〈宇宙の缶詰〉5

 喩えるならば月。会う度に印象が違う女だった。


 新月、三日月、上弦の月。十六夜、居待月、有明の月。夜毎満ちては欠けるように表情が変わる。時に満月に行き当たり、ようやく全貌を掴んだと思ったら、絶対に見せない裏の顔が隠れているのに気付かされた。

 彼女は、兄が選んだ相手だった。十五の歳、初めて紹介された日を鮮明に覚えている。

 明るく、快活で、溌剌と笑う。それが自分にとっての『女の子』のイメージだった。実際、当時付き合っていた娘も同級生も女友達もその通りで、『女の子』たちがいるだけで周囲は明るくなった。

 だが、たった四歳年上の彼女は、ことごとくそのイメージを覆した。恒星のように自ら光を放つのではない。隣にいる誰かの光を借りて――あるいはかすめ盗って――、存在を浮かび上がらせる。そう、彼女の本質は陰影なのだ。大昔、月には奇妙な生物が棲んでいると信じられていた。彼女の背負った影には、何が潜んでいるのか。

 品行方正、眉目秀麗、聖人君子だった兄。跡継ぎとして嘱望され、一度も両親に逆らったことがなかった。しかし、その時ばかりは頑として意志を貫き、二人は結婚した。一体、何がそこまで兄を駆り立てたのか。それを考えると空恐ろしくもある。表立っては言わなかったが、内心、自分もこの結婚に反対していた。

 いや、直感したのだ。この女は、兄に相応しくない、と。


 鳥の声でエリオは目を覚ました。といってもニワトリではない、もっと引き絞った弦楽器にも似たそれ。

 空に浮かぶのは満天の星と、緑に茶の縞模様が走る飴玉のような月。壁の半面を占有する窓越しに己を照らすそれらを眺め、ああ、ここは地球じゃないのだと思い出す。

 考え事をしながら寝入ってしまったらしい。半身を起こして伸びをすると、床に落ちた薄青い影法師も同調した。

 割り当てあられた小部屋の居心地は悪くなかった。〈銀河の最果て〉を訪れるたびに通される部屋。元々はスタッフの個室だったのだろう。まめに掃除されているのか、ほこりは無く、シーツも清潔だった。

 時計は午前二時過ぎを指している。エリオはしまったと舌打ちした。作戦を立て直し、もう一度話し合うつもりだったのに。今日の二十四時には銀河特急鉄道に乗らねばならない。できることなら、シイナも連れて。

 自然と嘆息が漏れる。エリオの苦労をよそに、彼女は老人や鳥の相手をしてばかりで、一向にこちらの話に耳を傾けない。

 一体、何が彼女を引き止める? 五年間繰り返した問いは、衛星と同様、エリオの頭をぐるぐる巡り続けている。そういえば老人がのたまっていた、缶詰の中身云々とは、どういう意味なのか、そもそも意味があるのか。

 窓の外では、銀河が流れ、ススキが波打っていた。時折、赤、青、緑と鮮烈な流星が地表をかすめて走り去る。その光景は壮大で不思議で、引き寄せられた。だが、こんな映像は地球でいくらでも入手できるはず。娯楽もない、友人もいない、流行の服も取り寄せられない生活の代償としては、いささか安すぎるのではないか……

 ふいに。エリオは貼り付けられた画の中、奇妙な影を見つけた。河岸をさすらう白い影。それは風になぶられ、頼りなげで、谷間に咲く花を思わせる。推進球ロケットボールで鍛えたお陰か、エリオはすこぶる視力が良い――彼女は裸足だった。

 まさか。エリオはベッドから跳び起きた。



「シイナ!」


 おっとり刀で駆けつけた銀河の水際、彼女は音も無く振り返る。

 寝間着か、部屋着か、彼女の纏う白いワンピースの裾が揺れる。いつもは束ねているプラチナブロンドが舞い、顔の半分に薄い紗を掛ける。四肢はだらりと垂れ下がり、セルロイドの人形めいて冷たく感ぜられる。

 エリオはぞっとした。奇妙な月と河面の星々に晒された表と、対比して、一層深く暗く沈む裏。背負った影には、何が潜んでいるのか――いる。確かに。あまりに禍々しく、物騒で、あやしい獣が。


「こんな、夜中に。どうしたんだ?」


 声が上擦る。シイナの素足は水に浸っていた。二人の距離は三メートルといったところか。


「こんなことしたって、兄貴は喜ばないぞ」


 一歩近付く。一息に近寄るには遠過ぎる。その気になれば彼女はすぐにでも深々とした河に身を投げてしまうだろう。考えなしに声をかけるのではなかったと歯噛みするが、もう遅い。


「帰ろう、シイナ」


 差し出した腕が震える。彼女は無表情で、無機質で、無言だった。

星は高温であるほど赤ではなく青白に燃え盛るという。冷たい面の裏で、彼女が内心、何を考えているのか推し量れない。その一方でシイナは、こちらの欺瞞ぎまんを見透かしているに違いない。それぐらい彼女の眼差しは透明だった。

 ……欺瞞?

 胸中で繰り返す。そう。兄も、両親も、タチバナの家名も、彼女の幸せも、みんな嘘だ。〈銀河の最果て〉くんだりまでやってくる理由はただひとつ。そんなの決まってる。


「俺と一緒に帰ろう。地球へ」


 直感した。この女は、兄に相応しくない、と。

 だが、裏返してしまえば――兄は、この女に相応しくない。ただの嫉妬に成り代わる。

 初めて会った時から、捉えられていた。引き寄せられていた。その影に潜む獣の引力から逃れらない。

 ならば、いっそこの手に――。

 引き寄せようとしたのか、奪おうとしたのか、共に墜ちようとしたのか。白い腕を掴んだと思った瞬間。

 連想したのは芍薬だった。ほんのりと肌色を帯びた花びら、ぎゅっと寄せられた豪奢なギャザー、それが一斉にばらけて雪のように舞い落ちる。

 実際にエリオが見たのは、闇夜に飛び立つ白鷺の後ろ姿だった。きらきらきらきら、金剛石の粒をこぼし、天上へのきざはしを翔け昇る。


「擬態だよ」


 呆然と仰いでいるところに、しわがれた声が降ってきた。振り返れば、ススキに埋もれるようにしてレムが佇んでいた。それこそ擬態めかして。


 ――群れのリーダーは、外敵に近付き、脳に影響を与える波動を発する。それにより相手の奥底に眠る、最も心を揺さぶる存在を探り当て、自身に投影・具現させることで外敵の注意を引き付ける。


 教科書でも読み上げるかの口調。大学の講義でホログラムを見せられているように現実味が乏しかった。


「あれは星から星を移り住む、星間渡り鳥。渡った先には必ず外敵がいる。だが星が違えば、当然、外敵もその性質も違う。それゆえに発達した能力だ」

「……心を揺さぶる存在?」


 理屈はどうでも良かった。胸に引っ掛かった言葉だけ、エリオは繰り返す。


「普通は天敵の姿を投影するのだろうが、人間には種としての明確な『天敵』がおらん――人殺しの数としては蚊と言われておるがな。結果、恐怖するもの、憎むもの、尊敬するもの。そして、愛するものを現す」

 

 愛するもの。ならば。

 一体、何が彼女を引き止める? 五年間巡り続けていた問い。明確に、明白に、非情に、その答えが舞い降りる。

 愛した面影。今はもうどこにもいない。二度と会えないはずのその人――


「シイナは、」


 鳥はすでに遥か彼方。翼を水平に広げ、羽ばたくこともなく、夜を切り裂き、突き進む。いつの間にかエリオは膝をついて、祈りを捧げるような姿勢で見送っていた。レムは続く言葉を厳かに引き取った。

「銀河の最果てで、宇宙で一番幸せな夢を見続けておるんだよ」

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