めてもらいたかっただけである。
妻にも友にもうちあけられずにいた記録をここに綴る。
恋愛生説 白川迷子 @kuroshi
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