〈銀河の播種〉5
なんで怒るのという発言に、真夜中一時半に叩き起こされて笑えるかと怒鳴り返せば、だって約束の
俺はミヤコと布団を引っ張り合う格好のまま固まった。そして急に相手の手がゆるみ、俺は勢いのまま壁に後頭部を打ち付けた。
「はい、珈琲。あと保冷剤」
あつあつの珈琲とひえひえの保冷剤を助手席から差し出してくる女を半眼で見やるが、まったく気にする様子がない。ってか、このポンコツ世話焼きっぷりが心底腹立たしい。こいつは俺の腕が三本あると思っているのか、この車が自動運転車だと思っているのか、どっちだ。
土曜の午前――感覚的には金曜深夜。俺は約束と愛車を盾にされ、深夜のドライブへと連れ出された。いや、運転しているのは俺自身なので、連れ出されたわけではないのだが。約束といえどこんな真夜中に出られるかとごねれば、じゃあ車貸りるね~と、女は玄関のキーハンガーから車の鍵を取り出してきたのだ。一応、普通免許〈AT限定〉を所持しているらしいが車検から戻ったばかりの愛車をミヤコに運転させるほど俺は剛胆ではなかった。
「――うひょおえ!」
くねくねとした山道を上っている真っ最中、前触れ無く後頭部がひえひえに覆われ、すっとんきょうな声を上げてしまう。
「運転中にすな、阿呆! 野生のタヌキ轢いてめっちゃ後味悪いドライブになるぞ!」
「そうなんだ~、でも、たんこぶ冷やさないと腫れちゃう~」
反省の色味が一刷毛も塗られていない声音に、俺は怒鳴り返す元気はなかった。
「……で?」
三十分ほどのドライブの後、辿り着いたのは山の上に建てられた市立美術博物館だった。山の上という立地もあり、緑豊かで広々しており、建物も吹き抜けのガラスだったり、金属で柔らかな曲線を描いていたりと、モダンでありながら自然と調和しており美しい。たしか小洒落たカフェレストランも併設されているはずで、俺もデートで何度か利用した経験がある。無論、相手はミヤコではない。
しかし、時は午前二時過ぎ、ホテルとバー以外はいかな施設であろうとデートに不向きであろう。病院に行くと思っていたからこそ貴重な土曜休みの午前を空けてやったのであって、俺はいよいよ不機嫌最高潮だった。ミヤコ相手に騙されるなんて情けない。道すがら、さんざんどうしてこの時間なのかと詰問したが、行けばわかるの一点張り。夜が明けたならミヤコを車に押し込み、朝一病院へこいつを捨て置き、マンション帰って二度寝をしようと決意した。
やはり広い駐車場はなぜか施錠されておらず、どこでも停め放題だった。手近な一画に停車させるとエンジンを切る前にミヤコはシートベルトを外し、外へと飛び出す。まるで子どもが遊園地や海にでもやってきたみたいなふうで、一瞬呆気にとられた。俺はエンジンを切り、助手席に置き去りにされたチェックのストールを掴んでミヤコの後を追う。
十二月の深夜の夜気は、先日と打って変わって暴力的に冷たく、怖いほどに澄んでいた。外灯が少なく、標高の高さも手伝ってか、こまごました星までつぶさに見える。子どもの頃、姉秘蔵の刺繍用ビーズを床の上にぶち撒けてしまい、こっぴどくシメられた思い出が甦った。
先を走るミヤコは美術博物館の本館前の大階段を軽やかに上がる。ダウンコートの前を閉めていないらしく、翔ぶ翼のように両裾ひるがえして。闇夜に浮かぶ小柄な後ろ背は、漆黒に象られたようで、なぜだかひどく印象に残った。
たまげた。階段を登り切ったその先に、なんと俺たち以外に来訪者がいたのだ。閑散とした本館前の大広場に、数えて十人ほどが所在なさげに佇んでいた。
一見したところ、全員がそこそこ若い女だった。そこでようよう合点がいく。ミヤコが追っかけているアーティストのシークレットライブが催されるのだと。このオタクめが。
はっ、と大きく息をつき、ミヤコを追う足を止めた。ミヤコも数歩前で足を止め、俺を振り返り笑う。久しぶりに走っちゃったね、と屈託なく。
「カイロ持ってないか?」
立ち止まって五分もすると、軽く汗ばんだ身体が逆に冷えてきた。尋ねると、なんで? とミヤコは心底不思議そうに首を傾げる。
「……この間、コンビニ行ったついでに買ってきてやったろ。お前、いつも腹痛くなるっつうから」
生理痛の度に呻くので、痛みをごまかさせるために、使い捨てカイロを渡してやっていたのだ。だがミヤコはきょとんとして、あー、あー、あー、と頷き、それから首を竦め、ごめんあげちゃった、と上目遣いに言う。
どこのどいつにだと怒気を孕んだ声音で問えば、譲渡先はマンション脇にたむろしていた黒ブチ三兄弟とのことで、でもでもちゃんと低温火傷しないよう古靴下に包んだから大丈夫と言い訳し、それならまあいいかと俺は頷き、そういや昨日履こうとした靴下片方見つからないんだよな、と思い至る。
そのくだらないながらも重要な会話が途切れた時、あのう、と控えめな声がした。振り返れば、眼鏡を掛けた女が歩み寄ってきていた。
赤いダッフルコートに毛糸の帽子、ぐるぐる巻きにしたマフラー、そしてリュックサックと、どことなく垢抜けない女で出会った頃のミヤコを彷彿させる。年齢もミヤコより若いに違いなく、もしかしたら二十歳前の学生かもしれなかった。
「……あなたも、待っているんですよね?」
俺にではなく、眼鏡女子はミヤコに向かって緊張したふうに語りかけた。はいそうです、はじめましてふつつかものですが今後ともどうぞよろしくお願いします、とミヤコはミヤコでどこかピントのずれた挨拶をする。大人なのに。けれど眼鏡女子はその様子に緊張がほぐれたのか、微笑んで話し始めた。
ファン(つまりはオタク)同士の交流に付いていけるはずも、付き合うつもりも、混ぜてもらうつもりもなく、俺は掴んだままだったストールをミヤコに投げ付け、モッズコートのフードを被ると周囲をぶらつき始めた。
市民公園に併設されたこの美術博物館はともかく広い。正面裏手には公園につながる巨大な池があり、美術博物館の二階からつづらおりのスロープが池まで延びている。空いたスペースにはそこかしこにオブジェとも遊具ともつかない作品が点在していた。小ドーム型の植物園、資料館、カフェレストラン、アートセレクトショップ、もちろんすべて外から覗くことしかできないが、真夜中の美術博物館はそれなりに俺の冒険心を満たしてくれた。
一通り巡って、俺は本館――常設展示館と企画展示館前の大広場に出た。人は多くも少なくもなっておらず、それぞれ二三人ずつで集まり、お喋りに花を咲かしている。まあ、こんな山の頂で騒音苦情を言われるでもなし。
最初に通ってきた大階段上の正面右手には噴水があるが、もちろん今は死んだように眠っていた。その左手には銀色に輝く、餡がめいっぱい詰められたどら焼きの断面のようなフォルムのオブジェがあった。いや、オブジェにしては巨大で、もしかしたら中に入れるのかもしれない。以前に見かけた記憶はなく、新しく
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