〈宇宙の缶詰〉4

「彼女の死んだ夫は、俺の兄なんだ」


 痩せぎすの老人は、聞いているのかいないのか、眠そうに眼をしょぼつかせる。一抹の不安を感じつつも、エリオは続けた。


「二人は周囲の反対を押し切って結婚した。だけど、その二年後に兄貴――タチバナ・ユリトは病死した」


 病が発見されたのは、死の半年前。すぐさま入院となり治療が始まったが、若いだけに進行も早く、あっさりと兄は星となった。

 その時、シイナは二十一歳。亡き夫を偲び、一生を寡婦として過ごすにはあまりに若かった。両親――つまり、シイナの義理の――は、第二の人生を歩むように勧めたが、彼女は頑なに籍を抜くことを拒んだ。

 何度も繰り返された家族会議。だが一周忌を迎えた直後、シイナは地球外基地の研究員に応募して、〈銀河の最果て〉へ飛ぶ。誰にも相談せずに。


「多分、意固地になっているだけなんだよ」


 エリオは思う。二人の結婚は猛反対され、結果として押し切る形となった。その手前、さっさとタチバナ家と縁を切り、他の誰かと幸せになるなんてできない。お堅い彼女らしい考えじゃないか。

 だが、両親は心情的にも物理的にも納得済みだ。今は心からシイナの幸せを望んでいる。加えて、このままタチバナ家に残れば、財産や地位を狙っていると穿った見方をされるのではと心配している。ユリトの死すら、若妻が関与しているのではないかと流言が飛び交ったぐらいなのだ。


「地球に戻って、明々白々に清算して、もう一度やり直す。彼女の幸せを考えるなら、こんなど田舎に引き止めておくべきじゃない!」


 バンっとテーブルを叩いた反動に、ボウルが揺れる。


「博士もそう思うだろう?」


 ん、ああ? レムは窓の外、宇宙の彼方に巡らせていた視線をようやくエリオに戻した。そして、のんびりとミルクティーを一口含んでから、


「……幸せとは、主観的なものにすぎない」

「あん?」


 若い自分をからかっているのか、寝言なのか、ボケちゃってんのか。

 不満が顔に浮かんだらしく、レムは穏やかに左右に首を振った。丸眼鏡の奥には、理知的なブルーの瞳が潜んでいる。つまり、と老博士は続けた。


「彼女にとっては、ここが、缶詰の中身なのだよ」





 〈銀河の最果て〉は、夫の死後、ようやく泳ぎ着いた安らげる場所だった。

 だというのに、彼ら――彼はしつこく追ってくる。どうして今更、平穏を乱す? 彼らに望むことなどもう何も無い。ただそっとしておいて欲しいだけなのに。

 エリオが来て三日目。どうにも我慢できなくなり〈庭園〉の見回りに逃げ出す日々が続いていた。

 野原を進むシイナの足取りは乱雑だった。こちらの精神状態を察してか、鳥たちも近寄ってこない。これ以上歩き回っても、悪影響を与えてしまうだけだ。シイナは嘆息して、軌道――いつもの見回りコース――を離脱し、観測基地に戻ることにした。

 ドーム型の白い建物は外から眺めると玩具めいて見えた。ガラス越しに中の様子を窺う。顔を合わせれば、声を荒げずにはいられない。できるだけエリオと会いたくなかった。〈銀河の最果て〉は自分の職場ホームだ。だのにどうして戻るのに、気兼ねしなくてはいけないのだろう。そこはかとない理不尽を感じる。結局、彼ら金持ち連中は、貧しい者から何が何でも搾取しないと気が済まないのだ――


「シイナ」


 にわかに声を掛けられ、大仰に肩が上がる。振り返ると、覗き込んだダイニングではなく、キッチンの勝手口からレムが半身を出していた。


「飲まんかね?」


 と、レムは猫模様のマグカップを掲げ、微笑んだ。


 ふわふわのホイップクリームに、どこか懐かしいキャラメル風味。温かなミルクココアは、強張った身体をほぐし、ささくれた心を和ませた。 


「美味しい。どんなコツがあるんですか?」


 広いダイニングにはシイナとレムの二人だけだ。エリオは個室で寝ているとのこと。久しぶりにリラックスできると思わず頬が緩む。向かいに座ったレムは眼を細め、


「私の姉もよくそんなことを訊いてきたよ。そういえば、君は姉によく似ている」


 私が? シイナはなんだかおかしくなってしまう。だって博士はずっと年上なのに、お姉さんなんて。


「仲の良い姉弟だったよ。身体が弱くて長く入院していてね。彼女の元に本や手紙を届けるのが私の日課だった」

「じゃあ、長いこと会えなくて、お寂しいんじゃないですか?」


 言い終える前に、はたと気付くが遅かった。

 レムはとても優しげな表情をしている。シルバーグレイに染まった髪。柔らかに刻まれた皺。遠い故郷の星を彷彿させる青い瞳。シイナは、ココアの甘さに、急に泣きたくなった。


「彼女が逝ってしまったから、私は〈銀河の最果て〉へ行く決心をしたんだ。たったひとりの身内だったからね」

「……申し訳ありません」


 全然構わんよ。いつもと変わらぬ調子に、安堵すると同時に恐縮する。


「君と同じだ」


 一瞬、何を言われたか理解できなかった。聞き返す前にレムは続ける。


「地球への帰還を勧めるよう、エリオから頼まれたよ」

 ――君の幸せを思うなら、と。


 その一言に。一気に感情が沸点を超えた。

 なんと卑怯、なんと姑息、なんと傲慢な。博士を巻き込むなんて、信じられない。これは内輪の揉め事なのに。


「勝手な言い分です!」

「だから、君の話も聞くべきだと思ってね」


 怒りのままに立ち上がったシイナとは対照的に、穏やかにレムは告げてくる。


「ご主人のことは、残念だったね」


 その一言に。今度は身体中からゆるゆると力が放出した。

 博士は、ずるい。唐突な身の上話だった。五年共に暮らし、その半分以上の月日を二人きりで過ごした。その間、プライベートに立ち入る話はほとんどしていない。だからこそ功を成す策略だった。まずは己の内をちらつかせ、こちらを誘う。わかってはいるが、腹立たしさよりも、親近の情が湧いてしまう。

 まんまと罠にはまってしまった。シイナは諸手を上げて降参した。



 お星様が願いを叶えてくれたのね。きっと他人はそう羨んだに違いない。だがこの結婚は、子どもの寝しなに語ってあげられるような話ではなかった。

 エリオが――ユリトの両親が、自分の帰還を望むのは、結局、家名に相応しくない存在を排除したいだけなのだ。籍を抜かせて、いくばくかの金を与え、二度とタチバナ家に関わるなと。

 婚家に未練があるわけではない。ただ、思い出も、気持ちも、プライドも、何もかも剥ぎ取られるのが我慢ならなかった。彼等は強欲だ。全てを持っているのに、自分に遺されたささやかなものさえ奪おうとする。そして、それが正しいと、当然だと、あなたのためなのよ、と言ってのける。虫唾が走るのはそれだった。彼らは善行を施していると信じて疑わないのだ。かつて自分を取り巻いていた大人たちと同じに。


「私は噂や中傷が怖かったんじゃありません。タチバナの手が届かないところに行きたかった。でも地球にいたら、友人やお世話になった方にまで迷惑をかけてしまう……」


 だから地球外基地スタッフ募集に飛び付いた。おいそれと連絡できない宇宙に逃げ出してしまえば、脅しも意味がない。もちろん、彼らは正義の主張をしているだけで、脅しなんて露ほどにも考えていないのだろうが。しかし。


「……こんなにしつこいなんて。博士にまでご迷惑を掛けて、何とお詫びして良いのか」


 シイナは項垂れる。今更な謝罪だとは分かっていたが、言わずにはおれなかった。赴任して五年、星祭りが来るたびに落ち着きを失いヒステリックになっていた。極大期を迎えた太陽だって、もう少し大人しかろう。だがレムは、咎めるでもなく、説教するでもなく、見守っていてくれた。裏返せば、ずっとレムの優しさに甘えていたのだ。


「今は、どうだね?」

「え?」

「君は逃亡者としてやってきたかもしれない。だが五年経った今、君がここにいる理由は?」

「…………」

「この先も逃げるつもりなら〈銀河の最果て〉に居続けるのは得策じゃない。エリオぐらいならかわしようがあるが、彼らが本気になれば、手荒な手段も辞さんだろう」

 ――君が望むなら、他の地球外基地への紹介状を書いても良い。

 

 だが、レムの言葉が終わらぬうちに、


「違います!」


 シイナは反射的に叫んでいた。自分でも驚くほどの大音量で。

 もちろん、博士は、心底シイナを案じて申し出てくれたのだろう。それについては、途方も無い感謝と友愛を感じる。だけれども、だからこそ、はっきりと伝えねばならない。湖面の静けさを湛えたレムを真っ直ぐに見据える。


「確かに私は逃げてきました。でも、今は」


 星の河、銀の原、白い鳥。ガラスパネルの向こうに広がる宇宙。それらは最早、自分とは切り離せない。逃げ出した地球の外。だけど、いつの間にか幸せのラベルは、内と外、張り替えられていた。レムならば、いやレムだからこそ、この気持ちを理解してくれるはず。


「……私は、ここに居たいんです」


 それは哀願だった。視線が、固く、深く、きつく、結ばれる。

 宇宙の片隅に二人ぼっち。それでも、シイナは〈銀河の最果て〉に留まりたかった。

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