〈宇宙の缶詰〉7(終)

 喩えるならば真昼の月。おぼろに、はかなく、あえかに微笑む。


 白い病室で、彼女は体調が許す限り、便箋にペンを走らせていた。自宅に届いていた彼女宛の手紙を渡すと、笑顔を浮かべ、差出人を確かめる。その面に射す翳りに気付かないわけではない。だが、素知らぬフリができるほどに、それは淡い淡い翳りだった。

 そして、今日もまた、決して返事が来ることがない手紙を預かるのだ──


「…………」


 レムは軽く目蓋を押さえた。観測ドームで、日課である天体観測をしているうちに、うたたねしてしまったらしい。昨夜から様々なことがあったため、疲労が溜まっていた。

 広げっぱなしのノートから身を起こし、備え付けの洗面所に向かう。顔を洗おうと蛇口を捻ると、自然、正面の鏡と向き合うことになり、自身の老いを客観視せざるを得なかった。

 直径十五メートルほどのこのドームは、レムの仕事部屋兼個室だった。赴任早々、私財を投入して造った施設で、通信機器、缶詰レーダーの設置など、現在でも改良を加えている。小ぶりでありながらも、個人所有としては銀河一の性能と使い勝手の良さを備えていると自負していた。


 眼鏡を掛け直し、机上の置時計を確認すると、二十三時三十分。もうすぐ銀河特急鉄道が発車する。

 あの後、シイナは全ての顛末を手紙に書くと承諾した。憔悴し、青白く、生気に乏しいその様は、ますます姉に似ていて、同情を禁じ得なかった。そもそもレムには、シイナを裁こうなどいう考えは欠片もない。前にエリオに言ったように、向かい合ってお茶を飲む以上に勝ることは無いと思っているのだから。

 はたから見れば、シイナとエリオの気持ちはひどくわかりやすかった。だが、年に一度しか会えぬ織姫と彦星なぞ、昨今では流行らない。この膠着状態を脱するには、少々手荒な方法を取るしかなかったのだ。

 手紙は有効なツールだ。自身の心と向き合い、話すよりも正確に伝えたいことが立ち表れる。何より書くという行為は人の心を慰めるもの。姉は死の間際まで手を止めなかった。たとえ、それが一方通行な想いだと気付いていても。

 レムは部屋の中央に設えてある望遠鏡を覗き込み、途中になっていた星々のご機嫌伺いを再開した。万事、変わりない。予定通りの運行だ。デスクに戻り、観察記録を打ち込む。

 再び、時計を確認する。発車まであと十分。そろそろ見送りに行こうかと立ち上がった。

 と、カンっと足先に何かがぶつかり、レムはデスクの下を覗き込んだ。そこにはのっぺらぼうの桃缶――使用済みの〈宇宙の缶詰〉が、何十個も絶妙なバランスで押し込められていた。〈宇宙の缶詰〉は、穴さえ開いていなければ、宛先ラベルを張り替えて、再利用できる。ついつい溜め込んでしまった、いくつか処分せんとな――そうひとりごちながら、一つを手に取る。ふと気付いて、微かにこびり付いていたラベルの端を丁寧にこそぎ落とし、またデスクの下に押し込めた。


 観測ドームを出て、まずはシイナの個室に向かう。通路の途中、ドタバタと慌しい音が聞こえてきた。曲がり角の先を覗き込むと、凄まじい勢いで走るトランクの残像が網膜に残った。時間ぎりぎりまで荷造りをしていたのだろう、最後まで騒がしい男だと嘆息した。

 シイナの部屋の前まで来ると、よれた白衣の襟を直し、髪を撫で付け、一呼吸置いてからノックをする。間を空けて幾度か繰り返すが応答がない。


「私だ。入るよ?」


 すっきりと整頓されながらも、観葉植物や絵画が飾ってある部屋。今は月影と星明りが招かれているだけで、主の姿は無い。洗面所を使用している形跡もなかった。

 窓際に配置されているデスクには、便箋とペンが置いてあった。いかにも途中で席を立ったというふうに、文字は途切れ、ペン先には蓋もはめていない。大方、没頭しているところで時間に気付き、急ぎプラットホームに向かったのだろう。

 さて、自分も行くかときびすを返し――思い直して、足を止める。最期・・ぐらい、二人きりにしてやったほうが良かろう。

 なんとはなしに手持ち無沙汰になり、レムは便箋を手に取った。あまり趣味が良いとは言えない行為だが、まあ今更だ、確認の意も込めてざっと一読する。十枚近くにもわたるそれには、数時間前、銀河のほとりで交わされた会話の内容が流麗な筆跡で綴ってあった。余程シイナは集中して書いたのか、事の八割は書き上がっている。エリオへの素直な、そして複雑な想いも告げられていた。

 〈宇宙の缶詰〉が届き、この手紙を読んだなら、エリオは何を思うだろう。怒るか、喜ぶか、戸惑うか。どれもありえるし、どれも違うような気もする。いずれにせよ、彼が〈銀河の最果て〉に来ることはもうない……


 と。夜陰を震わす、低い汽笛がレムを夢想から呼び覚ました。

 飛び去る鳥たちと交差して、それはプラットホームから夜空にのそりと這い上がる。

 黒鉄の箱がいくつも連なった不恰好な芋虫。砕いた水晶、煌めく雲母、閃く銀箔……星よりも鮮烈な燐光を放ちながら、螺旋を描いてゆっくりと天へ昇る。

 ……ああ、銀河特急鉄道が、長い長い、果てしなく遠い旅路へ出る。窓の向こうに広がるその光景に、レムは吐息を落とした。

 ふいに、レムはドアの向こうの気配に気付いた。シイナが帰ってきたのだろう。素早く便箋を机上に戻すと同時に、わずかにドアが開き、薄青い闇に一筋の光が伸びた。


「……シイナ?」


 窺うように彼女の名を呼んだのはレムではなかった。ノックもせずに入り込んできたのは、ありえないはずの人物。


「博士。こんなとこで何やってんだ?」


 一瞬、鳥の擬態かと疑ったが、それこそありえない。鳥がレムに現す擬態は彼女・・――今では姉なのか助手なのか判然としないが――の姿しかない。エリオと〈庭園〉に降りた時は、既にエリオの心が読み取られていた。シイナと降りた時は、眼前に本物がいたのだ、わざわざ擬態するまでもない。

 それは擬態でも夢でも幻でもない、タチバナ・エリオ本人だった。


「丁度良かった。博士の部屋に積んであった〈宇宙の缶詰〉もらってもいいか? 実家に一年は帰らないって連絡したいんだ」


 レムの驚きをよそに、エリオは缶詰を掲げて気楽に訊いてくる。レムは愕然と繰り返した。


「帰らない?」

「あれから色々考えたんだけど……俺、やっぱりシイナに惚れてるんだ。そりゃ兄貴に敵うとは思っちゃいないけどさ。でも博士言ったろ?」


 そして、エリオは真夜中の太陽のごとく破顔一笑。


「〝向かい合ってお茶を飲む以上に勝ることは無い〟って。名言だよな、殴られたみたいな衝撃だったよ」

「…………」


 ──あ、これE・Tって俺と同じサインがしてある。すげえ偶然だなー、筆跡まで似てらあ。

 望遠鏡のように缶詰の奥を覗き込んだエリオの無邪気な声は、もうレムの耳に届いていなかった。


 では、あのトランクの残像は?

 なぜ、書きかけの手紙を放置した?

 どうして、シイナは戻ってこない?

 

 レムはエリオを突き飛ばし、部屋を飛び出した。抗議の声が上がるが構っていられない。

 彼女は手紙を書いていた、書いているうちに己の正直な気持ちが見えてきた、そして続きを書く必要が無くなった。なぜなら。


「シイナ!」


 駆けつけたプラットホームは、暗く、がらんどうだった。時折、きらりきらりと汽車が撒き散らした燐光の名残が漂う。空を仰げば、今まさに銀河特急鉄道は虚空にぽっかりと開いた転送門ゲートに吸い込まれようとしていた。


「止まれ、止まるんだ!」


 レムはあらん限り声を振り絞った。届かないとはわかっていたが、それでも星の高みへと咆哮する。

 日課の天体観測。星々は万事、変わりなかった。予定通りの運行――そう。予定通り・・・・、銀河特急鉄道の行路には、小惑星群が飛来する。たとえ予定していた乗客がおらずとも、逆に予定外の乗客がいたとしても。

 〈銀河の最果て〉から、走行中の銀河鉄道に連絡する手段は、無い。

 蛇が茂みにするりと身を隠すように、列車の最後尾が、門の向こうへ微かな光を残して消えゆく。そして、その小さな瞬きさえも星々に紛れ……缶詰の蓋は、完全に閉じられた。

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