〈宇宙の缶詰〉6
ららら、ら。らら、ら。
シイナは小さく歌いながら、いつもの軌道を歩いていた。いつ覚えたのか、誰に教わったのか、正しい歌詞すらわからない。宝石箱から古い指輪を取り出して眺めるように、時折、胸の奥底に眠る旋律を口ずさむ。
エリオが来て四日目。彼は朝食の席で、帰ると言い出した。そればかりか、もう二度と〈銀河の最果て〉にシイナを連れ戻しに来ないと誓ってみせた。
青天の霹靂だ。それから彼は昼食にも夕食にも、部屋に閉じこもって顔を出さない。夜はわざわざ手料理をこさえたというのに、缶詰に封をされたように沈黙したままだった。結局、レムと二人きりの食事を済ませ、今は午後八時を回ったところだ。あと四時間で銀河特急鉄道は発車する。
一体、何があったのか。大して驚かなかったレムの様子から、彼がエリオを説き伏せたのだと察せられるが、さっぱり見当がつかなかった。
と。彼方から呼ぶ鳥たちの声に、物思いは呆気なく霧散する。
シイナは河辺へと駆け出した。ああ、彼がやってくる。鼓動が打ち鳴らされるのは、吐息が熱っぽいのは、走っているせいだろうか。もどかしく行く手を遮るススキを払いのけ、光る砂利道を飛ぶように跳ねる。
息せき切って辿りついた馴染みの場所には、仄白く発光する羽毛に覆われた一羽の雄鳥がいた。一見、普通の白鷺だが、彼には驚くべき能力が備わっている。連邦政府がその存在の扱いに頭を悩ますほどの。人知を超えたその力は災いの種となりかねず、おそらくあと半世紀は、宇宙の片隅に隠匿され続けるだろう。
シイナは我知らず微笑んだ。それで良い。招かれざる客のおかげで四日間もお預けされたが、もうタチバナの人間にも、他の誰にも手出しをさせない。
会いたかった、どんなにか会いたかった。宇宙の隅々を捜しても、〈銀河の最果て〉でしか会えない、私だけのあなた。閉じた瞳を開けた次の瞬間、佇んでいるのは――シイナは、彼の名を呼んだ。
「……会いたかった、エリオ」
「そう、君が心の底から望んでいるのは、ユリトではない」
予期せぬ、全く予期せぬ声が響き、シイナは振り返る。夜陰から現れたのは、小柄な老人だった。信じられない思いで眼を見開く。
〈庭園〉には、必ず単独で降りること。でなければ、人の記憶が入り混じり、どんな怪物――あるいは天使――を、生み出してしまうかわからない。所長たるレムが自らそのルールを犯しているなんて。
「〈銀河の最果て〉に赴任して三十年。最早、鳥たちは私を外敵とは見なしておらん。そこいらの石ころと同列扱いだよ」
こちらの疑問を的確に読み取り、レムは淡々と説明してくる。シイナは衝撃に塞がれて、何も答えられなかった。
「君は、エリオを愛しているね?」
「……違う、違います!」
それは、それだけは避けなくてはならない誤解だった。弾けた感情に押し出される叫び。違いますと狂ったように繰り返す。
と、シイナの取り乱した様子に驚いたのか、眼前の彼が大きく羽ばたいた。その時にはもう、人の形から鳥に戻っている。
「待って――」
伸ばした手は、いつだって星に届かない。咄嗟に漏らした静止の声は、中洲にいた仲間が飛び立つ音に掻き消される。
流星雨の光芒と見まがう、舞い落ちる羽の下。シイナはひざまずき、ただ、天上を見上げた。
夜空から北極星が消えた。
理由はいたってシンプルだ。それは元から北極星ではなかったのだから。
結婚一年目は良かった。しかし、二年目に入った頃には、互いに嫌気を感じていた。そも、愛があったというよりも、愛に酔った結婚だったのだ。
最初、シイナに声をかけてきたのはユリトだ。彼はアルバイト先の研究所の出資者であり、恩師とも親しかったため、誘われたら無下にはできなかった。もちろん、彼は好青年であり、シイナとていくらか惹かれたことを否定できない。周囲を見返してやりたいという打算もあった。結局、突き詰めてみれば、ユリトは貧しい娘の前に颯爽と現れた王子を、シイナはひたむきで可憐なシンデレラを演じていたに過ぎない。
育ちの違いは価値観の相違となり、意見が対立すれば、一言一句、一挙一動が互いの粗捜しの種となり、悪循環に陥った。ユリトは妻を侮蔑の眼差しで見ていたし、シイナは夫の傲慢さに反発した。どちらがどれだけ悪いという問題ではない。途中から互いに理解し合う努力を放棄していた。
だが、夫婦関係の維持については利害が一致し、なんとか体面は保っていた。そして結婚から一年半後、ユリトが倒れる。その時には、二人の間には修復不可能なほど深い亀裂が走っていた。
二人きりの病室で、痩せ細った夫は囁いた。死んでも、君を離さない、と。
――僕の死後、君は自由になれると思っている。だが、僕は君を手放す気はない。いわば、これは、責任の問題だ。
凍るような戦慄と、業火のような怒りが同時に湧き上がった。彼は自分を意思ある人間として扱っていない。一度飼った動物の面倒は最後までみる、そんなレベル。そして拾ってやったはずの下等な獣に看病されているという屈辱が、彼に呪いの言葉を吐かせた。死んでも、君を離さない。
しかし、病人に強く反論するわけにもいかず、話し合うこともなく、ユリトは逝った。
そして、その遺言は現実となる。シイナの意向を無視して、タチバナ家はどんどん物事を推し進めた――シイナの住居、シイナの生活、シイナの将来。彼らの魂胆は見え透いていた。一定の幸福は保証してやる。だからこちらが望む通り、大人しくしていろ、と。
ああ、と絶望した。あちら側とこちら側には、こんなにも隔たりがあるのだと。天上の星と、地上の石ころほどに。だが、安定した暮らしのために、プライドに付けられた傷を放置するには、あまりに若かった。だから、宇宙へ出奔してやったのだ。
〈銀河の最果て〉までエリオが追いかけてきた時は、逆襲された気分だった。
彼ら兄弟はあまり似ていない。ユリトは跡取りとして帝王学を叩き込まれただけに、責任感が強く、神経質なきらいがあった。一方、エリオは奔放に育ち、おおらかというか大雑把な性分だった。両親を大切にし、兄を尊敬し、兄嫁に同情する。超がつくほどお目出度い人物。
喩えるならば太陽。四方八方、他人の迷惑顧みず光を放つ。〈銀河の最果て〉まで届いたその光は、あまりに眩しく、押し付けがましく、だけど確かに温かかった。いつの間にか温かいと感じる自分がいた。
一年、二年、三年、続けて彼はやってきた。だが、四年目には来なかった。一体、何があったのか。磁気嵐によりメールは通信不能。〈宇宙の缶詰〉を流したが、届いたかどうかさえ定かでない。事故か病気か、それとも……諦めたのか。
彼が自分に好意を持っているのは薄々感じ取っていた。だが、人の心は移ろう。北極星すら消えてしまう。身をもって知っていたはずだ。それなのに動揺した己に、何より動揺した。そして次の瞬間、激情に囚われた。光の温かさを撒き散らし、後には残るは、荒涼とした寂寞のみ。やはりエリオもあちら側の人間なのだ。踏みにじられた者を一顧だにしない。
これは、愛などではない。断じて違う。
「……憎悪であり、殺意です」
しぃんとした河面に、小さな呟きが波紋を立てる。
「憎悪も、殺意も、出所は一緒じゃないかね? 内と外、裏返せば、一人の人間に対する執着だ。擬態は心の奥底を映し出す鏡、嘘はつけんよ」
レムの言葉に責めるニュアンスはない。シイナは左右に首を振り、
「あれは私が望んだ、私だけの人形です。実物とは違う」
「君はエリオと話し合うべきだ」
それは柔らかな口調でありながら、死刑宣告にも等しかった。地面に膝をついたまま見上げたレムは、眼鏡のレンズが反射して表情が読めない。
「エリオに黙っているわけにはいかんよ。君が言うように、実物とは違うかもしれん。だが原型ではある。ならば尚のこと、人格の改変はタブーだ」
彼に告白する? できるわけがない。こんな所業を知れば、彼は。
「無理です、絶対……」
喩えるなら太陽。眩しく、清浄で、温かな光。エリオは自分を貞淑な寡婦だと思い込んでいる、だからこその好意。それが偽りだと知れたら……夫の眼差しが甦る。あの眼で、もし、見られたら。
「黙っていてください、お願いです、何でもしますから――」
無様だとは理解していたが、どうしようもなく、縋り付き、懇願する。
人形のエリオは、自分を蔑まない。変わらない。安心できる。彼さえいれば他に何も要らない、たとえ実物が〈銀河の最果て〉に来なくとも。博士さえ黙っていてくれたら、この楽園は保たれる。〈宇宙の缶詰〉に蓋をして、その中だけで一生暮らせる。なのに。
「君は現実のエリオの拒絶を恐れている。それに君がタチバナ家から籍を抜かなかったのは、彼との絆を断ちたくなかったからだろう? これが愛でなくなんだね?」
「…………」
「私は五年間、君を見てきた。当人が気付いていない心の機微も」
――いずれにせよ、責任者として看過することはできんよ。
憐れむような、悼むような、済まないようなその声音に、知る。
決して許されない。見逃されない。断罪されるのだ。
「……言えない。言えるわけない」
シイナは呻き、顔を覆った。
一番高い星に手は届かない。だからこそ地面に這いつくばって必死に集めた星の屑。それすらも指の間からこぼれてゆくのなら、どうして生きてゆけばいい?
河原の小石か、夜光虫か、それとも落ちた涙か、足元がぼんやりと明滅した。泣き崩れるシイナの脇に、レムが屈み込む。肩をさする手は、慰めというよりも、幼子をあやすそれだった。
「ならば、手紙を書いてはどうかね?」
「……手紙?」
「全てを手紙に記し、〈宇宙の缶詰〉に入れて、銀河に流す。……君の告白が届くかどうかは、大いなる宇宙の意思に委ねよう」
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